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アデルの背中が一気に粟立つ。
同時に腕を強く引き寄せられ、マリエルの顔が目の前に迫った。
甘ったるい香りが、鼻腔に流れ込んでくる。
マリエルは周囲に声が聞こえないよう、アデルの耳元に口を寄せた。
「お姉さま、素敵なパーティね。でも残念、婚約はお流れになるわ」
「どういうこと?」
「だって、お姉さまぜーんぜん釣り合ってないもの。ここにいる人達だって、皆わたしのことばかり見てるじゃない?」
「えっ……?」
アデルは祝いの日ですら、こんなことを言ってくる妹にうんざりした。
姉の困惑の表情を、マリエルはくすくすと笑いながら見ている。
ふと、その視線がアデルの首元へと移動した。
マリエルの瞳が大きく見開かれる。
「ねえ、そのネックレス素敵っ! わたしのほうが絶対似合う!」
耳を刺すような声と同時に、マリエルがネックレスに手を伸ばした。
アデルはその手を反射的に払いのけ、一歩下がる。
「痛っ、なにするのよ! やっぱりお姉さまには平民の血が流れてるから、野蛮なのね!」
「平民の血が……どうしたって?」
冷たい声がアデルの後ろから聞こえてきた。
振り返ると、そこにはリオンが立っていた。
今までに見たことがないような険しい表情で、マリエルを凝視している。
さっきまでリオンと話していた継母は、アデルたちの会話に気付いていないのか、少し離れた場所で微笑んでいた。マリエルと一緒にいた若い貴族は、「平民の血」発言を聞いた瞬間に、慌てたようにその場から離れた。
リオンに声をかけられ、マリエルの唇の端がゆっくりと上がっていく。
一歩前に出ると、まるでアデルなどいないかのように、上目遣いでリオンの顔を見上げた。
「リオネル様。この前のわたしの話、嘘だと思ってるんでしょ? だから怒っちゃったんでしょ?」
「……何の話だ」
「お姉さまが貴族じゃなく平民だってことです。これは嘘じゃなくて本当なんです! 驚いたでしょ? 公爵家に平民の血だなんて、リオネル様は騙されてるんですっ」
マリエルの甲高い声が会場に響いた。
その言葉に、広間のあちこちで囁く声が聞こえる。
アデルは、マリエルがリオンの怒った理由をまるで理解していなかったことに、呆然とした。
「……マリエル、平民も貴族も何も変わらないよ」
「変わりますわっ! 平民はなーんの取り柄もなくて貴族のおかげで暮らせてるって、お母様がいつもそう言ってるもの」
むきになるマリエルに、リオンは小さくため息をつき視線を移した。
マリエルの大きな声が聞こえていたのだろう、侯爵夫人は真っ白な顔で目を逸らす。
周囲には、ざわめきが広がっていた。
重苦しい空気の中、ジョセフィーヌ夫人が優雅な足取りで現れた。
「楽しそうな雰囲気だったけれど、どうしたのリオン? あら、こちらは?」
「マリエル・ランベールです!」
マリエルは元気よく名乗り、真っ白なドレスをふわりと広げてカーテシーをした。
「あら、アデルの妹というのはあなたなのね。はじめましてマリエル。今日はとても良い日ね。あなたのお姉さまが私たちの家族になってくださるのが、本当に嬉しいわ」
ジョセフィーヌ夫人の言葉に、マリエルは不満げな表情を浮かべた。
それを気に留めることなく、夫人はアデルに近づき、全身を眺めてほうっと溜息をつく。
「ああもう、本当に素敵ねアデル」
「ありがとうございます」
「そのネックレス、とても懐かしいわ。あなたの瞳に本当によく映えて……そうね、その薄紫色はセレスティーヌと同じだもの」
「先日、父からいただいたばかりなんです」
