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――三日後
この日は、婚約パーティに向けた準備の日だった。
エナン公爵家の手配で、仕立屋と宝石商がランベール家にやって来ることになっている。
侍女たちは朝から落ち着かず、まるで自分たちのことのように浮き立っていた。
しかし、一番そわそわしているのは、どうやら父のようだ。
食後の紅茶のカップを持ったまま、何度も視線を窓の外へ向けている。
そんな父の姿を眺めながら、アデルは思わず微笑んでしまう。
マリエルと継母イルダの姿は、朝食の席には見えなかった。
なんでもイルダの兄、ヴィクトル・ミュラー子爵が訪ねてくるらしく、二人は支度のため自室で食事をとるのだという。
ヴィクトルは時折、このランベール家に顔を出す。
ドミネア国で家業に携わっているが、取引のためにこの国を訪れるたび、予告もなくふらりと現れることが多い。
四十を越えても独身。
流行の香水や小物で全身を飾り立て、マリエルには贈り物を欠かさない。
さらに、侍女たちにまで菓子や小物を配るので、父が苦言を呈したこともあった。
それでも本人は気にしない性格のようで、訪れるたびにたくさんの土産を抱えてやってくる。
「何も今日でなくとも……」
朝食を終えた父は、時計を見てぽつりと呟いた。
アデルも同じ思いを抱いたが口には出さず、父に挨拶をして部屋へ戻った。
公爵家から手配された職人たちは10時に到着する予定だが、ヴィクトルがいつ現れるかは分からない。そのことが父の気がかりなのだろう。
アデルは自室に戻ると、ドレス選びの為に侍女に髪を結い上げてもらう。
鏡に映る見慣れぬ自分の姿に、少し気恥ずかしさを覚える。
これから婚約パーティのドレスを選ぶと思うだけで、結婚が現実味を帯びて胸が高鳴った。
ふと窓の外を見ると、一台の馬車が見えた。
何度か見たことがあるあの馬車、もうヴィクトルが到着したようだ。
エナン公爵家から職人たちが来るまで、まだ時間がある。
鉢合わせにならずにすんだことに、アデルは小さく息を吐いた。
ヴィクトルはいつも軽口をたたき、声と身体が大きく、威圧感がある。
朝から酒やたばこの匂いを漂わせ、馴れ馴れしい態度で接してくるため、アデルは少し苦手だった。
ため息を吐きながら窓から目を逸らし、読みかけの本に手を伸ばす。
しばらくして、部屋の扉を誰かがノックした。
侍女たちとは違う、不規則なリズムのノック音にアデルは身構える。
「アデル、いるんだろ? おじさんだ、開けてくれ」
「もうヴィクトル伯父様、声が大きいわ」
想像していなかった最悪のパターンだ。
今ノックをしたのは間違いなくヴィクトル・ミュラーで、一緒にいるのはマリエル。
扉を開けなければ、きっと侍女を呼びに行く。
忙しい朝に、迷惑をかけたくない。
机の上に読みかけの本を置き、アデルは扉を少しだけ開けた。
「おめでとう! 我が可愛い姪、アデル!」
突然、真っ赤な薔薇の花束を押し付けられ、アデルは一歩後ろに下がってしまう。
その隙に扉を大きく開かれ、ヴィクトルとマリエルが部屋に入ってきた。
大量の薔薇の香りは、ヴィクトルの強すぎる香水にかき消されてわからない。
会うたびに「姪」と呼ばれることに、アデルの胸の中に違和感が広がる。
血の繋がりがない相手にそう言われても、あまりいい気持ちはなかった。
「ありがとうございます」
なんとか笑顔で応じると、ヴィクトルは大げさに手を広げた。
「いやいや、婚約が決まったんだって? 姉さんとマリエルから聞いたよ」
「はい」
「しまったなぁ。アデルが十八歳になったら、俺が結婚を申し込もうと思っていたのに」
若い服装をしているが、皺とシミだらけの父より年上の男。
にやついた口元から覗く乱れた歯並びに、アデルは冗談だとわかっていても嫌な気持ちになった。
