第169話:落ち延びた者たち
京を追われ、逆賊の汚名を着せられた長州の木戸孝允と薩摩の大久保利通。
彼らはそれぞれの故郷で、絶体絶命の窮地に立たされていました。
日本海は鉛色の空と海に閉ざされていた。
荒れ狂う波を切り裂き、一隻の蒸気船が長州・萩の港へと滑り込む。
船から降り立った男の顔色は、海の色よりも蒼白く、しかしその瞳だけは異様な熱を帯びていた。
桂小五郎、今は木戸孝允とも名乗る男である。
京でのクーデター失敗。そして、あろうことか皇子・睦仁親王の死。
その報せは、すでに早馬によって長州藩内にもたらされていた。
藩庁は蜂の巣をつついたような騒ぎになっており、帰還した木戸を見る視線は、決して温かいものではなかった。
「桂! 貴様、何ということをしてくれたのだ!」
藩庁の広間に足を踏み入れるなり、重臣の一人が怒号を浴びせた。
「帝に弓引く逆賊の汚名、のみならず皇子殺しの大罪まで……! 長州はこれで終わりだ! 貴様が腹を切ったところで、償えるものではないぞ!」
罵声が飛び交う中、木戸は無言で上座を見据えていた。
彼の脳裏には、京の都で見た地獄絵図が焼き付いている。
燃え盛る御所、逃げ惑う人々、そして――崩れ落ちる親王の輿。
あれは事故だった。薩摩の暴発だった。
だが、そんな弁明が通じる段階はとうに過ぎている。
「……お静まりを」
木戸は、静かだがよく通る声で言った。
その一言に込められた気迫に、重臣たちが一瞬口をつぐむ。
「腹を切れば、長州は助かるのですか? 私の首を幕府に差し出せば、家茂公や永倉新八は、長州の存続を許してくれると本気でお思いか」
木戸はゆっくりと広間を見渡した。
「否、断じて否です。幕府は、この機を逃しはしない。朝敵討伐の大義名分を得た彼らは、長州を根絶やしにするつもりで攻め込んでくるでしょう。領地は没収、家名は断絶。我々は歴史から消されるのです」
「だ、だからこそ、恭順の意を示し……」
「恭順など無意味!」
木戸が一喝した。
「相手は新選組、あの永倉ですぞ。彼が目指しているのは、藩という枠組みの解体だ。我々が膝を屈しようとも、彼が描く『新しい日本』に、特権階級としての武士の居場所などない。……戦うしか、ないのです」
木戸の言葉は、詭弁に近い。
だが、絶望的な状況に置かれた人間にとって、それは唯一の「希望」という名の麻薬でもあった。
「毒を食らわば皿まで。……我々はすでに修羅の道に入った。ならば、最後まで悪鬼羅刹となって戦い抜くのみ。幕府を倒し、勝てば官軍。負ければ賊軍。……単純明快な話ではありませんか」
広間の空気が変わった。
恐怖と絶望が、悲壮な決意へと変質していく。
「それに……手は打ってあります」
木戸は懐から一通の書状を取り出した。
「英国公使パークス、そして武器商人グラバーとの密約です。彼らは、幕府の独裁を望んでいない。……世界最強の海軍を持つ英国が、我々の後ろ盾となる」
嘘ではないが、真実のすべてでもない。
英国はあくまで自国の利益のために動いているだけだ。
だが、今の長州には、すがれる藁が必要だった。
木戸は、自らの良心を心の奥底に封印し、冷徹な政治家としての仮面を被り直した。
(高杉……。お前なら、今の俺を笑うか。それとも、斬るか)
盟友の顔を思い浮かべながら、木戸は拳を握りしめた。
◇
一方、南国・薩摩。
鹿児島城下もまた、重苦しい空気に包まれていた。
大久保利通の帰還は、長州の木戸以上に厳しいものとなった。
何しろ、親王殺害の直接の実行犯は、薩摩藩士だったのだから。
「一蔵(大久保)! おはん、どげんつもりじゃ!」
国父・島津久光の怒りは凄まじかった。
扇子を床に叩きつけ、大久保を睨みつける。
「皇子を殺めるなど、言語道断! 薩摩は朝廷への忠義を第一としてきた。それが、逆賊の汚名を着せられるとは……! 先祖に申し開きができん!」
大久保は、畳に額を擦り付けんばかりに平伏していた。
だが、その表情に動揺はない。
彼は、京からの帰路、あれこれと心中に見立てを重ねてきた。
感情に訴える久光を、どう論理でねじ伏せるか。
「久光様。……恐れながら、申し上げます」
大久保は顔を上げ、冷静な瞳で主君を見返した。
「あの事件は、幕府の陰謀でごわす」
「な、なんじゃと?」
