海岸散歩
アーチャーの少女・エリンは、明け方の海を眺めるのが好きだった。
朝早く起きて、仲間たちにも内緒で宿を出る(彼らはそれに気付いている)。
夜の温まりきらぬうちに、宿にほど近い小さなビーチへ行く。
僅かに白んだ空の色が、海面の深い青に混ざるのを眺めて、一日を迎えるのだ。
「おはよーございます!」
ニワトリよりも早く鳴くことが、彼女のモットーである。
裸足になって砂浜に足を埋める。足の裏に当たる、サラサラとした感触が気持ち良い。
着てきた服のまま海水を一浴びする(遊泳禁止)。後で着替えるので、特に問題はない。
海岸を歩いて、冷たさとサラサラを楽しみつつ、満足するまで散歩する。なんか誰もいなくていい感じ。
否、誰もいないこともない。
それは別に、エリンが存在しているとか、下らないシャレではなく。
「あれ?」
童女のごとく幼気に遊ぶ彼女は、不意に人の姿を見た。
視力の良い彼女には、表情までハッキリ見える。そこにいたのは、悲し気な顔の女性だ。
その人は砂浜をなぞって、頻りになにかを描いている。
こんな時間に、自分以外の人物を見かけるのは珍しい。
ちょっとしたサプライズに嬉しくなったエリンは、女性へ話しかけることにした。
少し遠いので、向こうの耳に届くくらいの声を発する。
「おねえさーん!なにしてるんですかー!?」
彼女の声を聞いて、女性はサッと振り向いた。
それは警戒の動作であった。
女性は身を固めて、用心深い視線をエリンへ返す。
「――?」
「はーいー?なんて言ってますかー?」
「――なの?」
「ごめんなさーい!聞こえませーん!」
声が小さいのか、距離が遠いのか、言葉は明瞭に届かない。
なので、エリンは満面の笑みを浮かべて、女性を手招きをする。
しかし、彼女はそっぽを向いて立ち上がり、その場を去ろうとした。
「あっ、待ってよ!せっかくだから話そうよー!」
「………………」
慌てて引き留めても、彼女は歩みを止めようとしない。
海岸に誘って、一緒に散歩をするつもりだったエリンは愕然とした。
慌てて女性を追いかけ、その身体を大げさに捕まえた。
突然しがみつかれ、女性は困惑を示す。
「待ってよー!海であそぼーよー!」
「な、なんなの……!?やめてくださいッ!」
「え?なにを?」
自分が過剰なスキンシップを取っていることに、エリンは気付いていない。
昔から彼女は、人懐っこくて素直な少女なのである。これが普通のコミュニケーションだ。
「おねえさん、オナマエなんていうんですか?」
「……アイクですっ!もう満足ですか!?」
「私はエリンです!アイクさん、私と一緒に、海岸を散歩しませんかっ!」
「本当になんなんです!?」
押せるだけ押すのが彼女の話術だ。
アイクと名乗った女性は、その巧みな誘導にまんまとハマってしまった。
――かくして両者は、海岸での散歩を開始した。
さざ波の音が、登り始めた太陽を歓迎している。
一緒に海岸を歩きながら、エリンはある質問をした。
「アイクさんはさっき、なにをしてたんですか?」
「……魔法陣を描いていました」
「あー、やっぱり!友達が魔法陣を描くところ、実は私も見たことあるんです!」
エリンの親友に、アリエルという呪術師の少女がいる。
彼女とダンジョン探索をする時など、即席の魔法陣を描くところをよく見るのだ。
動作にどことなく見覚えがあったため、エリンはそうではないかと予想していた。
「どんな魔法を使うつもりだったんですか!?……あ!!もしかしてハナビ!!」
「いえ……ハナビなんて、そんな派手なものじゃ」
「あれ?そうなんですか……じゃあ、海を赤色にする魔法かなぁ」
「あ、赤色……ちょっとステキですけど、ぜんぜん違いますっ」
彼女らの感性は微妙に似ているらしく、赤い海=ステキという見方は合致している。
それはともかく、エリンの予想はハズレばかりだったようだ。
彼女は「えー?えっと、それなら……」と、魔法当てに興じていた。
すると、アイクは彼女から眼を逸らしたまま呟く。
「――自然化の呪法を、発動するつもりでした」
その声がなぜか物悲しく響いて、エリンは一瞬、息を止めた。
ふと心が締め付けられて、思わず泣きそうになるような感覚。
それは意識する間もなく消えたが、すぐに彼女の口を開かせた。
「その呪法は、アイクさんにとって悲しいものですか?」
「……え?」
真面目な顔の彼女が、唐突にそう質問する。
それだけで、アイクは動揺を見せた。
しかし答えたくないのか、口を噤んでしまう。
