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エナン公爵家との顔合わせの日。
淡い青色のドレスを着たアデルは、鏡に映る自分の姿を見つめていた。
教会へ行くときは、いつも落ち着いた服装ばかり選んでいた。
でも一度だけ、今日のドレスと同じ色のワンピースを着ていったことがある。
そのときリオンが「君の髪の色にとても似合っている」と恥ずかしそうに呟いた一言が、アデルの胸の奥にずっと残っていた。
その言葉を思い出し、今日彼が来るわけではないと考えながらも、このドレスを選んでいた。
母の友人だったというエナン公爵夫人。
エナン公爵夫妻はこの国で評判がとても良く、その息子ならリオネルもきっと素敵な人なんだろう……
そう思ってみても、アデルの胸はまだ重く落ち着かないままだった。
ノックの音が部屋に響く。
リオネルが到着したという侍女の声に、アデルは静かに目を閉じた。
ゆっくりと呼吸を整え、部屋の扉を開ける。
客間へ向かう廊下で、ひときわ鮮やかなドレスを着たマリエルとすれ違う。
アデルが部屋から出るのを待ち構えていたようだ。
「まあお姉さま! ドレスなんて着てどうしたの? でもぉ……やっぱり平民の血だからかしら? 着飾ってもぜんっぜん冴えないのね!」
マリエルの悪意に満ちた言葉に、アデルは一瞬足を止めたがすぐに歩き出す。
いくら咎めても無視をしても、妹の言葉は尽きることがない。
今日はもう、放っておこう……。
そう決めたアデルの態度に、マリエルはむっとした表情を見せた。
すれ違いざまに侍女を押しのけ、無理矢理アデルの前に回り込む。
「リオネル様も、お姉さまに会った途端『間違えた!』って気づくわ、楽しみね!」
愛らしい顔に嫌な笑みを浮かべ、吐き捨てるように言ったマリエルは、廊下の向こうへ消えていった。
戸惑う侍女にアデルは笑顔を見せ、客間へと足を進める。
大きな扉の前で、アデルは深く息を吸い込んだ。
侍女がノックをすると、中から「どうぞ」と声が聞こえ、扉がゆっくりと開いた。
アデルが一歩踏み入れると、まず父の姿が目に入った。
その向かいにリオネル・エナンがいるとわかり、慌てて頭を下げる。
「はじめまして。アデル・ランベールでございます」
カーテシーをしながら、自分の鼓動が速くなっていくのをアデルは感じていた。
遠くから足音が近づき、誰かが正面に立つ気配がした。
「やあ」
聞きなれた声にアデルは思わず息をのむ。
――まさか、そんなこと。
おそるおそる顔をあげると、見慣れた青い瞳がアデルを見つめていた。
優しく微笑んだその青年は、正装のせいか少し大人びて見える。
目も、声も、笑顔も、見間違えるはずがない。
それは、間違いなくリオンだった。
「リオン!」
「やあアデル」
「ねえ、本当にリオンよね?」
「もちろんだよ。やっと君に会うことが出来た」
「ああもう、信じられない」
「驚かせてごめん」
「だって……名前が……」
「僕はリオネルが正式な名前なんだ、親しい人たちはリオンって呼んでるけどね」
いたずらっぽく肩をあげて笑うリオンに、アデルもつられて笑顔になる。
信じられない、本当にリオンだったなんて……。
ずっと胸を締め付けていた不安と痛みが、溶けるように消えていく。
二人の様子を見ていたランベール侯爵も、最初は驚いた顔をしていたが、次第に穏やかな表情に変わっていた。
「どうやら、二人とも顔見知りのようだな」
優しい父の声に、アデルとリオンは顔を見合わせて微笑んだ。
その時だった。
廊下から侍女たちの制止する声が響く。
扉が開くと同時に、マリエルが勢いよく部屋に飛び込んできた。
ランベール侯爵とアデルは驚きで動けない。
呆然と立ち尽くすリオンのもとへ、マリエルは脇目もふらずに駆け寄った。
「お待たせしてごめんなさい。マリエルよ」
「……ああ」
「わたし長女じゃないの、わからなかったんでしょ?」
「わかってるよ、長女はアデルだ」
突然のマリエルの言動に、リオンは無表情のまま答えた。
マリエルはむっとした様子で、もう一度言い返す。
「だーかーらー、わたしはマリエルよ!」
リオンは呆れたようにマリエルを見つめる。
「知っている。アデルから妹がいると聞いていたからね。で、これはどういうことです? ランベール侯爵」
リオンの言葉に、部屋の空気は一瞬にして張り詰めた。
ランベール侯爵は顔をこわばらせて頭を下げ、すぐにマリエルに部屋へ戻るよう命じた。
「え? どうして? 本当にお姉さまと婚約する気なの?」
マリエルはきょろきょろするばかりで、まったくその場を離れようとしない。
リオンは眉に力を入れ、低い声で呟いた。
「めでたい日にあまり言いたくはありませんが……この者の行動は品位に欠け、無礼なのでは?」
