第25話:運命への抵抗
沖田の回復に安堵する永倉の元に、浪士組結成の報が舞い込む。
それは京への道、そして仲間との過酷な闘争の始まりを意味していた。
史実の奔流に抗い、沖田の命を守れるのか。
温室から荒野へ、永倉の本当の闘いが今、幕を開ける。
後書き
沖田君が稽古に復帰して、一週間が過ぎた。
道場には、以前と変わらぬ鋭い気合と、竹刀が激しく打ち合う音が戻ってきた。いや、以前よりも、その一振り一振りに力強さが増しているようにすら感じられる。
「永倉さん、一本、お願いします!」
休憩中、汗を拭う俺に、沖田君が竹刀を構えて声をかけてきた。その表情は晴れやかで、数週間前の不調が嘘のようだ。俺の「健康増進計画」は、間違いなく効果を上げていた。
「ああ、いいだろう。だが、少しでも無理だと思ったら、すぐに言えよ」
「ふふ、永倉さんは心配性ですね。もう大丈夫ですよ。体は軽いし、それに…」
沖田君は言葉を切ると、悪戯っぽく笑った。
「永倉さんに教わった通り、ちゃんと食ってますから」
彼はそう言うと、ぐっと力こぶを作って見せた。その腕はまだ細いが、以前よりも確かに逞しくなったように見える。
俺の知識が、この世界で確かに意味を成している。その事実は、俺の胸に静かな自信と、確かな手応えをもたらしていた。史実という名の巨大な奔流に、俺は抗うことができるのかもしれない。たとえそれが、笹舟で大海に乗り出すような無謀な挑戦であったとしても。
「よし、来い。手加減はしないぞ」
俺は竹刀を構え直し、沖田君と向き合った。
彼の構えに、隙はない。澄んだ瞳が、真っ直ぐに俺を射抜く。
そうだ、それでいい。その強い眼差しを、俺は守りたいのだ。
その日の稽古は、いつも以上に熱を帯びた。
沖田君の復帰は、明らかに試衛館全体の士気を高めていた。近藤先生も、土方さんも、そして他の門弟たちも、誰もが生き生きとした表情で竹刀を振るっている。
この穏やかで、活気に満ちた日常が、一日でも長く続いてほしい。俺は心の底からそう願っていた。
だが、運命の歯車は、俺の個人的な感傷などお構いなしに、その回転を速めていく。
その報せが試衛館にもたらされたのは、それから数日後の、冷たい風が吹く昼下がりのことだった。
「――幕府が、浪士を召し抱えるだと!?」
道場に、近藤先生の驚きと興奮に満ちた声が響き渡った。
使いの者から書状を受け取った土方さんが、血相を変えて広間に駆け込んできたのだ。その手には、幕府からの達し書きが握られている。
「浪士組…! 将軍様が上洛されるにあたり、その警護を我らのような浪士に任せるというのか…!」
土方さんの言葉に、道場にいた全員が息を飲んだ。
時代が、大きく動こうとしている。その予感が、肌をピリピリと刺すようだった。
将軍・徳川家茂の上洛。
それは、二百年以上も続いてきた徳川の治世において、異例中の異例の事態だ。それだけ、幕府は追い詰められている。黒船来航以来、国内は「尊王攘夷」を叫ぶ者たちの声で満ち、幕府の権威は地に落ちかけていた。この上洛は、朝廷との連携を世に示すことで、幕府の威信を回復しようという、起死回生の一手なのだ。
そして、その将軍警護という大役を、腕に覚えのある浪士たちに任せるという。
それはすなわち、俺たちのような、これまで日陰の存在であった者たちにとって、またとない好機であった。
「ついに…ついに我らの志を、天下に示す時が来たのだ!」
近藤先生が、感極まったように声を震わせる。その目には、熱い涙が浮かんでいた。
彼の隣で、土方さんも固く唇を結び、その瞳は野心と興奮の炎で燃え上がっている。
「京へ…! 俺たちの剣を、この国のために振るう時が来たんだ!」
「うおおお!」
誰かの雄叫びをきっかけに、道場は割れんばかりの歓声と熱気に包まれた。
誰もが、この日を待ち望んでいたのだ。己の信じるもののために、この身を捧げることを。
その熱狂の輪の中心で、俺は一人、冷静に状況を分析していた。
浪士組。
それは、後の「新選組」の母体となる組織だ。
史実通りならば、俺たちはこの浪士組に参加し、京へと上る。そして、そこで清河八郎の裏切りに遭い、一度は江戸へ戻ろうとするが、近藤先生の決断によって京に残留。会津藩預かりとなり、壬生浪士組、そして新選組として、その名を天下に轟かせることになる。
ついに、歴史の表舞台への扉が開かれたのだ。
俺の胸にも、武者震いにも似た興奮が込み上げてくる。この日を、俺もまた待ち望んでいた。現代知識というチート能力を最大限に活用し、この国を、そして仲間たちを救う。そのための舞台が、ようやく整ったのだ。
