第32話:新風館の対峙
京に到着して十日、浪士組一同に召集がかけられます。
席上、指導者である清河八郎は、真の目的が尊王攘夷の先鋒となることであり、江戸へ帰還すると宣言します。
しかし、主人公たちは水面下で芹沢鴨らと手を組み、これに異を唱える準備を整えていました。
浪士組分裂が決定的となる、運命の日の物語です。
文久三年二月二十三日、京の壬生にある新徳寺。その本堂は、二百数十名に及ぶ浪士たちの異様な熱気に満ちていた。将軍・家茂公の上洛に先駆け、その警護のために江戸を発った我々浪士組が京に到着して、早十日が過ぎようとしていた。しかし、我々はいまだ将軍警護の任に就くどころか、宿舎に押し込められたまま、具体的な指示もない日々を過ごしていた。その鬱屈した空気を切り裂くように、浪士組の取締役である清河八郎が、全員をこの寺に召集したのだ。
本堂の最前列、試衛館の仲間たちと並んで座る俺の視線の先には、上段に座す清河八郎の姿があった。その表情は自信に満ち溢れ、これから己が成し遂げるであろう「偉業」に、心が奮い立っているのが見て取れる。史実通りならば、今日、この場で、清河は浪士組の江戸帰還を宣言し、その真の目的――尊王攘夷の先鋒となること――を明らかにするはずだ。
(だが、歴史は既にお前が知るものとは違うぞ、清河)
俺は内心で呟きながら、周囲に視線を巡らせた。俺たちの隣には、芹沢鴨をはじめとする水戸派の面々が、ふてぶてしい態度で座っている。芹沢は、退屈そうに欠伸を噛み殺しているが、その瞳の奥には冷徹な光が宿っていた。彼もまた、この集会が持つ意味を正確に理解している。我々と芹沢派による「呉越同舟」の盟約が結ばれてから数日、土方さんと芹沢派の新見錦が中心となり、水面下で根回しは進められてきた。清河の計画の全貌と、我々が掲げる「京都残留」という新たな大義。その二つを天秤にかけさせ、一人、また一人と味方を増やしてきたのだ。
もちろん、すべての浪士を説得できたわけではない。浪士組の半数以上は、依然として清河を信奉する者たちだ。彼らは、今日のこの日を、新たな時代の幕開けとして、期待に胸を膨らませている。その純粋な熱意が、哀れにさえ思えた。
やがて、本堂の空気が張り詰める中、清河八郎が静かに立ち上がった。その所作一つで、二百数十名の視線が、一斉に彼へと注がれる。これが、人を惹きつけてやまない清河の持つ天性のカリスマ性か。
「同志諸君!よくぞ集まってくれた!」
朗々と、しかし腹の底から響き渡るような声だった。
「我々浪士組が、徳川将軍家への忠義を胸に、この京の都へ馳せ参じて十余日。しかし、幕府の対応はどうだ!我らをただ宿舎に留め置き、何一つ具体的な指示を与えようとしない!このままでは、我らは志半ばで、無為に日々を過ごすだけではないのか!」
清河の言葉に、後方の浪士たちから「そうだ!」「その通りだ!」という声が上がる。彼は巧みに聴衆の不満を煽り、自らへの共感を増幅させていく。官僚時代に見た、扇動的な政治家たちの演説そのものだった。
「だが、憂うことはない!我らが忠誠を誓うべきは、幕府にあらず!この日ノ本を統べる、唯一無二の存在!そう、帝に他ならない!」
清河は天を仰ぎ、声を張り上げた。
「幸いにも、我らの志は天に通じた!先日、我らが朝廷に奉った建白書は、帝のお耳に達し、そのお心を大いに動かしたのだ!帝は、我ら浪士組こそが、真の勤皇の志士であるとお認めくださった!そして、我らに新たな勅命を下されたのだ!」
来たか。俺はぐっと身構えた。隣に座る近藤先生の表情は変わらないが、その肩がわずかに力むのが分かった。
「帝は、我ら浪士組に、尊王攘夷の先鋒となることをお命じになった!もはや、我らの任は将軍警護にあらず!この京の地を離れ、江戸へと帰還し、幕府に対して、断固として攘夷の実行を迫る!これこそが、我らに与えられた真の大義である!」
清河が高らかに宣言した瞬間、本堂は割れんばかりの歓声と熱狂に包まれた。「おおお!」「帝の御為に!」「攘夷断行!」浪士たちは立ち上がり、互いに肩を叩き合い、涙ながらに新たな門出を祝している。彼らにとって、清河八郎は、もはや救国の英雄なのだろう。
その熱狂の渦の中で、俺たち試衛館派と芹沢一派、そして事前に根回しを済ませた数十名の者たちだけが、冷ややかに座したまま、その光景を眺めていた。その温度差は、あまりに異様で、熱狂する者たちの目には、我々の姿が奇異に映ったことだろう。
