第92話:龍馬の慧眼
殺気立った空気が一変し、新八が提示した「株式会社」という未知の言葉。
それは、金が金を生み、身分を超えて国を動かす魔法の仕組。
稀代の風雲児・坂本龍馬は、この未来の概念をどう受け止めるのか。
12月1日 いただいた感想を参考に、継続的な配当の魅力を強調するセリフに書き直しました。おかげでシーンに深みが出ました、感謝です!
「『株式会社』……?」
坂本龍馬が、鸚鵡返しに呟いた。その声には、未知の響きに対する純粋な好奇心と、獣が獲物の匂いを嗅ぎつけたかのような鋭い緊張が混じり合っていた。彼の双眸が、爛々と輝きを放ち、俺の心の奥底まで見透かそうとするかのように、真っ直ぐに突き刺さる。
京の隠れ家の一室。ほんの半刻前まで、憎悪と殺気が渦巻いていたこの場所は、今や奇妙な熱気に満たされていた。俺が提示した「新国家構想」に魂を揺さぶられた中岡慎太郎は、未だ言葉を失ったまま、畳の一点を見つめている。そして、風雲児・坂本龍馬は、俺が放った最後の切り札――近代資本主義の根幹をなす魔法の言葉に、全身の神経を集中させていた。
「ほう……面白い響きじゃのう。して、その『かぶしきがいしゃ』ちゅうんは、一体何もんじゃ?異国の呪文か何かか?」
龍馬は、にやりと口の端を吊り上げた。値踏みするような、それでいてどこか楽しげな視線。この男は、理解できないものを前にしても、決して臆することがない。むしろ、その未知の領域にこそ、己の活躍の場を見出す天性の勝負師なのだ。
「呪文、か。ある意味ではそうかもしれない。金が金を生み、人が人を呼び、国を根底から作り変える力を持つ……魔法の仕組み、と言ってもいい」
俺は、あえて彼の言葉に乗った。この男には、小難しい理屈を並べるよりも、その方が本質を掴みやすいだろう。
「永倉さん、もったいぶらんで、教えてくれや。その魔法の仕組みとやらを」
龍馬は身を乗り出した。その様は、まるで新しい玩具をねだる子供のようでもあり、同時に、敵の喉元に食らいつかんとする狼のようでもあった。
俺は一つ息を吸い、この時代の人間にも理解できる言葉を探す。未来の日本では当たり前のこの概念を、どう伝えれば、目の前の二人の天才に響かせることができるか。
「まず、坂本さん。あんたが今、でかい商いをしたいと考える。例えば、異国から蒸気船を十隻買って、日本の産物を清の国に運び、向こうの珍しい品々を日本で売りさばく。そうなれば、莫大な儲けが出るのは分かるな?」
「おう。考えただけでも涎が出るわい」
龍馬の目が、さらにギラリと光る。彼の脳裏には、すでに大海原を疾走する船団と、山と積まれた交易品のイメージが広がっているのだろう。
「だが、そのためには途方もない金がいる。船を買い、乗り組む人間を雇い、荷を仕入れる元手……とてもじゃないが、一個人で用意できる額じゃない。豪商の三井や鴻池でも、ポンと出せる金じゃなかろう」
「うむ。そこが一番の悩みどころじゃ」
龍馬は深く頷いた。彼が長崎でやろうとしていることも、結局はこの資金の壁にぶち当たっているはずだ。
「そこで、『株式会社』の出番だ」
俺は、指で卓を叩いた。
「まず、あんたが『こういう商売で、これだけ儲けてみせる』という計画書を世間に広く公開する。そして、その計画に賛同する者たちから、広く浅く、金を集めるんだ」
「広く、浅く?」
「あぁ。例えば、計画の総資金が十万両かかるとしようか。これを、一人の大金持ちから借りるのではなく、『一口百両』という単位に細かく分ける。そして、千人の人間から百両ずつ出資してもらうんだ」
「……!」
龍馬の眉が、ぴくりと動いた。隣で黙って聞いていた中岡も、はっと顔を上げた。
「金を出した者には、その証として『株券』という証文を渡す。これは、あんたの事業の権利を、千分の一だけ所有しているという証明書になる」
俺は懐から紙と筆を取り出し、簡単な図を書き始める。中心に「龍馬の商い」と書き、そこから放射状に線を伸ばし、小さな丸をいくつも描いていく。
「この小さな丸が、百両を出した出資者たち。彼らは、商人でも、武士でも、腕のいい船大工でもいい。なんなら、自分の畑で採れた綿を高く売りたいと願う農民だっていいんだ。身分は一切関係ない」
