第21話:いぶかしがられる忠告
沖田総司の咳。それは単なる風邪の兆候ではない。
史実を知る永倉新八の耳には、彼の短い生涯の終わりを告げる不吉な予兆として響く。
現代知識を基にした健康管理のアドバイスも、武士の誇りが高い沖田には届かない。
焦燥に駆られる永倉に、全てを見透かしたかのように土方歳三が声をかける。
彼の真意とは一体何なのか。歴史の奔流が、再び大きく動き出そうとしていた。
竹刀が空を裂く鋭い音が、試衛館の道場に響き渡る。
土埃と汗の匂いが立ち込める中、一際激しく打ち込んでいるのは、やはり沖田総司だった。
「ハッ!」「セァッ!」
裂帛の気合と共に放たれる突きは、まるで槍のように鋭く、それでいてしなやかだ。相手を務める門弟は、その神速の連撃を防ぐだけで精一杯で、見る見るうちに追い詰められていく。
道場の隅で木刀の素振りをしていた俺、永倉新八――の体に宿った元・霞が関のエリート官僚――は、その光景から目を離せずにいた。
(速い、そして巧い。だが…)
脳裏に焼き付いている「詳説日本史研究」の記述が、警鐘を鳴らす。沖田総司。天才の名を欲しいままにした若き剣士。しかし、その生涯はあまりにも短い。彼の命を蝕んだのは、不治の病――肺結核だった。
「コホッ、コホ…」
激しい打ち込みの合間、沖田が小さく咳き込むのが見えた。それは、常人なら聞き逃してしまうほど些細な音。しかし、史実という名の未来を知る俺の耳には、死神の足音のように不吉に響いた。
顔色が、心なしか青白い。食が細いのは以前から気になっていたが、このところ特に顕著になっている気がする。この時代の食生活は、現代日本の基準から見れば劣悪の一言に尽きる。白米中心で、ビタミンやタンパク質が絶望的に不足している。激しい稽古で消耗するばかりで、回復が追いついていないのだ。
(まずい。このままでは史実通り、沖田は…)
俺がこの世界に来てから貫いてきた、「一人でも多く生き残らせる」という誓い。その最初の試練が、目の前で現実になろうとしていた。
介入にはリスクが伴う。だが、何もしないことのリスク――沖田の死――は、それ以上に受け入れがたい。まずは、ごく当たり前の、しかしこの時代の武士が最も軽視していることから、忠告してみよう。
稽古が一段落し、門弟たちがそれぞれ縁側や井戸端で汗を拭っている。俺は、手拭いで顔を拭いながらも快活に笑っている沖田の元へ、意を決して歩み寄った。
「沖田君、少し良いか」
「ん? なんですか、永倉さん」
屈託のない笑顔が、やけに胸に痛い。俺は努めて平静を装い、切り出した。
「君の剣は素晴らしい。だが、少し根を詰めすぎじゃないか。今日の稽古はもう切り上げて、少し休んだ方がいい」
「え? 休む? 何を言ってるんですか、永倉さん。俺はまだ全然やれますよ」
きょとんとした顔で、沖田が小首を傾げる。その反応は、完全に予想通りだった。俺はさらに言葉を続ける。
「そういうことじゃない。身体を休ませるのも稽古のうちだ。それに、君は少し食が細すぎる。もっと滋養のあるもの…例えば、卵とか、魚とか、そういうものを意識して食べた方がいい。身体が資本なんだからな」
現代知識に基づいた、ごく基本的な健康管理のアドバイス。栄養バランスと十分な休養。だが、その言葉が、この場の空気を一変させた。
「はははっ! なんですか、それ。病気でもないのに、まるで年寄りみたいなことを言うんですね、永倉さんは」
沖田は腹を抱えて笑い出した。彼の周りにいた原田左之助も、「違いない! 永倉は心配性だなあ!」と豪快に笑い飛ばす。その声に、他の門弟たちもくすくすと笑い始めた。
「大げさですよ、永倉さん。俺の身体は俺が一番よく分かっています。このくらい、何ともありませんから」
悪意のない、純粋な拒絶。それが、何よりも俺の心を抉った。彼にとって、鍛錬を休むことや、食事に気を遣うことは、「武士にあるまじき軟弱な発想」でしかないのだ。
俺はそれ以上何も言えず、ただ押し黙るしかなかった。やはり、正面からの説得は無意味か。
その日の夕稽古が終わり、皆が道場を後にする頃合いだった。俺が今日の失敗を反芻していると、背後から低い声がかかった。
「永倉」
