第27話:見えざる敵
京へ向かう浪士組の道中、その熱狂を煽る首魁・清河八郎の演説に、永倉新八は巧みに隠された危険な思惑を嗅ぎ取ります。
純粋に士気を高める仲間たちと、その裏に潜む「見えざる敵」。
このままでは試衛館が利用されると危惧した永倉は、土方歳三に自らの懸念を打ち明けるのでした。
文久三年二月、江戸を発った二百数十名の浪士の一団は、中山道を西へ、京の都を目指していた。
板橋の宿場を発って数日。真冬の街道は、乾いた風が吹きすさび、旅人の体温を容赦なく奪っていく。だが、浪士組の一行は、そんな寒さなど意にも介さぬかのように、異様な熱気に包まれていた。
「見ろ、富士の山だ!」
「おお、見事なものだな!」
「我らの門出を祝ってくれているようだ!」
雪を頂いた富士の雄大な姿に、浪士たちは歓声を上げる。彼らのほとんどは、生涯を江戸の市井で過ごしてきた者たちだ。故郷を離れ、天下国家のために京へ上るという、これまでにない経験。その全てが、彼らの心を高揚させていた。
この旅は、単なる移動ではなかった。それは、日陰者であった彼らが、歴史の表舞台へと躍り出るための、輝かしい行進なのだ。
この熱狂を巧みに演出し、維持しているのが、浪士組の首魁、清河八郎その人であった。
「諸君! しばし足を止め、耳を傾けられよ!」
その日の昼過ぎ、一行が休憩のために立ち寄った宿場町の広場で、清河は荷駄の台座に軽々と飛び乗り、朗々たる声で一同に呼びかけた。
彼は、旅の道中、ことあるごとにこうして即席の演台を設け、浪士たちを鼓舞していた。
「我らが目指すは、帝のおわす京の都! そして我らが使命は、かの地に赴かれる公方様の御身を、不逞の輩からお守りすることにある!」
清河はまず、誰もが疑いようのない大義名分を掲げる。幕府の威信、将軍への忠誠。浪士たちの多くが、その言葉に力強く頷いた。試衛館の仲間たちも、例外ではない。特に近藤先生は、まるで我が意を得たりとでもいうように、その大きな瞳を輝かせ、清河の言葉に聞き入っている。
「されど諸君、忘れてはならぬ! 我らが真に忠誠を誓うべきは、この日ノ本を古よりしろしめす、万世一系の天子様に他ならぬ!」
声の調子が、一段と高くなる。
清河は天を指さし、その目に狂信的な光を宿した。
「公方様とて、天子様より政を任された臣下に過ぎぬ! その公方様をお守りするということは、すなわち、天子様をお守りすることと同義! 今、京の都には、異国の脅威に乗じ、幕府をないがしろにし、天子様をないがしろにせんとする、許しがたき奸賊どもが跋扈しておる! 我ら草莽の志士が、この腐りきった世を正すのだ! 天に代わって、不義を討つ! これぞ、誠の武士の本懐ではないか!」
「おおおおっ!」
地鳴りのような歓声が、宿場町に響き渡った。
浪士たちの目は一様に血走り、腰の刀に手をかけ、今にも駆け出しそうな勢いだ。清河の言葉は、彼らが心の奥底で抱えていた、現状への不満や、武士としての本分を果たしたいという渇望を、巧みに刺激し、一つの方向へと束ねていく。
俺は、その熱狂の輪から一歩引いた場所で、腕を組み、冷静に清河の姿を観察していた。
(…やはり、食えない男だ)
彼の演説は、見事というほかない。声の抑揚、間の取り方、聴衆の心を掴む言葉の選び方。どれをとっても、一流の扇動者のそれだ。
だが、史実を知り、現代日本の政治プロパガンダに辟易としてきた俺の耳には、その言葉の端々に隠された「毒」が、はっきりと聞こえていた。
清河は、「将軍」と「天皇」を巧みに使い分ける。
彼は、浪士たちの多くが素朴な忠誠心を抱く「将軍」を入り口にしながら、その忠誠の矛先を、巧みに「天皇」へとすり替えていく。そして、「奸賊」という言葉を、実に曖昧に使うのだ。
今の文脈で言えば、「奸賊」とは、幕府に逆らい、京で騒乱を起こす不逞浪士たちを指すはずだ。だが、清河の言い方は、まるで幕府の中にこそ「奸賊」がいるとでも言わんばかりの響きを持っていた。開国政策を進める幕閣の重臣たちこそが、国を誤らせる元凶なのだと、暗に示唆している。
これは、危険な思想誘導だ。
彼は、幕府の金で集めた浪士たちを、幕府を守るための駒ではなく、幕府を脅かすための私兵に変えようとしている。将軍警護という大義名分は、そのための巧妙な隠れ蓑に過ぎない。
「永倉さん、すごい演説でしたね!」
興奮冷めやらぬといった様子の藤堂平助が、頬を紅潮させて俺に話しかけてきた。
「清河先生の言う通りだ。俺たちの剣で、京の悪い奴らをやっつけてやりましょう!」
「…そうだな」
純粋な彼の言葉に、俺は曖昧に頷くことしかできなかった。この熱狂の中で、清河への疑念を口にすることは、水を差す無粋な行為でしかないだろう。
ちらりと近藤先生の方を見ると、彼は清河の演台のそばに駆け寄り、何やら感激した面持ちで言葉を交わしている。その姿は、心酔という言葉がしっくりくるほど、無防備に見えた。