「身分が……関係ない……」
中岡が、か細い声で呟いた。彼の心に、再び「身分によらない」という言葉が突き刺さったのが分かった。
「そして、商いが成功し、十万両の元手が二十万両になったとしよう。増えた十万両から、商いの入用と店の蓄えを引く。残った五万両を、出資してくれた千人で分け合う。だが、ここからが肝心だ。この分け前は、一度きりではない。商いが続く限り、毎年、毎年、懐に入ってくるんだ。百両出した者は、何もしなくとも毎年五十両が手に入る。まさに『金の成る木』を持つに等しい。これが『配当』だ」
「なんと……!」
龍馬が、思わず膝を打った。
「自分の金が、『金の成る木』になって返ってくる……。そりゃあ、皆こぞって金を出すじゃろうな!」
「ああ。だが、もっと重要なことがある」
俺は人差し指を立てた。
「もし、商いが失敗し、嵐で船が沈み、十万両が海の藻屑になったら……どうなると思う?」
「……出資した金が、パーになる」
「そのとおり。だが、言ってもそれだけだ。出資者は、最初に出した百両を失うだけで、それ以上の責任を負う必要はない。借金を背負わされたり、家財を差し押さえられたりすることはない。これを『有限責任』と言う」
この一点こそが、株式会社の最も革命的な発明だった。失敗のリスクを限定することで、人々はより大胆な挑戦に踏み出すことができる。
「懸念が少ないとなれば、これまで商売とは無縁だった者たちも、安心して金を出すことができる。眠っている金が、世の中に流れ出す。そして、その金が新しい事業を生み、新しい仕事を生み、国全体を豊かにしていく……。これが、『金が金を生む仕組み』の正体というわけだ」
静寂が、部屋を支配した。
龍馬は、俺が書いた図を食い入るように見つめ、その口は半開きのままになっている。彼の頭脳が、今、猛烈な速度で回転しているのが手に取るように分かった。
蒸気船。鉄道。製鉄所。紡績工場。
一個人の財産では到底不可能な、国家規模の巨大事業。それら全てが、この「株式会社」という仕組みを使えば実現可能になる。薩摩や長州といった特定の藩に頼る必要もない。幕府の許可を待つ必要もない。志と優れた計画さえあれば、日本の民全体を巻き込んで、国そのものを動かす巨大なうねりを生み出せる……!
「……すげえ」
やがて、龍馬の口から、感嘆と畏怖の入り混じった溜息が漏れた。
「とんでもねえ仕組みじゃ……。これさえあれば、わしは……わしらは……!」
彼は言葉を切り、ごくりと喉を鳴らした。その目には、もはや俺個人への興味を超えた、日本の未来そのものを見据えるような、壮大な光が宿っていた。
「永倉さん。あんた、一体何者じゃ……」
龍馬の視線が、再び俺に注がれる。先ほどまでの値踏みするような色合いは消え、そこには純粋な畏敬の念が浮かんでいた。
「こんな途方もない知恵、どこで手に入れた?ただの新選組の組長が、知っているはずもなかろう。まるで、百年も先の未来から来たような……」
ひやり、と背筋に冷たい汗が流れた。この男の勘の鋭さは、常軌を逸している。俺は努めて冷静さを装い、軽く肩をすくめてみせた。
「さあ……。ただ、異国の書物を読み漁り、これからの日本の在るべき姿を考えていたら、自然とこの考えに行き着いただけですよ。俺は、ただの憂国の士です。あんたたちと、何も変わらない」
「……」
龍馬は、じっと俺の目を見つめていたが、やがて諦めたように、ふっと笑った。
「そうかよ。まあ、えい。あんたが何者だろうと、今は関係ない。それよりも……」
彼は卓に両手をつき、ぐっと顔を近づけてきた。その距離、わずか一尺。酒と、この男だけが持つ独特の熱い匂いが、俺の鼻腔をくすぐる。
「永倉さん。あんたの言う『株式会社』、わしにやらせてくれんか」
「……ほう?」
「いや、違うな。わしと一緒に、やらんか。この日本で、最初の『株式会社』を、わしとあんたで、作り上げるんじゃ!」
その言葉は、もはや提案ではなかった。決定事項を告げるような、有無を言わせぬ力強さに満ちていた。
