第164話:悲劇の勝利
幕府軍の圧倒的な勝利で戦いは終わりました。しかし、新八の心は晴れません。
皇子の死という犠牲の上に成り立つ平和に、彼は深い罪悪感を抱きます。
京の街から、黒煙が晴れようとしていた。
砲声は止み、代わりに聞こえてくるのは、勝利を祝う幕府兵たちの歓声と、敗走した薩長軍が残した残骸が風に揺れる音だけだった。
圧倒的な勝利だった。
最新鋭の装備と、朝廷からの勅命という絶対的な大義名分を得た幕府軍は、薩長軍を完全に粉砕した。
だが、その中心にいる永倉新八の心は、鉛のように重かった。
二条城、大広間。
将軍・徳川家茂の御前には、戦勝報告のために諸将が集まっていた。
松平容保、勝海舟、そして新選組の近藤勇や土方歳三。
皆、安堵と誇らしげな表情を浮かべている。
無理もない。彼らは、絶体絶命の危機を脱し、逆賊を討ち果たしたのだから。
「皆、よくやってくれた」
家茂の声は穏やかだったが、その瞳には深い悲しみが宿っていた。
「これで、京の都に平穏が戻るであろう。……だが、その代償はあまりにも大きかった」
その言葉に、広間の空気が一瞬で張り詰めた。
誰もが、睦仁親王の死を想起したからだ。
家茂は、視線を永倉に向けた。
「永倉。……そなたの知恵と勇気がなければ、この勝利はなかった。礼を言うぞ」
「……もったいなきお言葉」
永倉は深く頭を下げた。
だが、顔を上げることはできなかった。
勝利の立役者として称賛される自分が、ひどく薄汚れた存在に思えたからだ。
広間を出た後、永倉は一人、城内の庭園を歩いていた。
手入れの行き届いた松の木や、静かに水を湛える池も、今の彼の目には色あせて見えた。
「……俺は、何をしたかったんだ」
永倉は、池の水面に映る自分の顔を見つめて呟いた。
現代知識を使い、歴史を変えようとした。
悲劇的な戊辰戦争を回避し、多くの命を救おうとした。
その結果が、これだ。
たった一人の、罪のない少年の命を犠牲にして得た勝利。
それは、史実の戊辰戦争で流れるはずだった血の量と比べれば、数字の上では「マシ」なのかもしれない。
だが、人の命は数字ではない。
未来を知るという傲慢さが、歴史の歯車を狂わせ、本来死ぬはずのなかった皇子を殺したのではないか。
その罪の意識が、永倉の胸を締め付けた。
「永倉君」
背後から声をかけられた。
振り返ると、フランス公使、レオン・ロッシュが立っていた。
彼は、いつものような自信に満ちた笑みを浮かべていたが、永倉の表情を見て、ふっと真顔になった。
「……勝利を祝う顔ではありませんね」
「……ええ。祝えませんよ、こんな勝利は」
永倉は自嘲気味に笑った。
「我々は勝った。だが、失ったものがあまりに大きすぎる」
「ムツヒト親王のことですか」
ロッシュは、静かに歩み寄った。
「悲劇です。……しかし、歴史とは常に血の上に築かれるものです。フランス革命も、ナポレオン戦争も、多くの犠牲の上に今のフランスがある」
「それは……結果論でしょう」
「そうです。しかし、君が成し遂げたこともまた事実だ。君は、日本が分裂し、内戦で荒廃する未来を防いだ。……薩長が勝っていれば、日本はどうなっていたか。君ならわかるはずだ」
ロッシュの言葉は、鋭く核心を突いていた。
史実の明治維新は、確かに近代化を推し進めたが、その過程で多くの血が流れ、旧幕府側の人間は辛酸を舐めた。
そして何より、薩長による藩閥政治が、後の軍国主義への道を開いた側面もある。
それを防いだという意味では、永倉の行動は正しかったのかもしれない。
だが、感情が追いつかなかった。
「……慰めは結構です、公使」
永倉は首を振った。
「俺は、自分のやったことの責任を背負って生きていくしかない。……この勝利が、本当に日本のためになったのかどうか、それを証明するために」
