表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
169/169

第169話:落ち延びた者たち

京を追われ、逆賊の汚名を着せられた長州の木戸孝允と薩摩の大久保利通。

彼らはそれぞれの故郷で、絶体絶命の窮地に立たされていました。

 日本海は鉛色の空と海に閉ざされていた。

 荒れ狂う波を切り裂き、一隻の蒸気船が長州・萩の港へと滑り込む。

 船から降り立った男の顔色は、海の色よりも蒼白く、しかしその瞳だけは異様な熱を帯びていた。

 桂小五郎、今は木戸孝允とも名乗る男である。


 京でのクーデター失敗。そして、あろうことか皇子・睦仁親王の死。

 その報せは、すでに早馬によって長州藩内にもたらされていた。

 藩庁は蜂の巣をつついたような騒ぎになっており、帰還した木戸を見る視線は、決して温かいものではなかった。


「桂! 貴様、何ということをしてくれたのだ!」

 藩庁の広間に足を踏み入れるなり、重臣の一人が怒号を浴びせた。

「帝に弓引く逆賊の汚名、のみならず皇子殺しの大罪まで……! 長州はこれで終わりだ! 貴様が腹を切ったところで、償えるものではないぞ!」


 罵声が飛び交う中、木戸は無言で上座を見据えていた。

 彼の脳裏には、京の都で見た地獄絵図が焼き付いている。

 燃え盛る御所、逃げ惑う人々、そして――崩れ落ちる親王の輿。

 あれは事故だった。薩摩の暴発だった。

 だが、そんな弁明が通じる段階はとうに過ぎている。


「……お静まりを」

 木戸は、静かだがよく通る声で言った。

 その一言に込められた気迫に、重臣たちが一瞬口をつぐむ。

「腹を切れば、長州は助かるのですか? 私の首を幕府に差し出せば、家茂公や永倉新八は、長州の存続を許してくれると本気でお思いか」


 木戸はゆっくりと広間を見渡した。

「否、断じて否です。幕府は、この機を逃しはしない。朝敵討伐の大義名分を得た彼らは、長州を根絶やしにするつもりで攻め込んでくるでしょう。領地は没収、家名は断絶。我々は歴史から消されるのです」

「だ、だからこそ、恭順の意を示し……」

「恭順など無意味!」

 木戸が一喝した。

「相手は新選組、あの永倉ですぞ。彼が目指しているのは、藩という枠組みの解体だ。我々が膝を屈しようとも、彼が描く『新しい日本』に、特権階級としての武士の居場所などない。……戦うしか、ないのです」


 木戸の言葉は、詭弁に近い。

 だが、絶望的な状況に置かれた人間にとって、それは唯一の「希望」という名の麻薬でもあった。

「毒を食らわば皿まで。……我々はすでに修羅の道に入った。ならば、最後まで悪鬼羅刹となって戦い抜くのみ。幕府を倒し、勝てば官軍。負ければ賊軍。……単純明快な話ではありませんか」


 広間の空気が変わった。

 恐怖と絶望が、悲壮な決意へと変質していく。

「それに……手は打ってあります」

 木戸は懐から一通の書状を取り出した。

「英国公使パークス、そして武器商人グラバーとの密約です。彼らは、幕府の独裁を望んでいない。……世界最強の海軍を持つ英国が、我々の後ろ盾となる」


 嘘ではないが、真実のすべてでもない。

 英国はあくまで自国の利益のために動いているだけだ。

 だが、今の長州には、すがれる藁が必要だった。

 木戸は、自らの良心を心の奥底に封印し、冷徹な政治家としての仮面を被り直した。

(高杉……。お前なら、今の俺を笑うか。それとも、斬るか)

 盟友の顔を思い浮かべながら、木戸は拳を握りしめた。


 ◇


 一方、南国・薩摩。

 鹿児島城下もまた、重苦しい空気に包まれていた。

 大久保利通の帰還は、長州の木戸以上に厳しいものとなった。

 何しろ、親王殺害の直接の実行犯は、薩摩藩士だったのだから。


「一蔵(大久保)! おはん、どげんつもりじゃ!」

 国父・島津久光の怒りは凄まじかった。

 扇子を床に叩きつけ、大久保を睨みつける。

「皇子を殺めるなど、言語道断! 薩摩は朝廷への忠義を第一としてきた。それが、逆賊の汚名を着せられるとは……! 先祖に申し開きができん!」


 大久保は、畳に額を擦り付けんばかりに平伏していた。

 だが、その表情に動揺はない。

 彼は、京からの帰路、あれこれと心中に見立てを重ねてきた。

 感情に訴える久光を、どう論理でねじ伏せるか。


「久光様。……恐れながら、申し上げます」

 大久保は顔を上げ、冷静な瞳で主君を見返した。

「あの事件は、幕府の陰謀でごわす」

「な、なんじゃと?」

「実行犯とされる者は、確かに我が藩の者。しかし、彼らは何者かに操られておりました。……あるいは、新選組の者が薩摩の羽織を偽装し、凶行に及んだ可能性も否定できませぬ」