「実行犯とされる者は、確かに我が藩の者。しかし、彼らは何者かに操られておりました。……あるいは、新選組の者が薩摩の羽織を偽装し、凶行に及んだ可能性も否定できませぬ」
明らかな嘘である。
だが、大久保は眉一つ動かさずに言い切った。
「幕府は、薩摩の武力を恐れております。ゆえに、我らを朝敵に仕立て上げ、諸藩を動員して潰そうとしているのです。……ここで久光様が私の首を刎ね、幕府に謝罪したとしても、彼らは止まりますまい。薩摩七十七万石は分割され、島津家は取り潰しとなりましょう」
久光の顔色が青ざめる。
大久保は畳みかけた。
「幕府の狙いは、中央集権。つまり、島津家のような大大名の力を削ぐことにあります。……座して死を待つか、それとも乾坤一擲、幕府の不義を正す戦いに打って出るか。……道は二つに一つ」
「……しかし、朝廷を敵に回しては……」
「朝廷もまた、幕府の人質となっているのです!」
大久保の声が熱を帯びた。
「帝は、幕府に騙されておられる。……我らが京へ攻め上り、君側の奸を除かねばなりませぬ。それこそが、真の忠義!」
詭弁である。
だが、薩摩隼人たちの血を沸騰させるには十分な論理だった。
「西郷さぁも、同じ考えでごわす」
大久保は、切り札を出した。
藩内で絶大な人気を誇る西郷隆盛の名が出ると、周囲の空気が一気に「主戦論」へと傾く。
「……西郷が、そう言うておるのか」
久光は呻くように言った。
大久保は深く頷く。
「はい。……すでに西郷さぁは、奄美より戻り、兵の調練を始めております。……異国の最新兵器を揃え、幕府軍を迎え撃つ準備は整いつつあります」
大久保は、心の中で冷たい汗を拭った。
西郷を説得するのは、これからだ。
だが、彼ならば分かってくれるはずだ。
もはや、引き返せないところまで来てしまったのだと。
(おい達は、悪党になるしかなかった。……ならば、とことんまで悪党を演じきって、勝つしかない)
大久保の瞳の奥に、暗い炎が揺らめいた。
◇
そして、長崎。
大浦天主堂の近く、小高い丘の上に建つ洋館。
トーマス・グラバーは、テラスで葉巻をくゆらせながら、眼下に広がる長崎港を見下ろしていた。
港には、彼の商会が手配した蒸気船が停泊し、木箱が次々と積み込まれている。
中身は、最新式のミニエー銃と、アームストロング砲だ。
「……ミスター・グラバー」
背後から、秘書が声をかけた。
「薩摩と長州からの送金、確認できました。……しかし、本当によろしいのですか? 彼らは今や『朝敵』です。幕府軍が勝利すれば、我々の立場も危うくなりますが」
グラバーは、ふっと笑い、紫煙を吐き出した。
「ビジネスにおいて、リスクのない投資などありえないよ」
彼は流暢な日本語で答えた。
「それに、私は彼らの『飢え』を知っている。……追い詰められた獣は、生き残るためなら何でもする。彼らは、金に糸目をつけずに武器を買うだろう」
グラバーは、幕府側の要人ともパイプを持っている。
永倉新八という、底知れない男とも面識があった。
永倉の進める近代化は素晴らしいが、あまりに急進的で、あまりに「日本的」に過ぎる。
もし幕府が完全に日本を統一し、自力で工業化を成し遂げれば、英国にとって旨味のある市場ではなくなってしまう。
「適度な混乱、適度な内戦は、商売の華だ」
グラバーは手すりを叩いた。
「薩長には頑張ってもらわねばな。……幕府の力を削ぎ、日本を二分する勢力であり続けてもらわねば、我々が介入する余地がなくなる」
彼は、積み荷が運び込まれる船を見つめながら、目を細めた。
「さあ、運びたまえ。……この国の夜明けを、血の色で染めるための道具をな」
冬の風が、長崎の丘を吹き抜けていく。
薩摩、長州、そして長崎。
それぞれの場所で、それぞれの思惑が蠢き始めていた。
彼らは知っている。
次に来る春は、花見の季節ではない。
血と硝煙の匂いに満ちた、戦争の季節であることを。
◇
そして、長州・萩の城下外れ。
病床にあるはずの男の元へ、木戸孝允が足を運んでいた。
高杉晋作。
稀代の革命児は、親友の足音を聞き、静かに瞼を開いた。
木戸は英国との密約を盾に徹底抗戦を主張し、大久保は幕府の陰謀論を唱えて主君を説得します。
追い詰められた二人の傑物は、生き残りを賭けて修羅の道を選びました。
彼らの執念が、日本を二分する大戦へと導いていきます。




