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第33話:嘆願書

清河八郎と袂を分かち、京に残ることを選んだ近藤勇や芹沢鴨、そして主人公。

しかし、彼らは今や何の権威も持たない浪士の集団です。


この窮地を脱するため、主人公は会津藩主・松平容保に宛てた「嘆願書」を起草します。

 文久三年二月二十三日、夕刻。新徳寺の本堂に響き渡った近藤先生の決然たる声は、浪士組を二つに引き裂いた。清河八郎の演説に熱狂し、尊王攘夷の先鋒となるべく江戸へ帰還する者、およそ百九十名。そして、本来の任である将軍警護と京の治安維持を掲げ、この地に踏みとどまることを選んだ者、五十名余り。数では圧倒的に劣勢だったが、残留派の顔ぶれには奇妙な一体感と、後に引けぬ覚悟が漲っていた。


 清河は、我々残留派を憎悪と侮蔑の入り混じった目で見据えた後、忌々しげに吐き捨てて江戸へ帰る者たちを率いて寺を去った。その背中を見送りながら、俺は大きく息を吐いた。これで、第一段階は突破だ。だが、本当の戦いはここから始まる。


「さて、どうする。我々は、幕府から見れば、上官である清河先生の命令に背いた脱走兵にすぎんぞ」


 宿舎である壬生の八木邸に戻り、残留派の代表者たちが顔を突き合わせる中、最初に重い口を開いたのは芹沢鴨だった。彼の言う通り、我々は今や宙に浮いた存在だ。幕府の正式な命令系統から外れ、何の権威も持たない、ただの浪士の集団。下手をすれば、命令不服従のかどで討伐対象になりかねない。


「ご安心いただきたい。そのための手は、既に打ってあります」


 俺は、皆の不安を打ち消すように、努めて冷静な声で言った。そして、懐から数枚の和紙を取り出し、机の中央に広げる。それは、俺がこの数日間、不眠不休で書き上げたものだった。


「これは…?」

 近藤先生が、いぶかしげにそれを手に取る。


「京都守護職、会津藩主・松平容保公に宛てた嘆願書、その草案です」


「会津公に…?」

 近藤先生だけでなく、同席していた土方さんや、芹沢派の新見錦までもが驚きの声を上げた。京都守護職。それは、幕府が京の治安維持のために新設した重要な役職であり、その任にある会津藩主・松平容保は、今や京における幕府側の最高責任者と言っても過言ではない。我々のような素性の知れぬ浪士が、簡単に会える相手ではなかった。


「永倉君、いくらなんでもそれは…」

 土方さんが、その無謀さを指摘しようとするのを、俺は手で制した。


「ただ嘆願するのではありません。我々を庇護下に置くことが、会津藩にとっていかに有益であるかを、理論的に、そして法的に説明し、納得させるのです。これは嘆願であると同時に、政治的な『取引』の提案書です」


「取引、だと?」

 芹沢が、面白そうに口の端を吊り上げた。彼の猛禽のような目が、俺の真意を探るように細められる。


 俺は頷き、嘆願書の草案を指し示した。

「まず、我々の立場を明確にします。我々は、浪士組取締役・清河八郎の命令に背いたのではなく、彼の『幕府に対する裏切り』を阻止し、本来の任である将軍警護と京都の治安維持を全うするために、やむを得ず京に残った『忠義の士』である、と」


 その正当性を証明するため、俺は石坂周造の部屋から盗み出した、あの建白書の写しを広げた。

「これが、清河が朝廷に奉った建白書の内容です。ここには、江戸へ戻り、横浜の異人館を焼き討ちにするという、過激な計画が記されています。これは、幕府の開国政策に真っ向から反する行為。つまり、清河は幕府を裏切り、帝を騙って自らの政治的野望を達成しようとしたのです。我々は、それを阻止した。この証拠を突きつければ、我々の行動の正当性は、誰の目にも明らかとなります」