その夜、一行が宿を取った本庄宿の一室で、俺は土方さんを捕まえた。
他の門弟たちが酒盛りで盛り上がる中、一人離れて煙管をふかしていた彼に、俺は声を潜めて話しかける。
「土方さん、少しよろしいですか」
「…なんだ、永倉。お前は飲まないのか」
「それどころではありません。昼間の清河の演説、どう思われましたか」
俺の真剣な問いに、土方さんは紫煙をゆっくりと吐き出し、その鋭い目で俺を射抜いた。
「…見事なものだったじゃねえか。おかげで、皆の士気は天を衝く勢いだ」
「士気が高すぎるのも、考えものです。特に、それが偽りの熱によって煽られたものだとしたら」
俺は、言葉を選びながら、昼間の演説で感じた違和感を具体的に指摘し始めた。
「清河は、巧みに本心を隠しています。彼の言葉を鵜呑みにするのは危険です」
「ほう。詳しく聞こうか」
土方さんは、興味深そうに身を乗り出してきた。
「まず、彼は『公方様』と『天子様』という言葉を意図的に使い分けています。公方様の名を口にする時は、あくまで大義名分として、事務的に。しかし、天子様の名を口にする時、彼の声には明らかに熱がこもる。まるで、神の名を口にする信者のように。彼の忠誠が、どこにあるかは明らかです」
土方さんは、黙って聞いている。
「次に、『奸賊』という言葉の使い方です。彼は、我々が討つべき敵を、具体的に示さない。ただ『奸賊』とだけ言う。これでは、受け取る側が、それぞれ自分の都合の良いように敵を解釈できてしまう。ある者は尊攘派の浪士を、ある者は…幕府の役人を、敵だと見なすでしょう。清河は、その混乱を意図的に作り出しているように思えます」
俺は続けた。
「極めつけは、彼の思想の根幹です。彼は、幕府の開国政策を『不義』だと断じています。それはつまり、将軍様のご決断そのものを『不義』だと言っているに等しい。将.軍警護を掲げる者が、その将軍の政策を真っ向から否定する。こんな矛盾がありますか。彼は、我々を将軍警護の士としてではなく、彼の尊王攘夷思想を実現するための、鉄砲玉として使うつもりです」
そこまで一気にまくし立てると、俺は土方さんの反応を待った。
彼はしばらくの間、じっと俺の顔を見つめていたが、やがて、ふっと口元を緩めた。
「…やはり、お前は面白い男だな、永倉」
「土方さん…?」
「江戸で言っていた懸念は、ただの勘働きではなかったというわけか。お前の言う通りだ。俺も、あの男の胡散臭さには気づいていた。だが、お前ほど具体的に、奴の狙いを見抜いてはいなかった」
土方さんは煙管を灰皿に叩きつけると、居住まいを正した。その瞳から、先ほどまでのからかうような色は消え、冷徹な戦略家の光が宿っている。
「近藤さんは、もう清河に心酔しかけている。あの人は、一度信じると決めた相手には、とことん誠を尽くす人だ。その純粋さが、あの人の美点であり、同時に最大の弱点でもある」
「……」
「このままでは、試衛館は清河の掌の上で踊らされ、使い潰されるだけだ。そうなる前に、手を打たねばならん」
土方さんの言葉は、俺の懸念が杞憂ではないことを裏付けていた。そして、彼が俺と同じ危機感を共有してくれていることに、俺は安堵と、そして新たな決意を覚えていた。
「どうするおつもりですか」
「今はまだ動く時じゃない。だが、奴の言葉と行動は、一つ残らず監視する。お前も、気づいたことがあれば、どんな些細なことでも俺に報告しろ。俺たちは、この浪士組の中で、もう一つの『組』を作るんだ。清河の思惑から近藤さんを守り、俺たちの目的を果たすための、見えざる組をな」
「見えざる組…」
その言葉は、俺の胸に深く突き刺さった。
そうだ。俺と土方さん、この二人ならば。史実を知る俺と、この時代の誰よりも現実的な策略家である彼が組めば、清河八郎の企みなど、乗り越えられないはずがない。
「承知しました。この永倉新八、土方さんの『目』となり『耳』となりましょう」
俺は、静かに頭を下げた。
部屋の外からは、仲間たちの陽気な笑い声が聞こえてくる。
だが、この部屋の中だけは、京の都で吹き荒れるであろう嵐を前に、張り詰めた空気が満ちていた。
見えざる敵は、すぐそこにいる。それは、京に潜む不逞浪士だけではない。我々をここまで導いてきた、あの男こそが、今、我々が対峙すべき、最初の敵なのだ。
俺は、来るべき闘争の始まりを、確かに予感していた。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、永倉の慧眼と土方の怜悧さが交差し、二人が手を組む重要な転換点となりました。
近藤先生への忠誠心から、清河の企みを阻止すべく結託した二人。
歴史を知る永倉と、類まれな策略家の土方。この強力なタッグが、今後の試衛館をどう導くのか。
次回もお楽しみに。




