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第162話:崩壊の始まり

帝の詔は、薩長軍に決定的な打撃を与えました。

「官軍」という大義名分を失った兵士たちは戦意を喪失し、軍は内部から崩壊を始めます。

第162話:崩壊の始まり


「朝敵……我らが、朝敵じゃと……?」


 その言葉は、呪詛のように薩長軍の陣地を蝕んでいった。

 つい数刻前まで、彼らは「官軍」としての誇りに満ちていた。

 帝の御旗を掲げ、正義の戦いを行う聖なる兵士たちだと信じていた。

 だが、その拠り所は、帝自身の言葉によって粉々に砕け散った。


 京の洛北、薩長軍の前線基地。

 そこは、戦場というよりは、巨大な葬儀場のような陰鬱な空気に包まれていた。

 銃声は止み、代わりに聞こえてくるのは、兵士たちのすすり泣く声と、絶望的な呟きだけだった。


「おい、聞いたか。帝が激怒されておるらしいぞ」

「皇子様を殺したのは、薩摩の連中だそうだ」

「俺たちは、とんでもないことをしてしまったんじゃ……」


 動揺は、下級兵士から始まった。

 彼らの多くは、純粋に国を憂い、尊王の志を持って参加した若者たちだ。

 それが、蓋を開けてみれば、自分たちは皇子殺しの片棒を担がされ、帝から「万死に値する」と断罪されたのだ。

 戦う意義など、どこにも見出せなかった。


 一人の兵士が、手にしていた最新式のミニエー銃を地面に投げ捨てた。

 カラン、と乾いた音が響く。

 それが合図だったかのように、次々と武器を捨てる者が現れた。

 中には、掲げていた「錦の御旗」を地面に叩きつけ、泥で汚す者さえいた。

 かつて彼らを鼓舞したその旗は、今や彼らを縛り付ける「罪人の証」でしかなかった。


 長州藩の指揮所。

 木戸孝允(桂小五郎)は、青ざめた顔で報告を聞いていた。

「……前線の部隊が、命令を拒否して後退を始めています。もはや統制が取れません」

「……そうか」

 木戸の声は、驚くほど静かだった。

 彼は、この事態を予感していたのかもしれない。

 無理に無理を重ねた挙句の、必然の崩壊。

 彼は、机の上に広げられた京の地図をじっと見つめた。

 そこには、彼らが制圧するはずだった拠点の数々が記されている。

 だが、それらはすべて、幻と消えた。


「撤退だ」

 木戸は短く告げた。

「しかし、桂さん! ここで退けば、長州は終わりです! まだ戦える者はいます!」

 血気盛んな若手将校が食い下がったが、木戸は冷ややかな視線で彼を制した。

「戦ってどうする? 帝に弓引く逆賊として、歴史に名を残すつもりか?」

「うっ……」

「我々は負けたのだ。軍事的にではない。もっと根本的な、道義的な敗北だ」

 木戸は、自分自身に言い聞かせるように言った。

「これ以上、若者を死なせるわけにはいかん。……長州の未来のために、泥を被ってでも生き延びる。それが、今の我々にできる唯一の償いだ」

 かつて「逃げの小五郎」と呼ばれた男は、今、最も困難な「逃げ」を選択した。

 それは、保身のためではない。

 破滅の縁で踏みとどまるための、苦渋の決断だった。


 一方、岩倉具視の隠れ家。

 洛北の寂れた寺の一室で、稀代の策士は、ガタガタと震えていた。

 彼の周りには、書き散らかした密書の残骸が散乱している。

「お、おのれ……おのれ、薩摩の田舎侍どもが……!」

 岩倉は、爪を噛みながら呪いの言葉を吐き続けていた。

 彼の計画は完璧だったはずだ。

 偽の勅命で幕府を追い詰め、錦の御旗で大義名分を得て、一気に新政府を樹立する。

 その絵図が、たった一つの誤算――皇子の死によって、すべて水泡に帰した。


麿まろは……麿は悪くない……! あやつらが、勝手にやったことじゃ……!」

 彼は、責任を転嫁しようと必死だった。

 だが、帝の怒りが、首謀者である自分に向けられていることは明白だった。

 捕まれば、極刑は免れない。

 いや、それ以上の苦しみが待っているだろう。


