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第18話:剣に映る心

千葉佐那との一戦は、新八の心に深い爪痕を残しました。


仲間たちの賞賛も虚しく、ただ彼女の剣の残像が脳裏をよぎります。

試合後、静かにかけられた言葉は、合理性という鎧で固めた心の奥底、誰にも見せなかったはずの迷いと孤独を映し出す鏡でした。

 試合が終わっても、俺はしばらくその場から動けなかった。

 引き分け、という結果以上に、千葉佐那という剣士が俺の心に残した爪痕は、あまりにも深く、そして鮮烈だった。


「永倉さん、すごかったじゃないですか! あの千葉道場の『鬼小町』と引き分けるなんて!」

「いやあ、見事なものだった。特に序盤の踏み込みは、肝が冷えましたよ」


 試衛館の仲間たちが興奮気味に駆け寄り、俺の肩を叩いて健闘を称える。土方歳三は腕を組んで静かに頷き、沖田総司は「僕もやりたかったなあ」と子供のように唇を尖らせている。近藤勇は、まるで自分のことのように顔を紅潮させ、「よくやった、永倉! 我らの剣が他流にも通用することの証だ!」と豪快に笑った。


 温かい言葉の数々。仲間からの賞賛。それは、俺がこの試衛館で手に入れた、かけがえのないもののはずだった。だが、今の俺の耳には、そのどれもが水中の音のようにくぐもって聞こえる。


 俺の脳裏には、試合の光景が繰り返し再生されていた。

 情報を分析し、最適解を導き出す俺の「合理の剣」。それは、未来の知識を持つ俺が、この理不尽な時代を生き抜き、仲間たちを救うための唯一絶対の武器のはずだった。

 しかし、佐那の前に、俺の剣はことごとく無力化された。彼女の剣は、俺の計算を超えた場所にあった。駆け引きや予測といった次元ではなく、ただひたすらに純粋な「理」を体現していた。


 それは、俺が官僚時代に最も軽蔑していた類の人間、つまり、非効率で、非論理的で、精神論ばかりを振りかざす人間が至る境地だと思っていた。だが、違う。彼女の剣は、千の言葉、万の計算式を凌駕する、絶対的な説得力を持っていた。


(俺は、一体何と戦っていたんだ……?)


 自問自答は、答えのない迷宮へと俺を引きずり込む。仲間たちの輪からそっと離れ、道場の隅にある板張りの廊下に出る。火照った体に、ひやりとした初冬の風が心地よかった。誰もいないことを確認し、俺は大きく息を吐きながら、壁に背を預けてずるずると座り込んだ。


 掌を見つめる。この手で、何を掴もうとしていたのか。

 史実を知るがゆえの傲慢さ。仲間たちの生死すら、俺は「救済対象」と「必要悪」に分類し、冷徹な神の視点で裁こうとしていた。近藤勇を、あの誰よりも人間臭く、温かい人を、史実通り死なせるという非情な選択を、俺の合理性は是としていた。


 その欺瞞を、千葉佐那の剣は、いとも容易く暴き出したのだ。


「――永倉殿」


 不意に、凛とした声がすぐそばから聞こえた。

 はっとして顔を上げると、いつの間に来たのか、紫の袴をまとった佐那が、俺の数歩先に静かに立っていた。道場の喧騒が、まるで別世界のことのように遠ざかる。


「千葉、殿……」


 狼狽を悟られまいと、努めて平静を装って立ち上がろうとする。だが、それよりも早く、彼女はゆっくりと首を横に振った。


「そのままで。少し、よろしいでしょうか」


 彼女は俺の許可を待たずに、俺の隣に、同じように壁に背を預けて静かに座った。その所作には一切の無駄がなく、まるで水が器に収まるかのような自然さがあった。横顔から、試合中のものとは違う、穏やかな花の香りがふわりと漂う。


 沈黙が流れる。何を話すべきか、俺の頭脳は適切な言葉を探し出せずにいた。官僚時代、どれほど手強い相手との交渉でも、主導権を握るための言葉選びに窮したことなどなかったというのに。


 先に口を開いたのは、佐那だった。


「先ほどの試合、見事な剣でした」

「……いや。俺の完敗だ。引き分けという結果は、あなたに情けをかけられたに過ぎない」


 乾いた自己評価が、我ながら驚くほど素直に口からこぼれ出た。

 佐那は俺の言葉を否定も肯定もせず、ただ静かに前を見つめている。その視線の先には、枯れかけた庭の木々があるだけだ。


「あなたの剣は、不思議な剣でした」


 やがて、彼女は独り言のようにつぶやいた。


「まるで、勝つことにも、負けることにも、興味がないように見えました」


 その言葉は、鋭い刃となって俺の心の鎧を貫いた。

 全身の血が逆流するような衝撃。俺は息を呑み、彼女の横顔を凝視した。


「……どういう、意味だ」

「言葉の通りです」


 彼女はゆっくりとこちらに顔を向けた。その澄み切った瞳が、俺の心の奥底を覗き込むように、真っ直ぐに射抜く。


「ただ、そこに在るべきものを探しているような……。まるで、失くした何かを必死に手繰り寄せようとしているかのような。そんな剣に感じられました」


 見抜かれている。

 俺の最も深い部分、誰にも明かしたことのない、この世界における根源的な孤独。

 俺は永倉新八でありながら、永倉新八ではない。俺は未来を知りながら、その未来を変えようともがいている。この時代の誰とも共有できない知識と記憶を抱え、たった一人で歴史という巨大な奔流に抗おうとしている。


