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第22話:清潔という戦い

土方との密議を経て、永倉は言葉ではなく行動で沖田を救うと決意。

近代知識を武器に、試衛館に「衛生」という新たな戦いを持ち込む。


道場の徹底的な掃除と換気、そして栄養改善。

地道な改革は、まだその意味を知らない仲間たちにどう映るのか。彼の静かなる闘いが始まる。

 土方歳三との密議から一夜明け、俺――永倉新八の体に宿った元・霞が関のエリート官僚――は、新たな決意を胸に朝を迎えた。沖田君への直接的な忠告が笑い話にされてしまった以上、もはや言葉は意味をなさない。ならば、行動で示すまでだ。


「百の言葉より、一の実行」。官僚時代に嫌というほど叩き込まれた信条だ。俺が目指すのは、この試衛館に「衛生」という概念を持ち込むこと。それも、誰にも文句を言わせない形で、だ。


 早朝、まだ薄暗い中、俺は一人で道場の雑巾がけを始めた。いつもは門弟たちが交代で行う掃除だが、俺はそれを一人で、しかもこれまでとは比較にならないほど徹底的にやり始めたのだ。


 まずは、全ての窓を開け放つ。冷たい冬の空気が、淀んだ道場の空気を一気に入れ替えていく。咳き込む沖田君の姿を思い出す。結核菌は、乾燥と日光に弱い。換気と採光は、感染症対策の基本中の基本だ。


 次に、固く絞った雑巾で、床板の木目に沿って丁寧に拭き上げていく。昨日までの掃除は、正直に言って形だけだった。隅には埃が溜まり、汗と土の匂いが染み付いている。俺は、まるで親の仇のように、道場の隅々まで磨き上げた。


「ん…? 永倉じゃないか。どうしたんだ、こんな朝早くから一人で」


 道場に現れたのは、意外な人物だった。井上源三郎さんだ。試衛館の門弟の中では最年長で、その温厚な人柄から皆に慕われている。史実では、後の新選組で六番隊組長を務める人物だ。


「おはようございます、井上さん。少し、道場の空気が悪いのが気になりまして」

「空気? そうか…? 俺はもう慣れちまったが」


 そう言いながらも、井上さんは俺の徹底した掃除ぶりに目を見張っている。俺は手を休めずに続けた。


「これからますます寒くなります。空気が淀んでいると、風邪も引きやすくなりますから。特に、沖田君は咳き込んでいることも多いですし」


 あえて沖田君の名前を出す。個人の問題ではなく、道場全体の問題として提起するためだ。井上さんは、なるほど、と頷いた。


「確かに、あいつは昔から少し体が弱いところがあったからな…。お前さん、優しいんだな、永倉」

「いえ、俺のためでもあるんです。俺も風邪は引きとうないので」


 そう言って笑うと、井上さんは「そうか」と微笑み、何も言わずに雑巾を手に取り、俺の隣で床を拭き始めた。最年長の井上さんが手伝い始めたことで、後から起きてきた他の門弟たちも、文句を言う者はいなかった。むしろ、「永倉が妙なことを始めたぞ」と面白がっているような雰囲気すらある。


 これでいい。まずは、清潔な環境を「当たり前」にすることからだ。


 俺の改革は、道場だけにとどまらない。次の戦場は、台所だ。

 試衛館の食事は、お世辞にも栄養バランスが取れているとは言えない。白米に味噌汁、そして申し訳程度の漬物。これでは、激しい稽古で消耗する体を維持するだけで精一杯だ。


 俺は、食事の準備を手伝うことを申し出た。もちろん、ここでも表向きの理由は「道場全体の健康管理」だ。


「米ばかりでは、力がつきません。少し工夫をさせていただけませんか」


 台所を仕切る近藤先生の奥方、ツネさんにそう申し出ると、彼女は困ったような、それでいて興味深そうな顔をした。


「工夫と言っても、うちにはそんなに余裕はないのよ。買えるものも限られているし…」

「分かっています。この限られた食材の中で、やりくりしてみせます」


 俺が目を付けたのは、これまで捨てられていた食材の「屑」だ。大根の葉や、魚の骨やアラ。これらは、現代の知識があれば、立派な栄養源になる。


 大根の葉は、細かく刻んで飯に混ぜ込む「菜飯」にする。ビタミンやミネラルが豊富な葉を捨てるなど、現代日本の感覚ではありえない。魚のアラは、丁寧に下処理をして、大根と一緒に煮付けにする。骨から染み出す出汁と、わずかに残った身。これだけでも、立派なおかずになる。


