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日常系ファンタジー  作者: 青井渦巻
運命の章
155/171

ハンカチ

メイドのオディールさん。

 あるお屋敷に、1人の青年が住んでいた。


 彼の名はケビン。誉れ高い冒険者ギルドの創設者であり、ベテランの冒険者でもある。




 そんな彼に仕える、1人のメイド。名はオディール。


 実は彼女は、ある秘密を隠していた。




「ケビン様の視線はいつでも官能的ですわ」




 等身大の主人のフィギュアを抱えたまま、彼女はペンを走らせる。


 ケビンとの生活を記録するため、オディールは細かく日記を書いているのだ。


 今日も今日とて、彼女の漲る記述欲は留まることを知らない。




「ご主人様の神の如き優美な視線は、如何なる物質性、如何なる精神性の上に齎されるのか……これぞ神秘ですわ」




 自分の部屋の中で興奮する彼女は、完全に無我夢中である。


 それゆえ、彼女の耳は役立たずだった。どんな音も拾おうとしなかった。


 そのくせ、いつも主人の声だけは犬のように待っていて




『オディール』




 と、微かに響いてきた低い声だけは聞き逃さない。


 自分の名を呼ばれた彼女は、すぐさま等身大フィギュアを洋服タンスに仕舞った。


 このメイドのスペックは、ケビンに対する時だけ爆発的に上がる。




「お呼びでしょうか、ケビン様」




 ケビンの待つ部屋の扉を開けた途端、いつも通りのクールな使用人を装うオディール。


 ケビンはなにも気付いてはいない。




「お前は呼んだらすぐに来てくれるな」


「主がお呼びになられたのですから、当然の事です」


「それほど肩肘を張る必要はないぞ」


「……はい。お優しい心遣い、ありがとうございます」


「ふっ。オディールのような従者が居てくれて、俺は幸せ者だよ」




 彼は優しく笑うと、おもむろにオディールへ近づいて行く。


 主人の急な接近に、オディールは内心、気が気ではない。


 だが、表情はまったく変えずに立っていた。




 ケビンは手に持っていたものを彼女へ差し出す。




「大した用事ではないが、これを洗っておいてくれないか」




 差し出されたそれを受け取って、恋するメイドは精神的に瞠目した。


 預けられた物は、1枚のハンカチだったのである。




「俺は少し出る。ギルドの仕事が立て込んでいるのでな」


「は、はい。いってらっしゃいませ……」




 少し急いだ様子で、足早に部屋から出て行くケビン。


 彼を見送ったオディールは、扉が閉められると同時に、ハンカチに目線を落とす。




「………………」




 彼女の頭の中に、ある禁忌の衝動が浮かんでいた。


 従者としてあるまじき、最も忌むべき背徳。


 だが、もし実行したならば、大きく心を満たしてくれるであろう妄想。


 気持ちに正直に行動できたなら、どんなに幸福だろうか。




「このハンカチ、こっそり盗んで――」




 衝動が抑えられず、思わずそこまで口にしたが、途中で口を噤む。


 それをしてしまっては、もはや自分はメイドではいられない――ギリギリのところで、そう思いとどまった。


 だが、もし紛失したと報告しても、ケビンならば許してくれるのではないか。奥の方には、そういう気持ちもあった。


 手の上に安置された1枚の布切れを、彼女はひどく持て余す。




「いけませんわ」




 懸命に首を振り、さっさと洗ってしまおうと部屋を出る。


 洗濯場へと歩き出したメイドは、脇目も振らず、淑やかに前進した。


 まるで尾を引く感情などないかのように、ただの職務を遂行する者と化す。


 どこかで立ち止まってしまうと、我知らず自室へ運んでしまいそうだった。




 洗濯場を目指す道中、広い廊下で1人の執事とすれ違う。


 執事の名はタルコス。オディールと同じく、屋敷に使える同僚だ。


 スマシ顔のメイドを確認した彼は、軽く声をかける。




「オディールさん、お疲れ様です」


「お疲れ様です、タルコスさん」


「ケビン様も外出なされたことですし、久しぶりに掃除勝負など致しませんかな?」


「申し訳ございませんが、今は結構ですわ」




 オディールは立ち止まるわけにもいかず、普段通りに歩きながら、彼をスルーしようとした。


 だが、目敏いタルコスは彼女の変化を逃さない。


 彼は「おや?」となにか気付いたような顔をして、オディールの両手に抱えられた物を注視した。




「それはなんですかな、オディールさん」