結い上げた髪のせいで、ヴィクトルの視線が首筋と胸元を見ているのがわかり、全身が粟立つ。
「そうよ伯父様! 本当はわたしが公爵様と婚約するはずだったのに!」
突然、マリエルが甲高い声でおかしなことを言い出した。
「ん? どういう……ああ、なるほど。アデルが長女だから先に縁談が進んだのか」
「そうよ! ヴィクトル伯父さまが早く姉さまに婚約を申し込んでいれば! 今日だって、私のドレスを選ぶ日だったはずよ!」
マリエルは足先で床を蹴り、小さな唇を尖らせる。
まるで小さい子供のような仕草だ。
「じゃあ今からでも、俺がアデルに婚約を申し込めばいいんじゃないか? なあ、アデルもヴィクトルおじさんの方がいいだろう?」
「それがいいわ、お姉さま! 私が一緒にお父様にお願いしてあげる!」
きゃっきゃとはしゃぐマリエルと、いやらしい笑みを浮かべるヴィクトル。
鼻につく香水の濃さと、二人の馬鹿げたやり取りに、アデルは不快感を覚えた。
胸の奥から、怒りの感情がゆっくりとこみ上げてくるのを感じる。
アデルは呼吸を整え、にやけた顔のヴィクトルをまっすぐに見つめた。
「ヴィクトルおじさま、その冗談は、私には少し難しすぎるようです」
その声はあまりに低く、感情がほとんど感じられなかった。
固まる子爵を前に、アデルは続ける。
「血の繋がりのない私を『姪』と呼んで、可愛いがってくださっていたのですよね? なのに、結婚の申し込み? まさかそんな冗談が、面白いと思っていらっしゃるのですか?」
ヴィクトルの顔から完全に笑顔が消え、眉間の皺がくっきりと浮かび上がる。
アデルの冷たい視線に、居心地の悪そうな苦笑いを浮かべたヴィクトルは、マリエルをちらりと見た。
「おいマリエル、お前が変なことを言い出すから、アデルが怒ってるぞ」
「はぁ!? なに言ってるのヴィクトル伯父さま!」
マリエルは手にしていた流行の扇子を床に投げつけ、伯父を指さす。
「いっつも『アデルと結婚したら俺も安泰だ』って言ってたじゃない!」
「おい、余計なことを言うな!」
「ねえお姉さま、ヴィクトル伯父さまは照れてるだけ。本気なのよ、冗談なんかじゃないわ」
甘ったるい声に、アデルの背筋にぞわりと寒気が走る。
身勝手に振る舞うマリエルに、ヴィクトルは苛立ちを露わにした。
「やめろ、ガキじゃあるまいし」
「ひどいっ!」
甲高い声と怒鳴り声がぶつかり合う。
二人の醜い言い争いに、アデルは静かに息をついた。
一体、何を見せられているのだろう……。
その時、ノックの音が響いた。
「アデルお嬢様。ただ今、エナン公爵家からの使者がお見えになりました」
侍女の声にアデルは姿勢を正し、ヴィクトルとマリエルへ向き直る。
黙ってしまった二人に軽く会釈をした。
「ヴィクトルおじさま、先ほどは素敵な薔薇の花束をありがとうございました」
アデルはにっこりと微笑みながら、部屋の扉を開ける。
廊下に立っていた侍女は、室内にいる二人を見て一瞬だけ目を見開き、すぐに表情を戻した。
「や、やあエイミー。可愛い姪に、婚約の祝いを言いに来てたんだ」
ヴィクトルは慌てて取り繕うように部屋を飛び出し、マリエルもその後を追う。
侍女は何も答えず、アデルだけに頭を下げた。
「ありがとうエイミー。では、私はこれで」
部屋を出たアデルはヴィクトルに一礼し、侍女とともに廊下を歩きはじめた。
後ろから「もうっ!」と、ヴィクトルに八つ当たりするマリエルの声が聞こえる。
廊下を進みながら、アデルは大きく息を吐いた。
マリエルの子供じみた騒ぎに付き合うのは、これで終わりにしたい。
あの子はずっとこのまま変わらない、わかりあえないんだ……。
アデルはすっと姿勢を正し、まっすぐ前を見る。
振り返ることなく、エナン家からの使者が待つ客間へと足を進めた。
そして、あわただしく日々は過ぎ、気づけば一か月が経っていた。