 官僚時代に培った、証拠に基づき法的正当性を構築する思考。それが、この局面で俺の最大の武器となっていた。


「なるほどな。我々は反逆者ではなく、反逆を未然に防いだ功労者である、と。面白い理屈だ」

 芹沢が、感心したように唸る。


「次に、我々を会津藩の『預かり』とすることで、会津藩が得られる利益を提示します」

 俺は指を折りながら、説明を続けた。

「一つ。会津藩は、京の治安維持という重責を担いながら、慢性的な人手不足に悩まされている。我々五十余名は、数は少なくとも、いずれも剣の腕に覚えのある者ばかり。これを正式な配下として使えば、治安維持のための強力な実働部隊となります」


「二つ。我々は、清河と共に江戸から来た浪士です。京で活動する尊攘派の浪士たちの内情にも、ある程度通じている。彼らを制圧するための『毒』として、我々を使うことができる。いわば、『毒を以て毒を制す』です」


「三つ。そしてこれが最も重要ですが、我々を雇うのに、会津藩はほとんど元手を必要としません。我々は幕府が募集した浪士組の一員であり、給金は幕府から支払われる建前。会津藩は、我々の活動を監督し、認めるだけで、安価で使える手駒を手に入れることができるのです」


 俺の説明が終わると、部屋はしばし沈黙に包まれた。土方さんは腕を組み、難しい顔で考え込んでいる。近藤先生は、真っ直ぐな目で俺を見つめ、その言葉の意味を一つ一つ噛み締めているようだった。


 やがて、沈黙を破ったのは、やはり芹沢だった。

「ククク…面白い!実に面白いぞ、永倉の小僧!貴様、本当にただの剣客か?その頭の中は、そこらの勘定方よりもよほどたちが悪いわ!」

 彼は腹を抱えて笑い出した。だが、その目には侮蔑の色はない。むしろ、同類の匂いを嗅ぎつけたかのような、愉悦の色が浮かんでいた。


「よかろう!その話、乗ってやる!近藤、貴様も異存はあるまい!」

 芹沢に促され、近藤先生は深く頷いた。

「永倉君の策、見事というほかない。我々が生き残る道は、それ以外にないだろう。…しかし、永倉君。君は、いつからこのような策を考えていたのだ?まるで、こうなることを見越していたかのようだ」


 近藤先生の純粋な問いに、俺は一瞬、言葉に詰まった。

(見越していたに決まっている。あんたたちが、そして俺自身が、ここで死なないために、ずっと前から考えていたんだ)

 そんな本心を言えるはずもなく、俺は曖昧に笑って誤魔化した。

「俺は、臆病者ですから。常に最悪の事態を想定して、備えておく性分なのです」


 その日のうちに、俺の草案を元に、近藤先生の謹厳実直な筆によって嘆願書は清書された。そして翌日の二月二十四日、我々は行動を開始した。


 代表として選ばれたのは、試衛館派の長である近藤勇、水戸派の長である芹沢鴨、そして、この計画の立案者である俺、永倉新八の三人。俺が加わったのは、会津藩の家臣から専門的な質問が飛んだ際に、的確に答えるための知恵袋としての役割を期待されてのことだった。


 京都守護職屋敷の門前に立った時、俺は改めて自分たちが置かれた立場の厳しさを実感した。門を守る会津藩士たちの視線は、我々をまるで汚物でも見るかのように冷たく、侮蔑に満ちていた。彼らにとって、我々は素性の知れぬ、ごろつき浪人にしか見えないのだろう。


「浪士組の者か。何の用だ」

 取次に出てきた下級藩士の態度は、横柄そのものだった。


「浪士組残留派の代表、近藤勇と申す!取締役・清河八郎の不正を告発し、今後の我らの身柄について、会津中将様にご裁可を仰ぎたく、嘆願書を持参いたしました!」


 近藤先生は、少しも臆することなく、堂々とした態度で言い放った。その威厳に押されたのか、藩士は少しだけ態度を和らげ、「しばし待て」と言い残して屋敷の中へと消えていった。