 明らかな嘘である。

 だが、大久保は眉一つ動かさずに言い切った。

「幕府は、薩摩の武力を恐れております。ゆえに、我らを朝敵に仕立て上げ、諸藩を動員して潰そうとしているのです。……ここで久光様が私の首を刎ね、幕府に謝罪したとしても、彼らは止まりますまい。薩摩七十七万石は分割され、島津家は取り潰しとなりましょう」


 久光の顔色が青ざめる。

 大久保は畳みかけた。

「幕府の狙いは、中央集権。つまり、島津家のような大大名の力を削ぐことにあります。……座して死を待つか、それとも乾坤一擲、幕府の不義を正す戦いに打って出るか。……道は二つに一つ」


「……しかし、朝廷を敵に回しては……」

「朝廷もまた、幕府の人質となっているのです!」

 大久保の声が熱を帯びた。

「帝は、幕府に騙されておられる。……我らが京へ攻め上り、君側のかんを除かねばなりませぬ。それこそが、真の忠義!」


 詭弁である。

 だが、薩摩隼人たちの血を沸騰させるには十分な論理だった。

「西郷さぁも、同じ考えでごわす」

 大久保は、切り札を出した。

 藩内で絶大な人気を誇る西郷隆盛の名が出ると、周囲の空気が一気に「主戦論」へと傾く。

「……西郷が、そう言うておるのか」

 久光は呻くように言った。

 大久保は深く頷く。

「はい。……すでに西郷さぁは、奄美より戻り、兵の調練を始めております。……異国の最新兵器を揃え、幕府軍を迎え撃つ準備は整いつつあります」


 大久保は、心の中で冷たい汗を拭った。

 西郷を説得するのは、これからだ。

 だが、彼ならば分かってくれるはずだ。

 もはや、引き返せないところまで来てしまったのだと。

(おい達は、悪党になるしかなかった。……ならば、とことんまで悪党を演じきって、勝つしかない)

 大久保の瞳の奥に、暗い炎が揺らめいた。


 ◇


 そして、長崎。

 大浦天主堂の近く、小高い丘の上に建つ洋館。

 トーマス・グラバーは、テラスで葉巻をくゆらせながら、眼下に広がる長崎港を見下ろしていた。

 港には、彼の商会が手配した蒸気船が停泊し、木箱が次々と積み込まれている。

 中身は、最新式のミニエー銃と、アームストロング砲だ。


「……ミスター・グラバー」

 背後から、秘書が声をかけた。

「薩摩と長州からの送金、確認できました。……しかし、本当によろしいのですか? 彼らは今や『朝敵』です。幕府軍が勝利すれば、我々の立場も危うくなりますが」


 グラバーは、ふっと笑い、紫煙を吐き出した。

「ビジネスにおいて、リスクのない投資などありえないよ」

 彼は流暢な日本語で答えた。

「それに、私は彼らの『飢え』を知っている。……追い詰められた獣は、生き残るためなら何でもする。彼らは、金に糸目をつけずに武器を買うだろう」


 グラバーは、幕府側の要人ともパイプを持っている。

 永倉新八という、底知れない男とも面識があった。

 永倉の進める近代化は素晴らしいが、あまりに急進的で、あまりに「日本的」に過ぎる。

 もし幕府が完全に日本を統一し、自力で工業化を成し遂げれば、英国にとって旨味のある市場ではなくなってしまう。


「適度な混乱、適度な内戦は、商売の華だ」

 グラバーは手すりを叩いた。

「薩長には頑張ってもらわねばな。……幕府の力を削ぎ、日本を二分する勢力であり続けてもらわねば、我々が介入する余地がなくなる」

 彼は、積み荷が運び込まれる船を見つめながら、目を細めた。

「さあ、運びたまえ。……この国の夜明けを、血の色で染めるための道具をな」


 冬の風が、長崎の丘を吹き抜けていく。

 薩摩、長州、そして長崎。

 それぞれの場所で、それぞれの思惑が蠢き始めていた。

 彼らは知っている。

 次に来る春は、花見の季節ではない。

 血と硝煙の匂いに満ちた、戦争の季節であることを。


 ◇


 そして、長州・萩の城下外れ。

 病床にあるはずの男の元へ、木戸孝允が足を運んでいた。

 高杉晋作。

 稀代の革命児は、親友の足音を聞き、静かに瞼を開いた。


木戸は英国との密約を盾に徹底抗戦を主張し、大久保は幕府の陰謀論を唱えて主君を説得します。

追い詰められた二人の傑物は、生き残りを賭けて修羅の道を選びました。

彼らの執念が、日本を二分する大戦へと導いていきます。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