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第23話:ささやかな変化

永倉の地道な衛生改革が、試衛館にささやかな変化をもたらし始めた。

日々の掃除と食事の改善。

だが、沖田の身体を蝕む病魔は待ってはくれない。

稽古中に彼が倒れた時、永倉は未来の知識を武器に、周囲を説得するための行動に出る。今こそ、彼の真価が問われる時だった。

 俺が試衛館で「衛生兵」とでも言うべき活動を始めてから、十日ほどが過ぎた。

 俺の奇行――もとい、改革は、今や試衛館の日常風景の一部となりつつあった。


 早朝、俺が誰よりも早く起きて道場の拭き掃除を始めると、いつの間にか井上源三郎さんが加わり、しばらくすると他の門弟たちも気まずそうに手伝い始める。あれほど淀んでいた道場の空気は、毎朝の換気と徹底した掃除のおかげで、凛とした冬の清々しさを保っていた。土埃と汗の匂いに代わり、磨かれた床板の檜の香りがかすかに漂うようになったのは、紛れもない成果と言えるだろう。


「永倉のやつ、まるで姑みたいだな」

「だが、おかげで布団から出るのが億劫じゃなくなったのは確かだ」

「ああ。それに、なんだか飯も美味くなったしな」


 厨から聞こえてくるそんな声に、俺は一人ほくそ笑む。

 食事の改革も、ささやかながら着実に進んでいた。近藤先生から取り付けたわずかな追加予算と、土方歳三の「これは未来への投資だ」という謎の太鼓判を盾に、俺は台所での発言権を確保していた。


 これまで捨てられていた大根の葉は菜飯に、魚のアラは滋味深い煮付けに生まれ変わる。そして、貴重な卵。あれは俺にとって、対結核菌用の切り札の一つだ。表向きは「稽古で功績があった者への褒美」と称して、体調が悪そうな者や、特に疲労の色が濃い者の膳に優先的に乗せる。もちろん、俺の最大のターゲットである沖田総司の膳には、二日に一度は卵焼きが乗るように調整していた。


「永倉さん、また卵ですか? 僕は、何か手柄を立てましたか?」


 ある日の昼餉、沖田君が不思議そうに首を傾げながら、自分の膳に乗った黄色い一切れを見つめている。その無邪気な問いに、俺はあらかじめ用意していた答えを返す。


「昨日の打ち込み稽古、見事だったからな。近藤先生からの褒美だ」

「へえ、そうですか。ありがとうございます」


 素直に喜んで卵焼きを頬張る沖田君。その顔色は、以前よりはいくらか良いように見える。だが、根本的な解決には至っていない。彼の体内に潜む病魔は、栄養だけでどうにかなるほど甘くはないのだ。俺の行動は、焼け石に水かもしれない。だが、何もしないよりは百万倍マシだ。


 その「時」は、冬の厳しい寒さが戻ってきた日の午後の稽古中に、唐突に訪れた。


「―――ゲホッ、ゴホッ、ゴホッ!!」


 気合の満ちた道場に、場違いな音が響き渡る。竹刀の打ち合う音が止み、皆の視線が一斉にその中心へと注がれた。

 沖田君だ。

 俺との稽古の最中、激しく踏み込んだその瞬間、彼は竹刀を取り落とし、背を丸めて激しく咳き込み始めたのだ。


「沖田君!」


 俺は咄嗟に竹刀を放り出し、彼の背中に駆け寄った。その背中は、小刻みに震えている。


「大丈夫か、しっかりしろ!」


 俺がその背中をさすると、彼は一度、二度と大きくしゃくりあげ、ぜえぜえと苦しげな呼吸を繰り返した。顔を上げた彼の目には、生理的な涙が浮かんでいる。


「……っ、はぁ、はぁ…。大丈夫、です、永倉さん。ちょっと、むせただけで…」


 そう言って弱々しく笑おうとするが、その顔色は明らかに悪い。唇からは血の気が失せ、額には脂汗が滲んでいる。

 周囲から、「おい、総司、どうしたんだ」「大丈夫か」と心配する声が飛ぶ。近藤先生も、厳しい表情でこちらを見つめていた。


 今だ。今しかない。

 ここで彼を休ませなければ、俺がこれまで積み上げてきたものが全て無駄になる。


 俺は前回、笑い話にされてしまった反省を活かし、感情的に訴えるのではなく、理屈で彼を、そして周囲を説得する戦略に切り替えた。官僚時代に培った、相手を納得させるためのプレゼンテーション能力。今こそ、それを総動員する時だ。