 さらに、俺は土方さんとの密約に基づき、彼に金策を依頼していた。表向きは「隊士の体力向上」という大義名分で、近藤先生を説得してもらったのだ。


「近藤さん。これからの我々の活動を考えれば、隊士たちの健康管理は急務です。少し食費を上げてでも、滋養のあるものを食わせるべきです」


 土方さんのその進言は、近藤先生の心を動かした。天然理心流の宗家として、門弟たちの将来を誰よりも案じている近藤先生にとって、それは聞き入れないわけにはいかない提案だった。


「うむ…歳もそう言うのなら、仕方あるまい。だが、無駄遣いは許さんぞ」


 こうして、わずかながら食費の増額が認められた。その金で俺が真っ先に買い求めたのは、卵だ。この時代、卵はまだ貴重品だったが、完全栄養食とも言われるその価値は、何物にも代えがたい。


 俺は、その貴重な卵を使い、沖田君の膳にだけ、こっそりと卵焼きを一切れ加えた。もちろん、他の者には気づかれないように。


「なんだ、今日の飯は妙に手が込んでいるな」

「本当だ。この菜飯ってやつ、美味いじゃないか」


 門弟たちの評判は上々だった。特に、魚のアラ煮は、その濃厚な味付けが若い彼らの舌を喜ばせたようだ。

 沖田君も、「なんだか、いつもより力が出る気がします」と、不思議そうな顔をしながらも、飯をかき込んでいた。その頬が、心なしか少しだけ赤みを帯びているように見えたのは、俺の願望のせいだろうか。


 もちろん、俺の行動をいぶかしがる者もいた。


「永倉のやつ、最近どうしちまったんだ? やけに掃除だの飯だのにうるさくて、まるで女中みたいじゃねえか」


 稽古の後、原田左之助がそんな軽口を叩いているのが聞こえてきた。その言葉に、俺は内心苦笑するしかなかった。


(女中結構。衛生兵と呼んでくれても構わない)


 俺がやっているのは、単なる掃除や料理ではない。これは、目に見えない敵――病魔との戦いだ。「安静、栄養、清潔」。現代では当たり前のこの三原則を、この時代で実践することの難しさ。そして、その重要性を、俺は身をもって知っている。


 俺の真意は、まだ誰にも伝わらない。それでいい。今はただ、行動を続けるだけだ。沖田君の命を、そして試衛館の仲間たちの未来を、この手で守り抜くために。


 夕食の片付けを終え、一人で夜空を見上げる。冷たい空気が心地よかった。

 ふと、背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこには近藤先生が立っていた。


「永倉君」

「はっ、近藤先生」

「昼間の食事、美味かった。皆も喜んでいたぞ」

「ありがとうございます」

「お前が来てから、道場の空気が変わった気がする。良い方向にな」


 近藤先生のその言葉は、何よりの褒美だった。俺の孤軍奮闘は、決して無駄ではなかったのだ。


「これからも、頼むぞ」


 そう言って俺の肩を叩く近-のその手の温かさが、なぜか胸に染みた。

 俺は、この人たちを死なせたくない。その思いを、改めて強くした。


 清潔という名の戦いは、まだ始まったばかりだ。だが、俺の心には、確かな手応えと、未来への希望が芽生え始めていた。


お読みいただきありがとうございます。

今回は、主人公が持つ近代知識を活かした、地道な改革の始まりを描きました。

大きな歴史の流れに、個人がどう抗うのか。その一つの答えが、この「衛生という戦い」です。

次回、彼の料理が隊士たちにどんな反応を呼ぶのか。ささやかな変化をお楽しみに。

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