「……強いですね、君は」
ロッシュは、感嘆のため息をついた。
「私が支援した相手が君でよかった。……これからも、頼みますよ。新しい日本のために」
ロッシュが去った後、今度は別の男が現れた。
伊東甲子太郎だった。
彼は、いつもなら流暢に語る理想論を口にすることなく、沈痛な面持ちで立っていた。
「……永倉君」
「伊東さんか」
「僕は……わからなくなったよ」
伊東は、苦しげに胸を押さえた。
「僕は、尊王攘夷を信じていた。帝を敬い、国を守ることが正義だと。……だが、その尊王を掲げる薩長が皇子を殺し、逆賊となった。そして、幕府が官軍となり、彼らを討った」
彼の瞳は揺れていた。
彼が信じてきた「尊王」という価値観が、根底から覆されたのだ。
「何が正義で、何が悪なのか。……僕にはもう、判断がつかない」
「正義なんて、どこにもないのかもしれませんよ」
永倉は、空を見上げて言った。
「あるのは、それぞれの立場と、守りたいものだけだ。……薩長には薩長の正義があった。我々には我々の正義があった。それがぶつかり合い、壊れた結果がこれです」
「……君は、それでも前に進むのか?」
「進みますよ」
永倉は、伊東を真っ直ぐに見つめた。
「立ち止まっている暇はない。……壊れたものを直して、少しでもマシな形にする。それが、生き残った俺たちの義務ですから」
伊東は、しばらく永倉を見つめていたが、やがて小さく頷いた。
「……君は強いな。僕も、もう少し考えてみるよ。……自分の信じるべき道を」
夕闇が迫る頃、永倉は再び家茂の元を訪れた。
家茂は、執務室で一人、書類に向かっていた。
その背中は、以前よりも少し小さく見えた。
「……上様」
「おお、永倉か」
家茂は顔を上げ、微かに微笑んだ。
「どうした? 何か用か」
「いえ……ただ、お顔を拝見したくて」
永倉は、家茂の前に座った。
この若き将軍もまた、心に深い傷を負っている。
義弟を殺された悲しみと、その原因を作った政治的対立の当事者としての責任。
それでも彼は、将軍として振る舞い続けている。
「永倉よ」
家茂が、不意に言った。
「余は、怖いのだ」
「……怖い、と申されますと?」
「これから始まる時代がだ。……薩長を討ち、幕府は勝った。だが、これは終わりの始まりに過ぎぬ気がしてならぬ」
家茂の直感は鋭かった。
薩長の敗北は、単なる一勢力の消滅ではない。
それは、これまでの幕藩体制という枠組みそのものが、音を立てて崩れ去るきっかけとなるだろう。
勝者である幕府もまた、変わらざるを得ない。
そしてその変化は、多くの痛みを伴うはずだ。
「……私がおります」
永倉は、力強く言った。
「どんな困難が待ち受けていようとも、私が上様をお支えします。……この命に代えても」
それは、家臣としての言葉ではなく、共に罪を背負い、未来を切り開く同志としての誓いだった。
「……そうか。頼もしいな」
家茂は、ようやく心からの笑顔を見せた。
「ならば、共に参ろう。……いばらの道かもしれぬが、そなたがいれば、きっと乗り越えられよう」
窓の外には、一番星が輝いていた。
それは、凶星ではなく、希望の光であることを願わずにはいられなかった。
勝利は悲劇だった。
だが、夜は必ず明ける。
たとえそれが、偽りの夜明けの終わりであったとしても、その先には本物の朝が待っているはずだ。
永倉は、拳を握りしめた。
その手には、確かな熱が宿っていた。
勝利の祝杯の中、新八は苦悩します。
しかし、伊東との対話を経て、壊れた歴史を修復する決意を新たにしました。
そして、家茂との再会。
悲しみを共有する二人の前に、新たな試練が待ち受けている予感が漂います。




