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第168話:江戸の備え

京での悲報と戦乱の予兆は、遠く離れた江戸にも届いていました。

新八の身を案じる佐那は、彼を支えるために立ち上がります。

 江戸の冬空は、どこまでも高く、澄み渡っていた。

 だが、その静けさとは裏腹に、神田お玉ヶ池の玄武館には、いつもとは違う緊張感が漂っていた。


メーン!」

 鋭い気合と共に、竹刀が打ち込まれる。

 千葉佐那は、汗を拭うこともなく、次の相手に向き直った。

 彼女の剣は、以前にも増して鋭く、そしてどこか悲壮な響きを帯びていた。

 京からの急報が届いたのは、三日前のことだ。

 睦仁親王の崩御。そして、薩長が朝敵となり、幕府軍による討伐が決定したという報せ。

 それは、佐那にとっても衝撃的な事実だった。


「……佐那」

 稽古を終え、道場の隅で息を整えていると、父・千葉定吉が声をかけてきた。

 桶町千葉道場の主であり、佐那の実父である。

 今日は、本家である玄武館に、病床にある兄・千葉周作を見舞いに来ていたのだ。

「少し、休め。……根を詰めすぎだ」

「いえ、父上。私はまだ……」

「新八殿のことを案じているのだろう」

 定吉の言葉に、佐那はハッとして顔を上げた。

 図星だった。

 彼女の脳裏には、常に永倉新八の姿があった。

 京での激戦、そして親王を守れなかったという自責の念に苦しむ彼の姿が、ありありと浮かんでくるのだ。


「新八様は……誰よりも優しい方です」

 佐那は、竹刀を握りしめたまま呟いた。

「だからこそ、今回の悲劇を、ご自分の責任だと感じておられるはずです。……その重荷を、お一人で背負わせるわけにはいきません」

 彼女の瞳には、揺るぎない決意が宿っていた。

 かつて、坂本龍馬との婚約破棄という過去を乗り越え、彼女は強くなった。

 だが、今の強さは、それとは違う。

 愛する人を支え、共に戦うための強さだ。


「新八様が背負う十字架、私にも半分背負わせてください」

 佐那は、父に向かって深く頭を下げた。

「父上、お願いがございます。……道場の門弟たちを動員し、江戸の警備を強化させてください。京から逃れた不逞浪士たちが、この江戸に潜伏している可能性があります」


 定吉は、娘の顔をじっと見つめ、やがて大きく頷いた。

「よかろう。……お前の思う通りにせよ。桶町千葉道場の総力を挙げて、江戸を守るのだ。……兄上(周作)も、『佐那に任せよ』と仰っていた」

「ありがとうございます!」


 その日から、佐那の奔走が始まった。

 彼女は、単に道場の門弟を見回りに立たせるだけでなく、江戸市中の顔役や商人たちとも連携し、独自の「情報網」を構築し始めた。

 永倉新八から教わった「情報の重要性」を、彼女なりに実践しようとしたのだ。

 髪結い、飛脚、行商人。

 街の至る所に目と耳を配置し、不審な動きがあれば即座に報告が入る仕組みを作り上げた。


 そして、その網に、微かな反応があった。


「……佐那様、ご報告いたします」

 数日後の夜、道場の一室に、一人の門弟が駆け込んできた。

 彼は、普段は魚屋として市中を回っている男だ。

「深川の船宿に、妙な客が出入りしています。……京言葉を使い、人目を避けるようにしている男たちです。大量の薬や、火薬の材料らしきものを運び込んでいるとの噂も……」

「火薬……?」

 佐那の眉が動いた。

 ただの逃亡者ではない。何か事を構えようとしている。

「直ちに確認に向かいます。……相手は死に物狂いです。油断は禁物ですよ」


 深夜、深川の船宿「松乃屋」。

 周囲は静まり返り、川の水音だけが聞こえる。

 佐那は、黒の稽古着に身を包み、十数名の門弟たちと共に、宿を取り囲んでいた。


「……踏み込む!」

 佐那の合図と共に、門弟たちが一斉に押し入った。

「御用だ! 神妙にしろ!」

 宿の中は、瞬く間に修羅場と化した。

 浪士たちが抜刀し、抵抗する。その動きは鋭く、統率が取れていた。

「こやつら、ただの浪人ではない!」

 門弟の一人が叫ぶ。

 佐那は小太刀を振るい、敵を制圧しながら奥の部屋へと走った。

 この組織を束ねる頭目がいるはずだ。


 最奥の部屋。

 襖を蹴破ると、そこには――誰もいなかった。

 だが、火鉢にはまだ火が残っており、文机の上には書きかけの書状が散乱していた。

 そして、床には独特の香の匂いが漂っている。

「……逃げられたか」

 佐那は悔しげに唇を噛んだ。

 机の上の書状を手に取る。そこには、暗号のような文字の羅列と、『江戸』『火』という不穏な単語が見え隠れしていた。

「佐那様! 捕らえた男たちは、全員自害しました! 何一つ情報を吐きません!」

 部下の報告に、佐那は背筋が寒くなるのを感じた。

 捕まれば自害を選ぶほどの、狂信的な集団。

 そして、その背後にいる、姿なき黒幕。


「……この江戸に、とてつもない怪物が潜んでいるのかもしれません」

 佐那は、闇の濃い窓の外を見つめた。

 彼女の勘が告げていた。

 これは終わりではない。始まりに過ぎないのだと。


 その頃、現場から遠く離れた屋形船の上。

 一人の老人が、騒ぎになる船宿の方角を冷ややかに見つめていた。

 岩倉具視である。

「フン……。千葉の小娘か。鼻が利くの」

 岩倉は、盃を傾けながら低い声で笑った。

「だが、所詮は捨て駒よ。……本番はこれからじゃ」

 彼の背後には、闇に溶け込むようにして数名の影が控えている。

「薩摩と長州は、ただでは転ばぬ。……この江戸を火の海にし、幕府の喉元を食い破ってくれるわ」


 岩倉の目が、狂気の色を帯びて光った。

 彼の手の中で、計画は着々と進行していた。

 討伐軍が出発するその時こそ、江戸を恐怖のどん底に叩き落とす好機。


 翌朝。

 佐那は、押収した資料を前に、表情を引き締めていた。

「……新八様」

 彼女は、心の中で語りかけた。

「敵は、まだこの江戸にいます。……必ずや、私が食い止めてみせます」

 彼女の戦いもまた、始まったばかりだった。

 見えざる敵との、暗闘の日々が幕を開ける。


 一方、西の空の下では、敗走した者たちが、次なる陰謀を巡らせていた。

 薩摩の大久保利通、長州の木戸孝允。

 彼らはまだ、死んではいない。

 むしろ、追い詰められた獣のように、より凶暴に、より狡猾に、牙を研いでいた。



佐那の活躍により、不穏な動きを見せる浪士集団の拠点が暴かれました。

しかし、彼らは自害し、背後には岩倉具視の影が見え隠れします。

江戸を舞台にした、目に見えぬ「怪物」との戦いが始まります。

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