 俺が探している「在るべきもの」。

 それは、仲間たちが無惨に死なない未来。徳川幕府が生まれ変わり、日本が内戦を経ずに近代化を遂げる世界線。俺の知識が正しく機能し、全てが最適解へと収束していく、あるべき歴史の姿。


 その本質を、この女剣士は、わずか一回の試合で見抜いたというのか。


「……買い被りだ。俺はただ、試衛館の看板を背負い、がむしゃらに戦っていただけだ」


 虚勢を張る声が、自分でも情けないほどに震えていた。ポーカーフェイスには自信があった。霞が関の魑魅魍魎たちを相手に、俺は常に自らの感情を完璧に隠蔽し、情報を制してきたはずだった。だが、この静かな女剣士の前では、あらゆる隠蔽工作が無意味に思えた。


「そうでしょうか」


 佐那は、ふっと穏やかに微笑んだ。その笑みは、俺の抵抗を武装解除させる不思議な力を持っていた。


「剣は、心を映す鏡です。あなたの剣には、強い光と、それと同じくらい深い影が映っていました。何かを守ろうとする強い意志と、そのために何かを切り捨てようとする冷たい覚悟。何かを成し遂げようとする情熱と、全てを諦めているかのような静かな絶望。あなたの剣は……ひどく、迷っていました」


 迷い。

 その一言が、俺の最後の砦を打ち砕いた。


 そうだ、俺は迷っている。

 史実という絶対的な知識を手にしながら、俺は何一つ確信を持てていない。仲間を救いたいと願いながら、近藤勇を見殺しにする計画を立てている。幕府を救うという大義を掲げながら、そのために誰が犠牲になるのかを計算している。


 この矛盾に満ちた葛藤。神の視点に立とうとする傲慢さと、一人の人間としての情に引き裂かれる苦悩。その全てを、俺は「合理性」という名の蓋で無理やり押さえつけてきた。


 誰にも言えない。誰にも理解されるはずがない。

 この絶対的な孤独こそが、未来知識を持つ俺に課せられた宿命なのだと、そう思っていた。


 だが、今、目の前の女剣士は、俺の孤独の輪郭を、剣を通じて正確になぞってみせた。


「……あなたには、敵わないな」


 俺の口から漏れたのは、降参の言葉だった。それは試合の勝敗についてではない。人間としての、魂の次元における、完全な敗北宣言だった。


 不思議なことに、敗北感はなかった。

 むしろ、逆だった。

 厚い氷に閉ざされていた心の湖に、一筋の光が差し込んだような、温かい感覚。誰にも理解されないと思っていた重荷を、ほんの少しだけ、分かち合えたような安堵感。


 それは、俺がこの世界に転生して以来、初めて感じる「安らぎ」にも似た感情だった。


「あなたの探しているものが何なのか、私には分かりません」


 佐那は静かに立ち上がると、俺に向かって深々と頭を下げた。


「ですが、今日の試合、誠に勉強になりました。あなたの剣が、その答えを見つけられることを、心より願っております」


 そう言い残し、彼女は静かに道場の中へと戻っていった。その紫の袴の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、俺はただ呆然と見送ることしかできなかった。


 一人残された廊下で、俺は再び自分の掌を見つめる。

 そこには、先ほどまでとは違う光景が広がっているように見えた。


 合理の剣。求道の剣。

 俺に足りなかったのは、後者だ。自らの内面と向き合い、己の心が真に何を望んでいるのかを問う「道」。史実を知るというアドバンテージに驕り、俺は最も大切なプロセスを省略していたのだ。


 近藤勇を、土方歳三を、沖田総司を、仲間たちを、俺は本当に救いたいのか?

 それとも、ただ「死なせたくない」という自己満足のために、彼らの人生を捻じ曲げようとしているだけなのか?


 答えは、まだ出ない。

 だが、進むべき道筋が、ほんの少しだけ見えた気がした。


 千葉佐那との出会いは、俺の計画に、そして俺自身の心に、決定的な変化をもたらした。

 それは、合理性という名の冷たいエンジンに、「心」という名の熱い燃料が注がれた瞬間だったのかもしれない。


最後まで感謝です。

剣は心を映す鏡。

千葉佐那の言葉は、主人公が抱える矛盾と孤独を暴きました。

史実を知る傲慢さに気づき、合理の剣に「心」という熱が注がれる。

仲間を救うという計画は、ここから大きな転換点を迎えます。次回の葛藤にご期待ください。

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― 新着の感想 ―
千葉さなが登場してからの主人公は究極の自己陶酔に 浸っているように見えてしまうのは僕の心が汚れてる からなのか、、、 無理矢理に屁理屈を理屈のように綺麗事を言い出した 感じに見えました、、、
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