 待たされること、およそ半刻。我々はただ、冷たい視線に晒されながら、門前で立ち尽くすしかなかった。やがて、先程の藩士に先導され、見るからに身分の高そうな、四十代半ばの武士が現れた。会津藩の家老格の人物だろう。


「お主たちが、近藤と芹沢か」

 家老は、我々を値踏みするように、上から下までじろりと眺めた。


「はっ。我らが、京に残留することを決めた浪士たちの代表にございます」

 近藤先生が、深々と頭を下げる。芹沢は、ふてぶてしく腕を組んだまま、動こうとしない。


「嘆願書とやら、見せてもらおう」

 家老が手を差し出す。近藤先生は、恭しく嘆願書と、証拠である建白書の写しを差し出した。家老はそれにざっと目を通すと、眉間に深い皺を刻んだ。特に、建白書の写しを読んだ時の彼の表情は、驚きと怒りが入り混じった複雑なものだった。


「…清河が、このようなことを企んでいたと申すか」

「はっ。我々は、あくまで幕府への忠義を貫き、将軍警護の任を全うするため、清河の命に背いて京に残った次第。我らの身柄を会津藩お預かりの上、京の治安維持のためにお使いいただきたく、伏してお願い申し上げます」


 近藤先生の言葉に、家老はしばらく沈黙していた。彼の頭の中で、我々を使うことの利害得失が計算されているのが、手に取るように分かった。


「…お主たちの言い分は分かった。しかし、素性の知れぬ浪士どもを、そう易々と信用するわけにはいかぬ」

 家老の言葉は、当然の反応だった。その時、俺は一歩前に進み出た。


「恐れながら、申し上げます。我々をお使いになることは、会津様にとっても決して悪い話ではないはず。我々は、いわば『鞘から抜かれた刀』。鞘に戻さぬまま放置すれば、いずれ京の町で騒ぎを起こすやもしれませぬ。しかし、会津様が我らの『鞘』となり、その使い方を誤らなければ、必ずや会津様のお力となることをお約束いたします」


 俺の言葉に、家老は初めて俺の顔をまじまじと見た。その目に、わずかながら興味の色が浮かぶ。


「…面白いことを言う小僧だ。名は?」

「永倉新八と申します」


 家老は、ふん、と鼻を鳴らすと、我々に背を向けた。

「嘆願書と証拠は、確かに預かった。上にお伝えし、ご裁可を仰ぐ。沙汰があるまで、壬生で謹慎しておれ。決して騒ぎを起こすでないぞ」


 それだけを言い残し、家老は屋敷の中へと戻っていった。手応えがあったのか、なかったのか。まるで分からない。だが、やるべきことはやった。人事を尽くして、天命を待つしかない。


 守護職屋敷からの帰り道、三人の間には重い沈黙が流れていた。

「人事を尽くして天命を待つ、か…」

 ぽつりと呟いた近藤先生の横顔には、不安と期待が入り混じっていた。


「心配するな、近藤。容保公も愚鈍ではあるまい。俺たちという『便利な道具』を使わない手はないと、すぐに気づくはずだ」

 芹沢は、ニヤリと笑いながら言った。


 俺は、二人の会話を聞きながら、固く拳を握りしめていた。史実では、この後、会津藩は我々を受け入れ、「新選組」が誕生する。だが、この世界は、既に俺の知る歴史とは違う道を歩み始めている。


(これで、新選組は生まれる。いや、史実とは異なる、俺が作り出す『新選組』が…)


 壬生の宿舎へと続く道を歩きながら、俺は来るべき未来に思いを馳せていた。それは、血塗られた道を歩む悲劇の集団ではない。徳川幕府を、日本を、史上最強の近代国家へと導くための、最強の組織。その第一歩が、今、確かに踏み出されたのだ。



近藤、芹沢、そして知恵袋としての主人公の三人は、ついに会津藩邸へ嘆願書を届けます。

家老の反応は厳しく、先行きは不透明なままですが、やるべきことはすべてやりました。


史実とは異なる、主人公が作り出す最強の組織「新選組」。

その産声が、今まさに上がろうとしています。

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