第166話:空虚な玉座
幕府軍の勝利にもかかわらず、京の街には重苦しい沈黙が漂っています。
新八は皇子を死なせた罪悪感に苛まれますが、家茂は友として彼に語りかけます。
悲しみを共有する二人は、新たな未来への一歩を踏み出します。
京の街から砲声が消え、代わりに重苦しい沈黙が降りていた。
幕府軍の勝利は決定的だった。薩長は敗走し、京の治安は回復しつつある。
だが、その勝利を祝う空気は、どこにもなかった。
俺は、二条城の一室で、窓の外に広がる京の街並みを眺めていた。
かつて、この街を守るために奔走した日々が、遠い昔のことのように思える。
俺は、何のために戦ってきたのだろうか。
未来を変えるため。悲劇を回避するため。
そう信じて、がむしゃらに走ってきた。
だが、その結果がこれだ。
睦仁親王の死。
史実では明治天皇となり、近代日本の象徴となるはずだった少年が、俺の介入によって命を落とした。
その事実は、鉛のように重く、俺の心にのしかかっていた。
「……永倉」
背後から、静かな声がした。
振り返ると、徳川家茂公が立っていた。
その顔には、深い疲労の色が滲んでいる。
「上様……」
俺は慌てて姿勢を正そうとしたが、家茂公は手でそれを制した。
「よい。……今は、主従としてではなく、友として話したい」
家茂公は、俺の隣に並び、同じように窓の外を見つめた。
「……空しいな」
「はい……」
俺は、言葉を絞り出した。
「勝ったはずなのに、何も得ていないような気がします」
「得たものはある。……幕府の権威、そして薩長という脅威の排除だ」
家茂公は、淡々と言った。
「だが、失ったものがあまりに大きすぎる。……帝のお心は、砕け散ってしまわれた」
昨日、俺たちは御所に参内し、帝に拝謁した。
その時の帝の様子は、見るに堪えないものだった。
かつての威厳に満ちた姿はどこにもなく、ただ愛する子を失った一人の父親としての悲嘆だけがあった。
玉座は、物理的にはそこにある。
だが、その上に座る帝の心は、空っぽになってしまったかのようだった。
そして、次代を担うはずだった皇子の席もまた、永遠に空席となってしまった。
「永倉よ」
家茂公が、ふと俺の方を向いた。
「そなたは、自分を責めているな」
「……はい」
俺は、隠すことなく頷いた。
「私が……余計なことをしなければ、親王殿下は死なずに済んだのかもしれません。……世の中を変えるなどという傲慢な考えが、この悲劇を招いたのです」
「……そうかもしれぬ」
家茂公は、否定しなかった。
その言葉が、胸に突き刺さる。
「だが、そなたがいなければ、余はもっと早くに死んでいたかもしれぬし、日本は内戦で引き裂かれていたかもしれぬ。……歴史に『もし』はないのだ」
家茂公の手が、俺の肩に置かれた。
その手は温かく、そして力強かった。
「起きてしまったことは、変えられぬ。……ならば、我々にできることは一つだ。この悲劇を無駄にせず、より良い未来を創ること。……それが、死んでいった者たちへの、せめてもの手向けであろう」
俺は、涙をこらえるのに必死だった。
この若き将軍は、俺よりも遥かに重いものを背負いながら、それでも前を向こうとしている。
俺がここで立ち止まっていて、どうする。
「……はい。……仰る通りです」
俺は、涙を拭い、顔を上げた。
「私は、逃げません。……この罪を背負ったまま、最後まで上様にお供します」
「うむ。頼りにしているぞ」
家茂公は、微かに微笑んだ。
その笑顔は、どこか儚げで、しかし芯の強さを感じさせるものだった。
その後、家茂公は執務机に向かい、筆を執った。
戦後処理や遠征軍の編成に関する書類ではない。
私的な手紙のようだった。
「……和宮様への手紙か?」
俺は、心の中で呟いた。
家茂公と和宮様の夫婦仲が良いことは、この世界線でも変わりはない。
この激動の中、江戸に残した妻を案じる気持ちは、いかばかりだろうか。
そして、和宮様にとって、亡くなった睦仁親王は実の甥にあたる。
兄である帝の悲しみ、そして可愛がっていたであろう甥の死。
その二重の悲報を、家茂公は自らの言葉で伝えなければならないのだ。
家茂公は、一文字一文字、心を込めて筆を走らせていた。
『……京での戦いは終わりました。私は無事です。しかし、私の手は、多くの血で汚れてしまったかもしれません。そして何より、貴女の愛する甥御様、睦仁親王殿下をお守りすることができませんでした。帝の悲しみを目の当たりにし、私は修羅となる覚悟を決めました。……それでも、貴女の元へ帰る日を夢見て、この身を捧げます』
書き終えた手紙を封筒に入れ、家茂公は俺に手渡した。
「永倉。……これを、早馬で江戸へ送ってくれぬか」
「承知いたしました」
俺は、その手紙を恭しく受け取った。
それは、単なる手紙ではない。
家茂公の魂の一部であり、和宮様への懺悔と愛の証だ。
◇
数日後、江戸城大奥。
和宮は、家茂からの手紙を手にしていた。
周囲の女中たちを下がらせ、一人静かに封を切る。
読み進めるにつれ、その目から涙が溢れ出した。
夫の苦悩、悲しみ、そして覚悟が、痛いほどに伝わってくる。
そして、手紙の行間からは、甥の死を悼む家茂の無念さが滲み出ていた。
「……睦仁……」
和宮は、幼い頃に見た甥の笑顔を思い出した。
兄である帝が、どれほど彼を慈しんでいたか。
その希望が、無惨にも奪われたのだ。
和宮の胸に、深い悲しみと共に、薩長への静かな怒りが込み上げてきた。
「……上様」
和宮は、手紙を胸に抱きしめた。
皇女として生まれ、政略結婚で将軍家に嫁いだ彼女にとって、家茂は唯一無二の理解者であり、愛する人だった。
その彼が今、遠い京の地で、血塗られた道を歩もうとしている。
甥を守れなかった自責の念に駆られながら、それでも日本のために剣を取ろうとしている。
「……どのような貴方様でも、私は受け入れます」
和宮は、江戸の空を見上げ、祈るように呟いた。
「修羅となろうとも、鬼となろうとも……貴方様は、私の夫です。……どうか、ご無事で。生きて、お戻りください」
その祈りは、遠く離れた京の空にも届いているだろうか。
夫婦の絆は、悲劇の中でより深く、強く結ばれていた。
◇
京では、着々と「薩長討伐」の準備が進められていた。
これは、単なる報復戦ではない。
古い膿を出し切り、新しい日本を創るための聖戦。
その言葉には、悲壮な決意が込められていた。
俺は、軍議の席で地図を広げた。
薩摩、長州、そしてそれを取り巻く諸藩の動き。
これまでの歴史知識は、もう通用しない。
ここから先は、俺自身が考え、判断し、切り開いていかなければならない未知の領域だ。
「……やるしかないか」
俺は、自分自身に言い聞かせた。
空虚な玉座を、希望で満たすために。
死んでいった親王殿下のためにも、決して恥じない国を創るために。
家茂は和宮への手紙に、自身の苦悩と覚悟を綴りました。
江戸城でその手紙を受け取った和宮は、夫の想いと甥の死に涙し、薩長への怒りを胸に秘めます。
遠く離れた二人の心が、悲しみの中で強く結びつきます。