「そうだったのね。あなたを見ていると若い頃を思い出すわ。セレスティーヌはまるで春の光のような人だったの。私の一番の親友でね――」
二人の会話に、マリエルが割り込んだ。
「えっ? 公爵夫人は平民とお付き合いがあったんですか?」
再びの無神経な言葉に、会場が一気にざわめいた。
ジョセフィーヌは冷たい瞳でマリエルを見据え、僅かに眉を寄せる。
小さく首を横に振り、静かに口を開いた。
「マリエル、私は身分で人を分けません。生まれを理由に他人を貶めるのは、もっとも下品な行為です。それに、あなたはご存じないかもしれないけど、私自身が平民の出なのですよ」
「えっ、うそ?」
「いいえ、本当よ。私の遠い祖先は農民でした。信心深く、当時の司祭に書記官として選ばれ、司祭が亡くなった後、その功績を認められて司祭に任命されたのです。これはこの国では公然の事実です」
「でもっ、司祭様は特別でしょ?」
口を尖らせたマリエルは、不満そうに周囲を見回して同意を求める。
しかし会場はひそひそとした声に包まれるばかりで、誰もマリエルと目を合わせようとはしない。
ジョセフィーヌ夫人は、大きなため息をついた。
「マリエル、あなたに話す必要はないのですが、先程話していたアデルの母親セレスティーヌ。彼女こそ“平民”ではありません。私の大切な友人は旧モルディア国の王女だった方です」
会場が一斉に静まり返った。
夫人はさらに、アデルの母が命を狙われた為この国に来たこと。そして、モルディアはドミネア国となり、新国王の暴政によって滅亡の危機にある現状を明らかにした。
二十年以上前、モルディアで起こった宰相の謀反の話は、この国でも広く知られていた。
モルディアは平和な国とされていたので、近隣の国に大きな衝撃を与えた。
ドミネア国になってから良い噂はなく、旧王家の人々を気にかけている者も多かった。
会場の視線が、アデルとマリエル、そしてその母へと集まる。
ジョセフィーヌ夫人の突然の言葉に、継母は目を見開いたまま俯き、扇子で顔を隠した。
マリエルは首を傾げ、「ドミネア国? おじいさまの……?」と呟いている。
夫人はマリエルを見ようともせず、アデルへと視線を戻した。
「アデル、勝手に話してごめんなさいね。大丈夫かしら?」
「はい公爵夫人……それよりも、妹の非礼を深くお詫び申し上げます」
「気にしなくていいのよ。私は何とも思っていないわ」
ジョセフィーヌ夫人は眉を下げ、優しく微笑んだ。
アデルはほっと息を吐いたが、体に残る緊張はすぐには消えない。
リオンに声をかけようとした瞬間、細い腕が胸元へ伸びてきた。
驚いたアデルの瞳に、頬を紅潮させ、唇をゆがめたマリエルの顔が映る。
「きゃっ」
アデルは隣にいたジョセフィーヌ夫人と共に、反射的に一歩後ずさった。
目の前で、リオンがマリエルの手首を掴んでいる。
「痛いっ!」
マリエルの大きな声に、リオンは思わず手を離した。
会場が一斉に静まり返り、好奇の視線が三人へと集まる。
掴まれた手首をさすりながら、マリエルはアデルを睨みつけた。
「お姉さまって最低っ! ずっとわたしのこと馬鹿にしてたんでしょ? 『私はお姫様の子供なのにー』って、笑ってたの? なんて意地悪なの!」
早口でまくしたてながら、マリエルはふたたびアデルの首飾りへ手を伸ばした。
細い指が宝石に触れる寸前、アデルはその腕を強く払いのける。
マリエルの爪がアデルの白い腕をかすめ、赤い線が走った。
「ひどいっ!」
「やめてマリエル。ひどいのはどっち? ずっと馬鹿にしてたのはあなたでしょう?」
アデルの冷たい声に、マリエルはその大きな瞳を異様なほどに見開いた、
唇を震わせ、助けを求めるようにきょろきょろとあたりを見回しはじめる。
リオンがそっと、アデルの腕に触れた。