だが、その高揚感と同時に、俺の心には一つの大きな懸念が、暗い影を落としていた。
「永倉さん、やりましたね! 俺たちも、京へ行けるんですね!」
興奮冷めやらぬ様子で、沖田君が俺の肩を叩いた。その顔は喜びに輝き、目はきらきらと星を宿している。
「ああ、そうだな」
俺は、彼の純粋な喜びを前にして、曖昧に微笑むことしかできなかった。
京へ行く。
それは、これから始まる激動の日々の幕開けを意味する。
市中見廻り、不逞浪士の斬り捨て、そして、池田屋事件、禁門の変…。血で血を洗う、過酷な闘争の日々。
その日々が、沖田君の体を蝕んでいくことを、俺は知っている。
労咳――肺結核は、過労や栄養不足、ストレスによって悪化する。京での生活は、その全てが揃っていると言っても過言ではない。
俺がこの一ヶ月、心血を注いできた「健康増進計画」は、いわば温室での栽培のようなものだ。これから彼が身を投じようとしているのは、嵐が吹き荒れる荒野だ。温室で少しばかり丈夫に育ったところで、荒野の過酷さに耐えられるだろうか。
「どうしたんですか、永倉さん。嬉しくないんですか?」
俺の表情に翳りを見つけたのか、沖田君が不思議そうに首を傾げた。
「いや、そんなことはない。もちろん、嬉しいさ。だが…」
俺は言葉を濁した。
この喜びの真っ只中で、水を差すようなことは言いたくなかった。だが、言わなければならない。
「京での暮らしは、ここでの生活よりもずっと過酷になる。お前は、自分の体のことを、もっと真剣に考えなければならない」
俺の真剣な口調に、沖田君の笑顔がわずかに曇った。
「またその話ですか。永倉さんは心配しすぎです。俺の体は、俺が一番よく分かっています」
「分かっていないから言っているんだ! いいか、これは遊びじゃない。お前の命に関わることなんだぞ!」
俺は、思わず声を荒らげてしまった。
道場の隅で、俺たちのやり取りに気づいた土方さんが、訝しげな視線を向けてくる。
まずい。冷静になれ、俺。
ここで感情的になっても、何一つ良い結果は生まない。必要なのは、論理的な説得と、具体的な対策だ。
俺は一度、深く息を吸い込んだ。
「…すまない、沖田君。だが、聞いてくれ。俺は、お前に死んでほしくないんだ」
俺のまっすぐな言葉に、沖田君は息を呑んだ。彼の瞳が、戸惑いに揺れる。
「俺の知る医学では、君のような症状を持つ者は、何よりもまず安静と栄養を必要とする。京での任務は、それとは全くの逆だ。だからこそ、俺は君に、これまで以上の自己管理を求める。それは、君一人の問題じゃない。君が倒れれば、試衛館は大きな戦力を失う。近藤先生も、土方さんも、そして俺も、悲しむことになる。分かるか?」
俺は、彼の情に訴えかけるのではなく、あくまで合理的な説明を試みた。感情論は、時に人の目を曇らせる。だが、論理と事実は、否定しようがない。
沖田君は、何も言わずに俺の顔をじっと見つめていた。その瞳の奥で、様々な感情が渦巻いているのが見て取れた。
やがて、彼はふっと息を吐くと、少し困ったように笑った。
「…分かりました。永倉さんの言う通りにします。だから、そんな怖い顔をしないでください」
「…本当か?」
「はい。永倉さんが、俺のために言ってくれているのは分かりますから。だから、約束します。無理はしません。ちゃんと、永倉さんの言うことを聞きます」
その言葉に、俺は安堵の息を漏らした。
ひとまず、第一関門は突破だ。
だが、俺の心は晴れなかった。
これから始まる京での日々は、俺の想像を、そして史実の知識を、はるかに超える過酷なものになるだろう。
その中で、俺は本当に沖田君を守り抜くことができるのか。
いや、沖田君だけではない。近藤先生も、土方さんも、そして、これから出会う多くの仲間たちを。
俺は、神ではない。
ただの、少しばかり未来を知っているだけの、一人の人間に過ぎない。
「行くぞ、お前ら! 祝いの酒だ!」
近藤先生の威勢のいい声が、俺を現実へと引き戻した。
仲間たちが、歓声を上げてそれに続く。
俺は、その熱狂の輪に加わることなく、一人、道場の柱に背を預けた。
窓の外では、冷たい冬の雨が、静かに降り始めていた。
それはまるで、これから俺たちが歩むであろう、血と涙に濡れた道のりを暗示しているかのようだった。
運命への抵抗。
その闘いが、今、始まろうとしていた。
永倉の必死の説得に、自らの体を顧みることを約束した沖田。
だが、目前に迫る京での日々は、彼の命を脅かす過酷な運命そのものだ。
交わした約束は、歴史の大きなうねりの中で守られるのか。
血と涙に濡れた道が、彼らを待つ。