「逃げる……逃げねば……」

 岩倉は、公家の装束を脱ぎ捨て、薄汚れた町人の着物を羽織った。

 その姿は、かつて朝廷を牛耳ろうとした野心家の面影もなく、ただの怯えた小男に過ぎなかった。

 彼は、数少ない供回りも見捨て、闇に紛れて京を脱出しようとしていた。

 だが、その足取りは重い。

 彼が捨てていくのは、単なる居場所ではない。

 彼が人生をかけて積み上げてきた、野望と権威のすべてだった。


 そして、薩摩藩邸。

 大久保利通は、撤退の準備を進める兵たちを、無表情に見つめていた。

 彼の心の中には、嵐のような感情が渦巻いていたが、それを表に出すことは許されなかった。

 誰かが、冷徹な仮面を被り続けなければ、この軍は全滅する。


「一蔵どん」

 背後から、重い声がかかった。

 西郷隆盛だった。

 その巨体は、一回り小さくなったように見えた。

 目は虚ろで、生気が感じられない。

「……兵たちの様子は、どうじゃ」

「最悪の一言だ。……自害しようとする者も後を絶たん」

 大久保は淡々と答えた。

「そうか……。すまん、一蔵どん。……全部、おいどんの責任じゃ」

 西郷の声が震えた。

 彼は、情に厚い男だ。

 だからこそ、自分が率いてきた兵たちが「朝敵」の汚名を着せられ、苦しんでいる姿を見るのが耐えられなかった。

 何より、彼自身が敬愛してやまない帝を、最も深く傷つけてしまったという罪悪感が、彼の精神を破壊していた。


「吉之助さぁ」

 大久保は、あえて昔の呼び名を使った。

「責任を感じるなら、生きっくいやんせ。……死んで楽になろち、許しもはんぞ。」

「……生き地獄じゃっどな」

「左様でごわす。おいどんは、修羅になりもした。……じゃれば、修羅として生き抜くしかなが」

 大久保は、西郷の肩を強く掴んだ。


「薩摩へ帰りもす。そいして、いつか必ず、こん汚名をすすぎもす。……そいまでは、泥水ばすすっせぇも生き延びもんそ」

 西郷は、大久保の目を見つめ返した。

 その瞳の奥にある、狂気にも似た執念を感じ取り、ゆっくりと頷いた。

「……わかった。……おはんがそげん言うなら、付き合っど」


 夜明け前。

 薩長軍は、京からの撤退を開始した。

 それは、整然とした行軍ではなく、雪崩を打つような敗走だった。

 彼らは、追撃を恐れ、武器や物資を捨て、ただひたすらに南へと走った。

 道端には、力尽きた兵や、絶望して自ら命を絶った者の死体が点々と転がっていた。

 かつて「維新の志士」と呼ばれた者たちの、あまりにも惨めな末路だった。


 その様子を、高台から見下ろす影があった。

 永倉新八だった。

 隣には、原田左之助が立っている。

「……終わったな、薩長は」

 左之助が、槍を肩に担ぎながら呟いた。

「ああ。……だが、これからが本当の戦いだ」

 俺は、逃げ惑う敵の背中を見つめながら言った。

 彼らが崩壊したのは、自滅に近い。

 だが、まだ彼らの息の根を止めたわけではない。

 彼らを逃がせば、必ずまた牙を剥く。

 歴史を変えた責任として、俺たちはこの戦いを完全に終わらせなければならない。


「行くぞ、左之助。……トドメを刺す」

「おうよ! 待ちくたびれたぜ!」

 左之助がニヤリと笑った。

 俺たちの背後には、新選組の隊士たちが、そして幕府軍の大軍が控えている。

 その士気は天を衝くほどに高く、殺気は冷たい朝の空気を震わせていた。


 崩壊は始まった。

 だが、それは単なる終わりの始まりに過ぎない。

 これから始まるのは、慈悲なき掃討戦。

 鬼となり、修羅となった者たちが、互いの存亡をかけて激突する。


長州の木戸は撤退を、岩倉は逃亡を選びました。

一方、薩摩の大久保と西郷は、修羅として生き抜く覚悟を決めます。

崩れゆく野望の中で、彼らの運命は大きく分かれようとしていました。

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