10
「アデル、大丈夫?」
そう言われ、アデルはようやく自分の腕に傷がついていることに気付いた。
今はその痛みより、妹であるマリエルのすべてが胸を苦しめている。
「ええ、全然平気」
「あとで手当てをさせるよ」
「ううん、それよりこんな騒ぎになってしまって……」
「いいんだ、君は何も悪くない」
リオンは優しくアデルを抱き寄せる。
ぬくもりに包まれ、その肩越しに見えたのは、母親を探し続けるマリエルの姿だった。
今にも泣きそうな顔で眉を下げ、わざとらしいほど大きく手を伸ばしている。
幼い頃から、マリエルのこの仕草を何度も見てきた。
困るとすぐ母親に抱き着き、見せつけるように甘え、なぐさめてもらう。
いつもそうだった。
こんな年齢になっても、あの子は何にも変わらない……。
腕に浮き上がる、細い傷を見つめ、アデルは小さく息を吐いた。
そこにはもう、怒りも悲しみもなかった。
「おかあさまっ! どこ?」
マリエルが癇癪を起したように大きな声を上げる。
身体の向きを変えるたび、場違いな白いドレスがふわりと揺れている。
何度も呼びかけているが、母親の姿はどこにも見えない。
アデルの視線は、人々に紛れて身を縮めている継母の姿を見つけていた。
扇を顔の前で広げ、まるで自分には関係がないとでも言うように身動き一つしない
「おかあさまどこにいるのっ! お姉さまがひどいのっ!」
この期に及んで姉の悪口を言うマリエルに、会場のざわめきは一層大きくなった。
そのとき、ランベール侯爵とエナン公爵が会場に姿を現した。
談笑していた二人は、会場の異様な空気に気づいたのか足を速める。
中央で騒ぎ立てる娘を見つけた侯爵は、さっと顔色を変え、エナン公爵に詫びを入れる間もなく、人混みをかき分けてマリエルのもとへ向かった。
父親が来たことに気付かないマリエルは、母が見つからない苛立ちに、またアデルを罵倒する。
「本当に最低! お姉さまがこんなに性格悪かったなんて! 信じられないっ」
「マリエル? 何の話をしているんだ?」
「っ、お父様……」
ランベール侯爵の低い声が聞こえた瞬間、マリエルの言葉がぴたりと止まった。
あれほど大声を出していたのに、まるで何もなかったかのように笑顔を作る。
人陰に身を潜めていたランベール夫人が、夫の登場に慌てて姿を現した。
「あっお母さま!」
マリエルは甘えた声で母を呼び、両手を広げて抱きつこうと駆け寄る。
しかしその伸ばした腕を、ランベール夫人は素早く掴んだ。
「もう痛いっ! お母さままでなんなのっ!」
「マリエル、おとなしくしてちょうだい」
「お前たちやめなさい! いった何があったんだ?」
ランベール侯爵は困惑を隠せず、二人の間に割って入った。
エナン公爵はその後ろで、ジョセフィーヌ夫人と何やら話をしている。
張りつめた空気の中、リオンはアデルから一歩離れ、まっすぐランベール侯爵達の元へ進んだ。
三人の正面に立つと、周囲の喧騒に消えいりそうなほど低い声で話しかけた。
「ランベール侯爵夫人。あなたの娘が、アデルに向けて発した言葉について伺いたい」
継母は全く反応せず、マリエルの腕を掴んで微動だにしない。
その異様な様子に、ランベール侯爵の顔色がみるみる無くなっていく。
「あの、リオネル様……私の妻と娘が何か失礼を?」
「侯爵、前にも申し上げましたが、アデルを傷つける者は誰であろうと許しません」
リオンは侯爵の顔を見ることなく、短く言い捨てた。
その声に、継母の肩がわずかに震える。
「ではランベール侯爵夫人……話を変えましょう。さきほど話題に出たドミネア国ですが、先代国王暗殺の後、新国となってからは衰退の一途でした。ご存じですよね?」
「……存じません」
妻の返事を聞いた侯爵は、ハッと顏を見た。
しかし誰とも目を合わせようとせず、俯いたままで微動だにしない。
リオンは続けた。
「先代国王暗殺の後、国はあっという間に衰退。多くの貴族と民が国外へ逃げ、収入も無くなってしまった。そんな状態が続いた二十年ほど前、新国王は大規模公共事業への一番の献金者に、なんと子爵位と領地を与えると触れを出した。その時、莫大な献金をして爵位を得たのが一人だけ……」
アデルのいる位置では、リオンの声が届かない。
耳を澄ませても何も聞こえず、アデルの心にはもどかしさが広がった。
しかし父の険しい表情と、継母に向かって話し続けるリオンの様子に胸がざわついた。
そのとき、リオンが継母に向かって一歩進み出るのが見えた。
「ドミネア国で莫大な献金をして一代貴族になったのは確か──ミュラー子爵」
その名が出たと同時に、継母の手がマリエルから離れた。
リオンを睨みつけるようにして、ゆっくりと顔をあげる。
妻のその反応に、ランベール侯爵は信じられないものを見るような顔をしている。
ただ一人、状況を飲み込めていないマリエルだけが、無邪気な笑顔でリオンに身を乗り出した。