振り返ると、そこには腕を組み、壁に寄りかかるようにして土方歳三が立っていた。夕暮れの赤い光が、その整った横顔に深い陰影を落としている。
「少し、付き合え」
有無を言わせぬその口調に、俺は黙って頷いた。彼が向かったのは、道場の隅にある物置小屋の裏手だった。あの日、俺が己の秘密の一端を明かした場所だ。
二人きりになると、土方さんは切り出した。
「昼間の沖田とのやり取り、見ていたぞ。見事に笑い飛ばされてやがったな」
「……お見通しか」
「当たり前だ。だが、お前の言いたいことは分かる。あいつのあの咳は、確かに少し気になる」
やはり、この男は見ていないようで全てを見ている。他の門弟たちが沖田の咳を気にも留めない中、彼だけはその危うさに気づいていた。
「沖田君は、試衛館…いや、俺たちがこれから作る組織にとって、最高の剣だ。だが、どんな名刀も手入れを怠れば錆びつき、やがては折れる。ましてや、血の通った人間ならなおさらだ」
俺は、官僚時代に培ったプレゼン能力を使い、比喩を交えて説明する。単なる感傷ではない、組織運営における「人材」の重要性を説く。
「あいつの命が尽きるのが、敵の刃によってなら本望だろう。だが、己の不摂生で、戦う前に朽ち果てるなど、愚の骨頂だ。俺は、そんな未来は認めない」
「……ふん。相変わらず甘っちょろいことを言う。だが、理屈は通ってる」
土方さんは鼻を鳴らしたが、その表情は真剣だった。彼もまた、合理的な思考の持ち主。そして、沖田の才能を誰よりも高く評価している一人だ。無駄な形で戦力を失うことの愚かさは、痛いほど理解できるはずだ。
「で、どうする? 正面から説教したって、あいつには暖簾に腕押しだぞ」
「だから、あんたに相談があるんだ、土方さん」
俺がそう言うと、彼は少し意外そうな顔をした後、口の端を吊り上げた。
「なるほどな。ようやく俺の使い方を理解してきたか、未来の参謀殿」
「あんたなら、もっと上手いやり方を知ってるはずだ。俺にはない、人の動かし方を」
俺の言葉に、土方さんは満足げに頷いた。彼はしばし腕を組んで考え込んだ後、静かに口を開いた。
「直接あいつに言うから駄目なんだ。周りから固める。いや、仕組み自体を変えちまうのさ」
「仕組みを?」
「ああ。近藤先生に進言する。これからの大事に備え、隊士一同の体力を底上げする必要がある、と。そのために、食事の内容を見直し、滋養のあるものを増やす。稽古の後には、必ず休息の時間を設ける。全員に適用される規則にしてしまえば、沖田一人が文句を言う筋合いはねえ」
それは、俺にはなかった発想だった。個人へのアプローチではなく、組織全体のルールとして組み込んでしまう。まさに、組織の「副長」ならではの視点だ。
「だが、金はどうする? 食費を上げるとなると…」
「そこはお前の出番だ、永倉。お前のその奇妙な知識で、安くて滋養のあるもんを考え出すなり、金策を考えるなりしろ。俺はルールを作る。お前は、その中身を用意する。役割分担だ」
土方さんの目は、すでに未来を見据えていた。これは単に沖田を救うためだけではない。これから大きくなるであろう組織の、礎を築くための第一歩なのだ。
「……分かった。やってみよう」
「よし、話は決まりだ。せいぜい知恵を絞れよ」
土方さんはそれだけ言うと、闇に溶けるように去っていった。
一人残された俺は、安堵と興奮が入り混じったような、不思議な高揚感に包まれていた。
一人ではどうにもならない壁も、この男と一緒なら乗り越えられるかもしれない。俺の未来知識という「ソフト」と、土方歳三の実行力という「ハード」。この二つが噛み合った時、俺たちは歴史すら変える力を持つのかもしれない。
沖田を救うための戦いは、まだ始まったばかりだ。だが、強力な味方を得た今、俺の心には確かな希望の光が灯っていた。
最後までお読みいただきありがとうございます。第21話、いかがでしたでしょうか。今回は、主人公が抱える「未来を知る」ことの葛藤と、周囲との価値観のズレを色濃く描いてみました。
沖田を救いたい一心からの行動が、逆に彼らとの溝を深めてしまう皮肉。
そんな中、土方は何を考えているのか。次回、彼の口から語られる言葉が、物語の新たな鍵となります。どうぞお楽しみに。