 俺は沖田君の肩を掴み、真剣な、いや、鬼気迫る表情で彼を見据えた。


「沖田君、よく聞いてくれ。それはただの咳じゃない」

「え…?」

「いいか。人の体というものは、冷えに弱い。特に、お前のように激しい稽古で汗をかいた後はそうだ。汗が冷えて体温を奪うと、体の抵抗力が落ちる。そこに、目に見えない邪気…まあ、悪いものが入り込みやすくなるんだ」


 俺は、現代医学の知識を、この時代の人間にも理解できる言葉に必死で変換しながら続けた。菌やウイルスと言っても通じない。「邪気」という言葉が、彼らにとっての最大公約数だろう。


「咳というのは、その邪気を体の中から追い出そうとするための、防御反応なんだ。だが、それが続くということは、体が邪気に負け始めている証拠だ。分かるか?」

「な、永倉さん…? いったい、何を…」


 戸惑う沖田君の腕を、俺はさらに強く掴んだ。俺の必死さは、周囲の門弟たちにも伝わっているはずだ。皆、固唾を飲んで俺たちのやり取りを見守っている。


「だから、今お前に必要なのは稽古じゃない! まずは体を温めて、これ以上体力を消耗しないこと。そして、滋養のあるものを食べて、体の中から邪気と戦う力をつけることだ! それが一番の薬なんだよ!」


 俺は、ほとんど叫ぶように言った。

 脳裏に浮かぶのは、史実の沖田総司の最期だ。千駄ヶ谷の植木屋で、誰にも看取られることなく、孤独に死んでいった天才剣士。その未来を、俺はこの手で変えなければならない。その一心だけが、俺を突き動かしていた。


「……」


 沖田君は、俺の剣幕に完全に気圧されていた。彼の大きな瞳が、驚きと困惑に見開かれている。

 彼は反論しようと口を開きかけたが、俺の目を見て、その言葉を飲み込んだようだった。俺の目には、おそらく理屈を超えた何かが、狂気にも似た必死さが宿っていたのだろう。


「永倉の言う通りだ」


 静かだが、よく通る声が道場に響いた。近藤先生だ。

 彼はゆっくりとこちらに歩み寄ると、沖田君の肩にそっと手を置いた。


「総司、今日の稽古はもういい。部屋に戻って休め」

「しかし、近藤先生…! これくらい、平気です!」

「平気ではない。顔色が悪い。それに…」


 近藤先生は、俺の顔をちらりと見た。


「永倉が、これほど言うのだ。何か、考えがあってのことだろう。お前を思うがゆえの言葉だ。聞いてやれ」


 その言葉は、決定的な力を持っていた。

 試衛館の誰もが敬愛する近藤先生からの命令。そして、「お前を思うがゆえ」という一言。

 沖田君は、しばらくの間、俺と近藤先生の顔を交互に見ていたが、やがて諦めたように、小さく頷いた。


「……わかり、ました」


 その返事を聞いて、俺の全身から力が抜けていくのを感じた。勝った。まだ小さな一歩だが、間違いなく未来を変えるための一歩を踏み出せた。


 俺は沖田君の腕を支え、彼の部屋まで肩を貸して歩いた。道中、彼は何も言わなかったが、その体重は俺が思ったよりもずっと軽く、彼の体の消耗具合を物語っていた。


 布団に彼を寝かせ、ツネさんに頼んで用意してもらった温かい甘酒を飲ませる。


「…永倉さん」

「なんだ」

「…なんで、そんなに必死なんですか」


 布団の中から、くぐもった声で沖田君が尋ねた。

 俺は一瞬、言葉に詰まった。本当のことなど、言えるはずもない。


「……仲間だからな」


 俺は、それだけを答えるのが精一杯だった。


「俺は、誰も死なせたくないんだ。お前にも、近藤先生にも、土方さんにも。誰一人として、欠けてほしくない。ただ、それだけだ」


 それは、俺の偽らざる本心だった。

 沖田君は、その言葉の意味を完全には理解できなかっただろう。だが、彼は何も言わずに、ただじっと俺の顔を見つめていた。そして、やがてゆっくりと目を閉じると、すう、すう、と穏やかな寝息を立て始めた。


 その寝顔を見ながら、俺は静かに誓った。

 清潔という戦い。そして、無知という、より強大な敵との戦い。

 ささやかな変化。だが、確かな変化だ。

 この小さな勝利を積み重ねて、必ずや過酷な運命に抗ってみせる。




お読みいただきありがとうございます。

ついに訪れた沖田の危機。一度は失敗した永倉が、今度は官僚時代の経験と現代知識を武器に「説得」を試みます。

彼の必死のプレゼンは、近藤や仲間たちの心を動かすことができるのか。次回、その行方にご注目ください。

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― 新着の感想 ―
いやまあ、この時代は既に労咳という病気は認知されていたため、医者にかかれば普通に診断されていたかと。
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