「わたしのおじいさまがミュラー子爵よ! リオネル様知ってるの? ねえお母様、一代貴族って何?」
よく通るマリエルの声が会場に響き、その場が静まりかえった。
アデルは息をのみ、父の顔に絶望が浮かぶのを見ていた。
継母の顔は、みるみる真っ赤になっていく。
会場のあちこちで、声を潜めた笑いが漏れはじめた。
何が起きているのか分からないマリエルは、きょろきょろとあたりを見回している。
リオンはそんなマリエルに近づき、にっこりと微笑んだ。
マリエルの顔が一瞬で明るくなる。
「いいかいマリエル。一代貴族っていうのはね、その名のとおり一代限りってことだ。君の祖父であるミュラー子爵が亡くなれば、住んでいる家は国に返還され、君たち家族は“平民”に戻るんだよ」
マリエルの笑顔が凍りつく。
その表情は、理解よりも怒りに満ちていた。
「なにそれ! 意味わかんないっ!」
「理解できなくても本当の事だ。隣に居る君の母親に聞いてごらん?」
「嘘よっ!」
会場に響くマリエルの叫び声。
継母は口角を下げ、また大声を出そうとする娘の腕を掴んだ。
マリエルの手は震え、色が変わるほど拳を握りしめている。
収拾がつかないマリエルに、アデルは前へ踏み出した。
深く息を吸いこみ、妹の前に立つ。
「……マリエル、周りの人たちに迷惑よ」
「もうっ! 意味わかんないっ! お姉様はまだわたしに意地悪するのっ!?」
会場の視線が二人に集まる。
アデルは頭を振り、目の前の妹をまっすぐ見つめた。
「どんなに大きな声を出して注目を集めても、ここにあなたの味方になる人はいない。泣き真似だって通用しないわ」
「っ……!」
すでに瞳に涙をためていたマリエルは、悔しそうに姉を睨みつける。
アデルは気にすることなく、落ち着いた姿勢を崩さない。
「あなたはいつも私に、早く家を出ていけと言ってたわね」
「それは! お姉さまが、平っ……み」
いつものように『平民の血』と言いかけたマリエルだったが、さすがに先程のことを思い出したのか、言葉を止めた。しかし会場にいる貴族達には聞こえていたようで、揃えたようにため息が聞こえる。
苛立ちを隠せない妹に、アデルは目を細めた。
「私はね、マリエル。あなたがどんなに私を侮辱しても、いつか仲の良い姉妹になれる日が来る……そう思ってた」
薄紫色の美しい瞳が、悲しげに揺れている。
アデルは妹から視線をそらさず、表情も変わらない。
「あなたが生まれた時、可愛い妹が出来たって、私本当に嬉しかったのよ……でも、もうこれで終わり。さようならマリエル」
アデルは目を伏せ、マリエルに背を向けた。
リオンは何も言わずに腕を差し出す。二人は顔を見合わせ、エナン公爵夫妻の元へ向かった。
「もうっ違う! 違うっ!」
「マリエルやめなさい!」
周囲の視線も気にせず、マリエルは手を振り上げて地団太を踏んだ。
近くの椅子が倒れ、会場の空気は完全に最悪なものとなる。
ランベール侯爵が会場に向かって深々と頭を下げた。
「皆様。このような晴れの日に、まことに失礼を……」
「お父さま! マリエルは悪くないのに!」
「いい加減にしなさい!」
「ひっ……うぅっ」
「お前もだ、イルダ!」
「……」
侯爵は再び会場に一礼すると、エナン公爵夫妻とアデルに向き直った。
苦痛にゆがんだ父の顔に、アデルの胸が締めつけられる。
父の視線がアデルに向けられ、二人は目が合った。
優しく微笑んだ父は、そのまま目を逸らし、手を上げて警備を呼んだ。
泣きじゃくるマリエルと継母イルダは、警備に連れられ会場の外へと消えていった。
ランベール侯爵はその後に続き、去っていった。
会場はしんと静まり返り、貴族たちはその後ろ姿を見つめている。
三人が消えた扉を見つめるアデルの背中に、リオンがそっと手を添えた。
その時、優雅なワルツの旋律が流れはじめ、小さな歓声が上がる。
ジョセフィーヌ夫人は会場を見回し、パン、と軽快な音を立てて手を叩いた。
「さあ皆さん、音楽が始まりましたわ。今日は婚約パーティー。若い二人を祝福してくださいませ」
まるで長い夢から覚めたように、貴族たちは次々と踊り始めた。
楽しそうな笑い声が聞こえ、会場が再び華やかさを取り戻す。
ジョセフィーヌ夫人が、笑顔でアデルとリオンの背中を押した。
二人は顔を見合わせ、ホールへと足を踏み出す。
リオンはアデルの瞳を見つめ、口を開いた。
「すまない、僕のせいで騒ぎにしてしまった」
「ううん、マリエルが大声を出したのがいけないの……」
アデルは音楽に合わせてくるりとターンをする。
ドレスの裾がふわりと広がった。
「それにね、今は……」
「今は?」
「ずっと胸につかえていたものが消えた気がするの。ありがとうリオン……大好きよ」
アデルはそっとリオンの胸に顔をうずめた。
きらめく会場の中、笑い声や旋律が遠くに聞こえる。
リオンがアデルの耳元で何かを囁き、抱き寄せる腕に力をこめた。
愛する人の声と鼓動を聞きながら、アデルは今までない幸せを感じていた。