敵か味方か、まだ判断はつかない。しかし、利用できるものは何でも利用する。この男の持つ知識と構想力は、日本の未来を左右する。ならば、今この場で、自分の側に引きずり込む。龍馬の目が、そう雄弁に語っていた。
俺は、彼の挑戦的な視線を真っ向から受け止めた。望むところだ。俺がこの時代に来た目的は、まさにそれなのだから。
「面白い。いいでしょう、坂本さん。あんたのその心意気、買った」
俺がそう答えると、龍馬は「かっかっか!」と、腹の底から豪快に笑った。まるで、長年探し求めていた宝物を見つけたかのように。
「決まりじゃ!いやあ、今日は京に来て、本当によかったわい!」
彼は上機嫌で酒を呷り、そして、今まで蚊帳の外にいた男に視線を向けた。
「なあ、慎太郎。おまんも、そう思うじゃろう?」
話を振られて、中岡慎太郎はびくりと肩を震わせた。彼は、俺と龍馬が繰り広げた、あまりにも次元の違う会話に、完全に思考が追いついていない様子だった。彼の額には汗が滲み、その表情は苦悩と混乱、そしてほんのわずかな希望が入り混じり、複雑な色合いを見せている。
「わしは……」
中岡は、絞り出すように言った。
「わしは、まだおまんを、新選組の永倉を、信じたわけじゃない。おまんらが今まで、どれだけ多くの志士の血を吸ってきたか……わしは忘れん」
その声には、未だ消えぬ怒りと憎しみが宿っていた。だが、以前のような、ただ斬り捨てれば済むという単純な敵意ではなかった。
「だが……」と彼は続けた。
「おまんの語る未来は……わしが夢見た世と、あまりに似すぎている。武士も農民もない、民が主役となる国……。それが、もし本当に、血を流さずに実現できるというのなら……」
中岡は、一度言葉を切り、俺と、そして龍馬の顔を順に見た。
「わしは……この目で、見届けさせてもらう。おまんたちが、一体何を成そうとするのかを。その上で、おまんたちの進む道が、真に日本の為になると判断したならば……その時は」
その先を、彼は言わなかった。だが、その瞳に宿る真摯な光が、彼の答えを物語っていた。もし俺たちの道が正しいと信じられたなら、彼は過去の遺恨を乗り越え、共に歩む覚悟がある。そういう男なのだ、中岡慎太郎という男は。
「それで十分だ、中岡さん」
俺は静かに頷いた。彼の信頼を勝ち取るのは、これからの行動次第だ。
「上等じゃ、慎太郎!それでこそ、わしが見込んだ男じゃ!」
龍馬は満足げに笑い、再び俺に向き直った。その目は、すでに次なる一手を見据えている。
「さて、永倉さん。同志の契りを交わしたところで、早速相談がある」
「相談、ですか?」
「おう。実はのう、わしは長崎で、ちっくと面白いことを企んじゅうてな。異国の商人相手に、日本の産物を売りさばく、貿易結社を作ろうと思うちょる」
来たか。俺は心の中でほくそ笑んだ。亀山社中。後の海援隊。坂本龍馬という男が、歴史の表舞台で躍動するための、最初の翼。
「だが、今のわしはただの土佐脱藩浪人。信用もなければ、金もない。船もない。そこで、あんたの知恵を借りたいんじゃ。このわしの計画を、あんたの言う『株式会社』として、どう形にすればえいか。教えてくれんか?」
龍馬の慧眼が、俺の知識の真価を正確に見抜いていた。彼は、俺がただの夢想家ではなく、具体的な方法論を持つ実践家であることを見抜いたのだ。そして、その知識を最大限に利用しようとしている。
俺は、彼の期待に応えるように、不敵な笑みを浮かべた。
「いいだろう。その話、詳しく聞かせてもらおうか。あんたの夢物語を、現実にする手伝いをしてやる」
魂の共鳴は、確かな協力関係へと姿を変えようとしていた。俺と龍馬、そして中岡。本来、決して交わるはずのなかった三つの魂が、今、日本の未来を根底から覆すための、危険な一歩を踏み出そうとしていた。
「有限責任」と「配当」。現代では当たり前のシステムが、龍馬の目には無限の可能性を秘めた武器として映りました。
単なる金儲けではなく、国を動かす力として本質を瞬時に見抜く龍馬の慧眼は脱帽モノです。
永倉新八と龍馬、本来交わるはずのない二つの線が「株式会社」という夢で結ばれました。