 そうして声を掛けられた瞬間、オディールは心臓が飛び出るほど驚いた。


 しかし、極まったポーカーフェイスは崩れない。


 仕草にさえ動揺は見せずに、彼女は冷静に立ち回る。




「ハンカチですわ。では」




 強引だとは思いつつも、なるべく自然に立ち去ろうと画策する。


 彼女はタルコスの隣を通り過ぎ、いよいよ背後へ回ったが――




「ふむ、少しお待ちなさい」




 あろうことか、明確なストップを喰らってしまった。


 制されたのに立ち止まらなければ、その方が疑いを生むだろう。


 そのため、彼女に立ち止まる以外の選択はできない。




 ピタリと足を止めて、タルコスの方を振り返る。


 そして、極めて冷静に取り繕いながら言った。




「なんですか?」




 完璧な普段の表情、完璧な普段の振舞い方。


 メイドとして相応しい所作を、たった1秒の動作に詰め込んだ。


 表面上ではなにも変わらない、いつもの彼女である。




(盗みたいですわ、でもいけませんわ、盗みたいですわ、でもいけませんわ、盗みたいですわ、盗みたいですわ、でも盗みたいですわ、盗みますわ)




 危惧した通り、内面ではまったく平常を保てていなかった。


 ものの数秒で、決行の意思を固めてしまっていた。


 それこそ、振り向くまでの動作と並行して、この思考は行われたのである。




 さすがのタルコスも、彼女の精神の乱れには気付けない。


 なんらの違和感も持たないまま、彼は言った。




「それは洗濯場に持っていくのでしょうが、もし良ければ私が洗って差し上げますぞ」


「なぜです?」


「私が洗う方が、時間が掛かりませんのでな」




 彼の申し出は、特に断る理由もないものである。


 だが、既に背徳の味を期待しているメイドにとって、他者にハンカチを預ける行為などありえない。


 彼女はその脳内で、誤魔化すための理由をたくさん考えた。




「まあ、ありがたいですわね。ですが、これをお渡しするわけには参りませんの」


「ほう?」


「なぜなら、これはケビン様のハンカチなのです。ご主人様は私に洗濯するよう命令されたので、この仕事は私がこなすべきものですわ」


「なるほど」




 思い浮かんだ出任せの中で、最も自然で、且つシンプルなものを採用した。


 実際に、理由を聞いたタルコスは引き下がった。




「少しお節介でしたかな。お引き留めして面目ない、オディールさん」


「いえ、お気遣い感謝いたします。失礼いたしますわ」




 執事はまんまとオディールを解放する。


 その後、オディールは当然のように洗濯場に向かった。


 そして、目的地へたどり着いたと同時――ハンカチの匂いを嗅いだ。




「スンスン……」




 犬のように鼻を鳴らして、彼女は頬を赤らめる。


 自らの行為の浅ましさと、鼻孔から伝わってくるケビンの匂いとを感じて、マゾヒスティックな快感を得ていた。


 もちろん、洗濯などしない。これは自室に持ち帰って、永久に保存するのだ。




 そう考えて、メイド服のポケットにハンカチを仕舞い、彼女が振り向いた時。


 ――眼前にはケビンの姿があった。




 まさか、見られた?




「オディール、1つ言い忘れたことがあったんだ」




 否。


 ケビンはオディールの背中を見たために、密やかに行われた背徳を目の当たりにしていない。


 彼はただ、言い忘れたことがあったために、戻って来たらしかった。




 はしたなく、ごくりと唾を呑み込んで、オディールは冷静になろうとする。


 自分の犯行は、まだ明らかになっていない。計画はまだ生きている。


 内心で強く繰り返し、あくまでも自然に微笑んでみせた。




「……はい。なんでございましょう、ケビン様」


「それはテレサのハンカチで、俺のではなく――」




 オディールはハンカチを落とした。


 ふと、世界から音が消えた。




『それはテレサのハンカチで、俺のではなく』


『それはテレサのハンカチで、俺のではなく』


『それはテレサのハンカチで、俺のではなく』




 そこから続く主人の言葉は、断片さえ聞こえなかった。


 最初に放たれた言葉のみ、彼女の頭でリフレインとなった。




 微笑んだ表情のまま、石のように固まったオディール。


 徹底的に日常を演じていた、抜け目ない彼女の姿は、もうどこにもなくなっていた。


 浅ましく嗅いだ臭いが、石化した彼女の身体に充満した。

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