第165話:偽りの夜明けの終わり
敗走する薩長軍に向けられるのは、かつての歓声ではなく、民衆からの冷ややかな視線と罵声でした。
彼らの夢見た「維新」は、皇子の血と共に永遠に失われました。
そして、深い悲しみに包まれた御所で、帝がついに決断を下します。
京を追われた薩長軍の敗走は、惨めなものだった。
俺は、伏見の丘からその光景を見下ろしていた。
淀川を下り、大阪方面へと逃れる彼らを待ち受けていたのは、敵軍の追撃だけではない。
沿道の村々、町々の民衆が向ける、凍てつくような冷ややかな視線だ。
「見ろ、あれが皇子様を殺した逆賊どもだ」
「なんと恐ろしいことを……天罰が下るぞ」
「石を投げろ! 人殺しめ!」
かつて「尊王攘夷」を掲げ、民衆の歓呼に迎えられた志士たちの姿は、そこにはなかった。
泥にまみれ、傷つき、肩を落として歩く彼らは、ただの「朝敵」であり、忌むべき「国賊」へと成り下がっていた。
逃げ遅れた兵の中には、絶望のあまり自害する者や、恐怖に錯乱して味方に斬りかかる者さえいたという。
薩摩の大久保利通や西郷隆盛、長州の木戸孝允らは、かろうじて本国への撤退を指揮しているらしいが、その背中には、かつての威光など微塵も残っていないだろう。
彼らが夢見た「維新」という名の夜明けは、最も残酷な形で、永遠に失われたのだ。
俺は、拳を握りしめた。
これが、俺が望んだ結果なのか?
確かに、薩長の野望は砕かれた。彼らの描いた「明治維新」は、もう二度と訪れない。
だが、その代償として支払われたのは、睦仁親王という、あまりにも尊い犠牲だった。
俺は、未来を変えようとして、もっと酷い未来を招いてしまったのではないか。
その問いが、胸の中でぐるぐると渦巻いていた。
数日後、京の御所。
深い静寂に包まれた常御殿の奥で、孝明天皇は玉座に力なく座していた。
その顔色は蝋のように白く、頬はこけ、数日の間に十年も老け込んだように見えた。
俺は、家茂公の後ろに控え、その姿を直視することができなかった。
だが、帝の瞳だけは、暗い炎のような怒りに燃えていた。
「……家茂」
御簾の向こうに控える家茂公に、帝が声をかけた。
その声は掠れていたが、底知れぬ憎悪が滲んでいた。
「睦仁は……還らぬのだな」
「……誠に、申し訳ございません」
家茂公は平伏し、額を畳に擦り付けた。
謝罪の言葉など、何の意味も持たないことは分かっていた。
それでも、謝らずにはいられなかったのだろう。
俺もまた、心の中で深く頭を下げた。
守れなかった。
未来を知っていながら、最悪の事態を防げなかった。
「朕は、許さぬ」
帝の声が、震えながら高まった。
「朕の愛し子を奪い、神聖なる京の都を血で汚した、あの者どもを……断じて許さぬ!」
バン、と帝が扇子を床に叩きつけた。
その音は、静寂な広間に雷鳴のように響いた。
「家茂よ。……朕の悲しみを、怒りを、そなたの剣で晴らしてくれ。……薩摩と長州を、完膚なきまでに討ち滅ぼせ!」
それは、明確な勅命だった。
もはや政治的な駆け引きや、慈悲の入る余地はない。
親としての、そして君主としての、血の叫びだった。
「……御意」
家茂公は、顔を上げた。
その目には、涙と共に、悲壮な決意が宿っていた。
「この家茂、命に代えましても、帝の御無念を晴らしてみせまする。……逆賊・薩長を討ち、必ずや天下に正義を示しましょう」
翌日、二条城。
大広間には、京に駐留する諸藩の重臣たちが集められていた。
会津の松平容保公、桑名の松平定敬公をはじめ、これまで日和見を決め込んでいた藩の代表者たちも、青ざめた顔で列席している。
上段の間には、家茂公が威儀を正して座していた。
