第17話:合理の剣、求道の剣
分析と確率論を武器とする主人公の「合理の剣」。
しかし、北辰の女剣士・千葉佐那の前に、その全てが通用しません。
彼女の剣は「術」ではなく、精神を昇華させた「道」でした。
この出会いは、彼の生存戦略そのものを根底から揺るがしていきます。
「始め!」
審判役を務める玄武館の師範代が放った声が、百畳敷きの道場に鋭く響き渡る。その声が耳に届くよりも早く、俺は思考を切り替えていた。目の前に立つ千葉佐那という存在を、個別のパラメータを持つ「解析対象」として、脳内の情報処理システムにインプットする。
身長、体重、リーチの推定値。紫の袴から覗く足捌きから推測される重心移動の癖。竹刀を構える角度、呼吸の深さと間隔。俺の官僚時代に培われた分析能力が、目の前の相手から得られる全ての情報を瞬時にデータ化し、勝利確率を最大化するための最適解を導き出そうと高速で回転を始める。
(基本に忠実、かつ無駄のない構え。力みは見られない。感情の起伏も読めない。だが、それ故に予測は容易なはずだ。奇策を弄するタイプではない。ならば、こちらの仕掛けに対する反応パターンは限定される)
導き出した初期結論は「速攻による主導権の確保」。俺は床を強く蹴り、一気に間合いを詰めた。狙うは、相手の反応速度を測るための初撃。天然理心流の荒々しさを前面に押し出した、重い袈裟斬りを叩き込む。
しかし、次の瞬間、俺の計算は最初の齟齬をきたした。
佐那は、俺の踏み込みと寸分違わぬタイミングで、すっと半身を引いていた。俺の竹刀は、まるで最初からそこに誰もいなかったかのように、空を切る。そして、俺の体勢が伸びきった一瞬、まるで川の流れに石を置くように、彼女の竹刀が静かに俺の胴に触れた。
打たれた衝撃は、ない。ただ、竹刀の先端が吸い付くような、冷たい感触だけが残った。
「……っ!」
俺は即座に距離を取り、再び構え直す。道場がわずかにどよめいたのが分かった。
(今の動きは何だ? 俺の踏み込みを完全に読み切っていた? いや、違う。読み切っていたというより、俺の動きに「合わせた」……? まるで、俺の攻撃が彼女の動きの一部であるかのように)
混乱する思考を無理やりねじ伏せ、再度アルゴリズムを組み直す。
今度は、フェイントを織り交ぜた三段突き。沖田総司の神速の突きを、俺なりに分析し、再現したものだ。初撃で上段を意識させ、二撃目で相手のガードを中央に引きつけ、がら空きになった喉元に本命の三撃目を叩き込む。土方歳三との組稽古でも、完全に見切った者はいない、俺の必勝パターンの一つだ。
ヒュッ、と空気を切り裂く音が二度響く。計算通り、佐那の竹刀が俺の突きを防ぐために動く。
(もらった!)
勝利を確信し、がら空きになった中心へ、全神経を集中させた最後の一撃を放つ。
だが、俺の竹刀が彼女の喉元を捉えることはなかった。
佐那は、俺の二段目の突きを受けたその勢いを殺さず、利用していた。彼女の竹刀は、俺の竹刀の側面を滑るようにして力を受け流し、その反動で生まれたわずかな隙間から、まるで蛇のように俺の竹刀の根元へと潜り込んでくる。
「小手!」
凛とした声と共に、乾いた音が響いた。俺の右小手に、的確に打ち込まれた一撃。痛みよりも先に、信じられないという驚愕が全身を駆け巡った。
俺の「解」が、通用しない。
俺の剣は、情報を分析し、確率論に基づき、最も効率的に勝利するための「術」だ。相手の動きを予測し、その裏をかく。二手三手先を読み、相手をこちらの計算式の中に嵌め込む。それは、官僚として数多の政策立案や組織改革を成功させてきた、俺の思考そのものだった。
だが、目の前の千葉佐那という剣士は、俺の計算式の外側にいる。
彼女は、俺の動きを予測していない。駆け引きに応じてすらいない。ただ、俺が仕掛ける攻撃という「事象」に対し、長年の鍛錬によって体に染み付いた、最も合理的で無駄のない「最適解」を、思考を介さずに体現しているだけなのだ。
それは、もはや「術」ではなかった。