ランベール侯爵はさらに深く頭を下げると、妻にマリエルを部屋へ戻すように命じた。
継母は無言で立ち上がり、リオンに一礼して娘の腕を掴んだ。
「マリエル、お部屋に戻りましょう」
「どうして? 公爵家に嫁ぐなんて嘘でしょ? お姉さまが平民の血を引いているってリオネルさまは知っているの?」
マリエルはそう叫んだあと、ハッとしたように両手で口を押えた。
ランベール侯爵が慌てて駆け寄り、震える手でその肩を掴む。
父から目を逸らし、マリエルは不貞腐れたような顔でアデルを睨みつけている。
その視線を遮るように、リオンがアデルの前に立った。
「一度は我慢するが……次に彼女を傷つけるような発言をしたら、許さない」
その冷たい声に、継母の顔色はみるみる真っ白になる。
一向に態度を変えない娘の腕をつかみ、強引に出口へと押しやった。
母のあまりの力に、マリエルは抵抗する間もなく部屋の外へと連れ出されていった。
扉が閉じた途端、部屋はしんと静まり返る。
ランベール侯爵は「すべて、私の責任にございます……」と、深々と頭を垂れた。
リオンはアデルへ視線を向け、落ち着いた様子で口を開いた。
「大丈夫です。では少しの間、アデルと二人きりで話をさせていただけますか?」
侯爵は頷き、もう一度頭を下げて部屋から出て行った。
アデルは立て続けに起こった出来事に、戸惑いを隠せないでいた。
リオンは手を差し出し、彼女を席へと座らせる。
部屋の扉が閉まっていることを確認すると、優しく微笑んだ。
「大丈夫かい?」
「うん……」
返事と同時にアデルは小さくため息を吐いた。
「アデル……教会では、君をずっと騙していたみたいになって本当にごめん」
「どうして隠してたの?」
「司祭様たちはもちろん知っている。でも、他の人には話していなかったんだ。うちは公爵家だから、余計な気を遣わせたくなくてね。『母がお世話になっていた』とだけ説明していた」
確かにそうだ。
エナン公爵家と聞いてしまったら、皆普通に接することは出来ない。
それでも驚きは消えず、アデルの胸の中にさまざまな感情が押し寄せる。
「でも……こんなの、驚くじゃない!」
「僕だって早く言いたかった。でも、君はいつも子供たちに囲まれていて、タイミングがなかったんだよ」
そう言って、リオンはポケットから小さな箱を取り出した。
中には『結婚式ごっこ』のときに交換した、シロツメクサの指輪が入っていた。
アデルは思わず息を呑んだ。
「このときの誓い、僕は本気だったよ」
「うん……私もこの指輪……大事に持ってる」
恥ずかしさで声が震えてしまう。
アデルは嬉しくてたまらなかった。
リオンは一歩近づき、アデルの前に跪いた。
「アデル、順番が逆になってしまったけど……僕はずっと君のことが好きだった」
「うん……」
「君の気持ちを聞かせてほしい」
「……婚約の話があった時、リオネルという名前を聞いて……リオンならいいのにって思ってた」
「本当?」
リオンの瞳が大きく見開いた。
「うん。だからリオンを見た時、心臓が口から飛びだしそうになっちゃった」
「ははは、ごめん」
リオンのいつもの笑顔に、アデルも自然に笑みがこぼれる。
そのまま二人は見つめ合い、ゆっくりと距離が近づく。
「アデル、僕と結婚してくれるかい?」
「ええ、もちろん」
リオンは今までに見たことがない笑顔を見せ、アデルを強く抱きしめた。
「ねえ、息ができないわ」
「ずっと君を抱きしめたかった。アデル、君の優しさも、考え方も、声も瞳も……ああもう! 全部愛してる」
「私もよリオ……じゃなくて、リオネル。ふふっ、慣れないわね」
「リオンは小さい頃からの愛称だから、そのままでいいよ」
アデルは頬をゆるめ、小さく頷く。
「大好きよリオン……愛してるわ」
「僕も、愛してる」
抱き合ったまま、二人は顔を見合わせる。
リオンはアデルの額に軽くキスをした。
しばらく見つめ合った後、リオンが眉をわずかに顰める。
アデルはその顔を不安そうに見上げた。
「どうしたの?」
「君の妹のことを思い出していた……」
「ごめんなさい、嫌な気持ちにさせてしまって」
「いや、謝るのは君じゃないよ……彼女のことはもう忘れよう」
「……ありがとう」
下を向こうとしたアデルの顔を、リオンの両手が包み込んだ。
互いの瞳が重なり、アデルはゆっくり目を閉じる。
そのとき、壁掛け時計の鐘が鳴り響いた。
一瞬にして二人は現実に戻る。
「もっとこうしていたいけど、行かなきゃだね」
「そうね」
立ち上がろうとしたアデルの頬に、リオンは不意にキスをした。
目を丸くするアデルに、リオンは子供の頃と同じように肩をあげて笑っている。
二人は手を取り合い、部屋を出た。
その後、継母は体調が優れないとのことで、公爵家への訪問を辞退したと父から聞かされる。
アデルは父とともに、公爵家へ向かった。