俺はその傍らに立ち、会場全体を見渡していた。
「皆の者、心して聞け」
家茂公の声が、広間に朗々と響き渡る。
「帝より、勅命が下った。……薩摩藩、および長州藩は、皇子殺害の大罪を犯した朝敵である。これより、幕府軍を中核とした『官軍』を編成し、逆賊討伐の兵を挙げる!」
おお……と、どよめきが広がった。
ついに、決定的な命令が下されたのだ。
これまで「尊王」を旗印に幕府と対立してきた薩長が、名実ともに「賊軍」となり、幕府が「官軍」となる。
歴史の攻守が、完全に逆転した瞬間だった。
「これより、全国の諸藩に檄文を発する」
家茂公は続けた。
「朝廷に弓引く逆賊に味方する者は、同罪とみなす。……各藩、直ちに兵を出し、薩長討伐の軍に加われ!」
「ははぁっ!!」
諸将が一斉に平伏する。
その中には、土佐藩の後藤象二郎の姿もあった。彼は額に脂汗を浮かべながら、必死に頭を下げていた。
薩長同盟の仲介役を果たそうとしていた土佐にとって、この事態は致命的だ。
今すぐにでも幕府への恭順を示さなければ、土佐もまた「朝敵」の汚名を着せられ、滅ぼされることになる。
軍議の後、俺は城郭の一角から、慌ただしく出陣の準備を進める兵たちを見下ろしていた。
勝利の興奮に沸く彼らとは対照的に、俺の心は冷え切っていた。
「……これで、後戻りはできなくなりましたね」
背後から、勝海舟先生が声をかけてきた。
彼もまた、いつもの飄々とした態度はなく、複雑な表情を浮かべている。
「ええ。……薩長は終わりです」
俺は静かに答えた。
「彼らが掲げた『維新』という夢は、皇子の血と共に消え去った。……でも、これは平和の始まりじゃない」
史実では、鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍が「朝敵」とされ、賊軍として追われる身となった。
その絶望、その屈辱、その悲劇を、俺は知っている。
今、その立場が逆転し、薩長がその地獄を味わうことになるのだ。
追い詰められた獣は、死に物狂いで牙を剥く。
これから始まるのは、単なる掃討戦ではない。
生存をかけた、泥沼の殺し合いだ。
「勝先生」
俺は、勝先生の方を向いた。
「俺たちが目指すのは、薩長を根絶やしにすることじゃありません。……彼らを屈服させ、新しい日本の枠組みの中に組み込むことです」
「……難しい注文だな」
勝先生は苦笑した。
「帝は、薩長の殲滅をお望みだ。……それを止めれば、今度は幕府が不忠者扱いされかねねぇ」
「それでも、やらなきゃならない」
俺は拳を握りしめた。
「報復の連鎖は、どこかで断ち切らなきゃならないんです。……たとえ、それがどれほど困難な道でも」
俺の脳裏に、睦仁親王の笑顔が浮かんだ。
あの子が望んだのは、血で血を洗う日本ではないはずだ。
ならば、その遺志を継ぐ者が、修羅となってでも、憎しみの連鎖を止めなければならない。
それが、あの子を死なせてしまった俺の、せめてもの贖罪だ。
「行きましょう、勝先生」
俺は歩き出した。
「偽りの夜明けは終わった。……これからは、俺たちが本当の夜明けを作る番です」
京の空には、厚い雲が垂れ込めていたが、その隙間から一筋の光が差し込んでいた。
それは、希望の光か、それとも戦火の予兆か。
俺は、その光を睨みつけながら、次なる戦場へと足を踏み出した。
歴史の歯車は、軋みを上げながら、未知の領域へと回り始めていた。
帝の勅命により、薩長は正式に「朝敵」となり、幕府が「官軍」となりました。
歴史の攻守は完全に逆転し、諸藩も雪崩を打って幕府側につきます。
しかし、新八の心は冷え切ったまま、新たな戦いの予感に震えていました。