満足げにその光景を眺めていた清河も、やがて我々の一角が静まり返っていることに気づいた。彼の眉が、わずかにひそめられる。そして、その熱狂が最高潮に達した、まさにその時だった。
「異議あり」
凛とした、静かだが、不思議とよく通る声が、本堂の喧騒を切り裂いた。
声の主は、近藤勇だった。
ゆっくりと立ち上がった近藤先生に、すべての視線が突き刺さる。熱狂していた浪士たちは、水を浴びせられたように静まり返り、何事かと訝しむ顔で彼を見ていた。
「近藤、貴様…今、何と申した?」
清河が、不快感を隠そうともせずに問いかける。その声には、自らの完璧な計画に水を差されたことへの苛立ちが滲んでいた。
「申し上げたはずだ。異議あり、と」
近藤先生は、動じることなく、まっすぐに清河を見据えた。
「清河先生。貴殿の言う『新たな勅命』とやらは、まことか?」
「何を疑うか!この俺が、帝のお心を偽るとでも言うのか!」
「無論、そうは思わぬ。だが、貴殿が朝廷に奉ったという建白書、その内容を、我々は知っている」
近藤先生の言葉に、清河の顔が凍り付いた。彼の目が、驚きに見開かれる。
「なぜ、お主らがその内容を…」
「我々は、ただの剣客の集まりではない。国を憂い、真の忠義とは何かを常に考えている者たちの集まりだ」
近藤先生は、懐から一つの書状を取り出した。それは、俺が石坂の部屋から持ち出した建白書の写しを、さらに書き写した物だ。
「この建白書にあるのは、江戸へ帰還し、横浜の異人館を焼き討ちにするという、あまりに過激で、短絡的な計画ではないか。これが、帝の真のお心であるはずがない!これは、帝の御名を騙り、自らの野望を達成せんとする、貴殿の謀略に他ならない!」
「なっ…!」
清河は言葉を失い、その顔は怒りで赤黒く染まっていた。
本堂は、水を打ったように静まり返っている。先程まで熱狂していた浪士たちも、何が起きているのか理解できず、ただ呆然と二人を見つめるばかりだ。
近藤先生は、その静寂の中で、さらに言葉を続けた。その声は、もはや一人の剣客のものではなく、一つの組織を率いる将の風格を帯びていた。
「我々浪士組が結成された、本来の目的を忘れたか!十四代将軍・家茂公が上洛されるにあたり、その御身辺を警護し、京の治安を回復させること!それこそが、我らに与えられた、唯一にして最大の大義であるはず!」
「黙れ、近藤!貴様ごときに、俺の真意が分かってたまるか!」
激昂した清河が怒鳴るが、もはやその声に先程までの威光はなかった。
「我々は、京に残る」
近藤先生は、きっぱりと言い切った。
「我々は、この京の都に残り、本来の任を全うする。尊攘派の浪士どもが『天誅』と称して人斬りを繰り返し、無法地帯と化したこの京の治安を、我らの剣で守り抜く。それこそが、真の勤皇であり、佐幕であると信じる!」
その宣言に、沈黙していた者たちが、次々と立ち上がった。
土方さんが、沖田が、斎藤が、そして試衛館の仲間たちが。
芹沢鴨が、不敵な笑みを浮かべて立ち上がる。新見錦が、平山五郎が、水戸派の面々がそれに続く。
そして、我々と芹沢派が事前に説得した者たちも、覚悟を決めた表情で、次々と腰を上げた。
その数は、およそ五十名。二百数十名の中では少数派に過ぎない。だが、その一人一人が、自らの意志で、この場に立つことを選んだ精鋭たちだった。
「貴様ら…!」
清河は、信じられないものを見る目で、我々を見つめていた。彼の計画では、反対する者など、いるはずがなかったのだ。
「清河先生。貴殿の道は、もはや我らの道とは相容れぬ。江戸へ帰りたい者は、止めはしない。だが、我々は残る。この京の地で、『誠』の旗を掲げるために」
近藤先生の言葉が、浪士組の分裂を決定づけた。
清河八郎の壮大な計画は、俺という異分子の介入によって、その根底から覆されたのだ。
俺は、目の前で繰り広げられる、歴史が大きく変わる瞬間を、固唾を飲んで見守っていた。
呉越同舟で始まった、危険な船出。その船は、今、清河八郎という巨大な嵐を乗り越え、未知なる大海原へと、確かに漕ぎ出したのだった。
近藤勇の反対意見を皮切りに、ついに試衛館派と芹沢派は清河八郎と袂を分かちます。
京に残り、本来の任を全うするという近藤の言葉に、五十名ほどの浪士が同調しました。
これが後に「新選組」となる組織の産声となります。
呉越同舟の危険な船出が、今まさに始まろうとしています。