それは、彼女の生き方そのものが昇華された、「道」だった。
剣を交えるたびに、俺はそれを痛感させられた。
俺の竹刀が殺気を放てば、彼女の竹刀はそれを静かにいなす。俺が速さで翻弄しようとすれば、彼女は泰然自若として動かない。俺が力で押し込もうとすれば、彼女は柳のようにその力を受け流す。
彼女の瞳は、どこまでも澄み切った湖面のようだった。その瞳に見つめられていると、俺の心の内にある焦りや打算、そして「誰を救い、誰を見捨てるか」という傲慢な選民思想まで、全てが白日の下に晒されるような感覚に陥る。
(これが、北辰一刀流……千葉佐那の剣か)
俺の剣は、生き残るための剣だ。仲間たちを死の運命から救い出すための、生存戦略のツールだ。そのためには、時に非情な判断も下さなければならない。近藤勇を、あの温かい人を、史実通り死なせるという選択すら、俺の合理性は「必要悪」として肯定しようとしていた。
だが、彼女の剣は違う。
そこには、生きるか死ぬか、救うか見捨てるか、といった生臭い選択はない。ただ、ひたすらに自らの精神を高め、剣の理を究めんとする、純粋な求道者の姿があるだけだ。
その剣の前に立った時、俺がこれまで築き上げてきた「合理性」という名の城が、いかに脆い砂上の楼閣であったかを思い知らされた。史実を知るというアドバンテージは、俺に神の視点を与えたのではなかった。それは、俺を「歴史の傍観者」という名の檻に閉じ込め、人間としての葛藤から目を背けさせるための、都合の良い言い訳だったのかもしれない。
俺は、神などではなかった。
ただ、未来の知識に振り回され、仲間たちの死の運命に怯え、生き残るためだけにあがいている、矮小な一人の人間に過ぎない。
その事実に気づいた瞬間、俺の構えから、ふっと力が抜けた。殺気が消え、勝利への執着が薄らいでいく。
それまで、俺の猛攻を静かに捌き続けていた佐那の動きが、初めて変わった。
彼女は、すっと前に踏み込み、静かに竹刀を正眼に構えた。それは、初めて見せる、彼女からの「攻め」の形だった。
だが、その剣先から放たれる気は、俺を打ち負かそうとするものではなかった。
まるで、迷える俺の魂に、道を指し示そうとするかのような、厳かで、そして慈愛に満ちた気配。
俺は、動けなかった。金縛りにあったように、ただ、その剣先を見つめることしかできない。
「そこまで!」
試合終了を告げる声が、夢から覚めるための鐘のように響いた。
結果は、引き分け。玄武館の門下生たちからは、健闘を称える拍手が送られる。試衛館の仲間たちが駆け寄り、俺の肩を叩く。
だが、俺の耳には、そのどれもが届いていなかった。
礼をして、静かに定位置に戻っていく佐那の、紫の袴の後ろ姿だけが、網膜に焼き付いて離れない。
俺は、自らの掌をじっと見つめた。
この手で、仲間たちを救うのだと誓った。この手で、徳川幕府を魔改造し、新しい国を創るのだと決意した。そのために、俺は自らの心を殺し、冷徹な合理主義者になろうとした。
しかし、今日、俺は知ってしまった。
合理性だけでは、決して届かない領域があることを。
生き残るための「術」の先に、精神を高めるための「道」が存在することを。
自らの剣が、ひどく浅薄で、独りよがりなものに思えた。
「誰を救い、誰を見捨てるか」
そんな神のような問いに、この俺が答えを出せるはずもなかったのだ。
この日の衝撃は、俺の心に深い亀裂を入れた。
千葉佐那という、歴史の教科書には載らない一人の女剣士との出会い。それは、俺の生存戦略という名の計画に、予測不能な、そして最も根源的な変数をもたらした。
合理の剣と、求道の剣。
決して交わることのない二つの理の狭間で、俺の新たな苦悩が、静かに幕を開けた。
お読みいただきありがとうございます。
合理性を信奉してきた主人公が、千葉佐那という「道」を歩む剣士と出会い、初めて壁にぶつかりました。
彼の信念に生じた亀裂は、仲間を救うという計画に何をもたらすのか。次回、新たな苦悩が始まります。