アイクのことが知りたくなって、エリンは再び問いを口にする。
「本当は使いたくない呪法なんじゃないですか……?」
彼女は『自然化の呪法』について、その効力さえ知らない。
しかし、自らの心が感じた刹那の哀しさは、まぎれもない真実だと分かる。
日頃からダンジョンに命をかけている彼女の勘は、鋭く研ぎ澄まされていた。
「…………なぜ、そんなことを」
「アイクさんの声で、私の心がきゅってなったから」
「きゅ……?」
「はい。きゅっ、です」
なかなか人には伝わらないとしても、彼女は自分の感覚を信じている。
それくらいの才覚を持っていないと、冒険者としてはやっていけないのだ。
事実、その鋭敏さは相手の心境を正確に捉えていた。
澄み切ったエリンの眼に、アイクは根負けしたのだろう。
「すごいですね、エリンさん」
少し微笑みながら、指摘された感情を暗に認める。
彼女から急に褒められたエリンは、未だに大真面目な顔で「ありがとうございますっ」と返した。
「うふふ。あなたはフシギな人ですね」
アイクはクスッと笑って、エリンをそう評した。
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自然化の呪法はその名の通り、存在を自然物へと変化させる呪法だ。
対象とされた存在は、元がなんであろうと、等しく現世界との関係を失う。
人間であれば生存と死を失い、それをもって始めから無かったものとなる。
アイクはその呪法を、自らに使用しかけていたのだった。
たまたまエリンに話しかけられたが、そうでなければ実行していただろうと語る。
肝心のエリンは、その説明を聞いてもよく理解できなかった。
とはいえ、なんとなく危なげな呪法を止められたとして、心から喜んだ。
「アイクさんが自然化しなくて、本当に良かったです!」
エリンは晴れやかに言ったが、アイクは冴えない表情をして黙り込む。
そんな彼女を心配したエリンは、彼女の顔をひょこっと覗き込んだ。
「どうしたの?」
「……私は消えるべき存在なんです。生きていれば、人を不幸にしてしまうから」
「アイクさん……」
自嘲を浮かべて呟く彼女は、どこか追い詰められたような顔をしている。
どうしてそんな言葉を口にするのか、エリンには分からない。
ただ、少し前まで同じ顔をしていた人を、少女は知っていた。
同じパーティに属する仲間で、治療術師のガジル。
彼は自分を責め、自分を役立たずのように思っていた時期がある。
その頃の彼とアイクの表情は、似た気配を持っているのだ。
(こんな時、ゼブラくんならどうするかな?)
エリンはそう考えてみた。
パーティのリーダーであるゼブラは、いつだって必要な時に必要な言葉をくれる。
そんな彼であれば、今のアイクにどんな風に声を掛けるだろうか。
しばらく考えてみて、少女は自分なりに言葉を見つけ出した。
「アイクさん!」
「……なんですか?」
「私、アイクさんと一緒にいるのが楽しいです!だから……どこにも消えないでほしいです!」
思ったままで、拙すぎて、気持ちを伝えきれないかもしれない。
「アイクさんと海岸を歩けて、すっごくハッピーでした!それに、アイクさんとお話できて、ものすごく嬉しかったです!海を一緒に散歩するのって楽しいですよね!アイクさんも同じ気持ちだったらいいなって……えへへ」
それでも、アイクが微笑んでくれればと、彼女は懸命に想いを伝えた。
アイクの手を両手で包んだまま、アイクがどれだけ自分に喜びを与えてくれたのかを語る。
まとまらない気持ちでも、諦めずに伝え続けた。
アイクはちょっと驚いた様子だったが、少女の懸命さを受け止めたようだ。
彼女はエリンの願いの通り、そっと笑う。そして言った。
「ありがとうございます、エリンさん……」
温かな表情を見ると、エリンはパッと明るい顔になった。
しかし、彼女は続ける。
「けれど、私はもう行かないといけません。さようなら」
「えっ……?」
「この世界には、本当に、優しい人ばかりです」
その言葉と共に、エリンの視界は暗闇に包まれた。
突然のことに、彼女は身動きさえ取れない。
「ア、アイクさん……!?」
名前を呼んでも返事は無かった。
――再び視界が開けた時、目の前にいたはずのその人は、もうどこにもいない。
エリンはすぐに辺りを見回したが、広がるのは無人の砂浜だけだ。
そうして、一人になった彼女の頬に、朝の日差しが差し込んだ。
エリンの心は、またきゅっと締め付けられた。




