第161話:真の朝敵
深い悲しみに包まれた御所で、帝の慟哭が響き渡ります。
皇子を奪われた怒りは、やがて歴史を揺るがす勅命へと変わりました。
将軍家茂が受け取った、その決意とは。
御所、常御殿。
普段は雅な空気が流れるこの場所も、今は重苦しい沈黙と、張り詰めた緊張感に支配されていた。
御簾の奥から漏れ出る気配は、もはや人ならざるもののようだった。
それは、怒れる神の気配に他ならなかった。
帝は、玉座に座していた。
その顔色は蒼白で、目は血走り、唇はわなないている。
傍らには、中川宮朝彦親王が控えているが、彼もまた、帝の凄まじい怒気に当てられ、顔を上げることができずにいた。
そして、その御前には、将軍・徳川家茂が平伏していた。
家茂の背中もまた、悲しみと責任の重さで小さく震えていた。
「……家茂よ」
帝の声は、地獄の底から響いてくるような低く、恐ろしいものだった。
「はっ……」
「睦仁は……睦仁は、もう戻らぬのだな……」
「……誠に、誠に申し訳ございません……!」
家茂は、額を床に擦り付け、嗚咽を漏らした。
彼にとっても、睦仁親王は義理の甥であり、次代を担う希望の光だった。
和宮との婚姻を通じて、公武の絆を深め、共に新しい日本を築いていくべき仲だったのだ。
その希望が、無惨にも踏みにじられた。
「……余は、信じておった」
帝が、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「薩摩も、長州も、やり方は違えど、国を思う心は同じだと。だからこそ、余は彼らの暴挙にも耐え、対話の道を模索してきた。……だが」
ドンッ!
帝が、手にした扇で脇息を叩きつけた。
その音は、雷鳴のように御殿に響き渡った。
「あやつらは、余の心を……親の心を、踏みにじりおった!」
帝の目から、大粒の涙が溢れ出した。
それは、天皇としての威厳をかなぐり捨てた、一人の父親としての慟哭だった。
「我が子を殺して、何が尊王か! 何が維新か! あやつらは、ただの獣ではないか!」
家茂は、ただひたすらに頭を下げ続けるしかなかった。
かける言葉が見つからなかった。
どんな慰めの言葉も、今の帝には空虚に響くだけだろう。
「……家茂」
帝が、涙を拭い、再び家茂を見据えた。
その瞳には、先ほどまでの悲しみとは違う、冷徹な殺意が宿っていた。
「余は、もう迷わぬ」
「……陛下」
「薩摩、長州、およびこれに加担する者すべてを、朝敵とみなす」
その言葉は、明確な意志を持って放たれた。
「これは、政治ではない。断罪である」
帝は立ち上がり、懐から一通の書状を取り出した。
それは、帝が、その血涙をもってしたためた詔だった。
「この詔を、天下に布告せよ。……『薩長ハ万死ニ値スル朝敵ナリ。一人残ラズ討チ果タセ』とな!」
家茂は、震える手でその詔を受け取った。
紙の重さが、まるで千鈞の岩のように感じられた。
これを受け取るということは、もはや後戻りできない全面戦争への突入を意味する。
だが、家茂に迷いはなかった。
いや、迷うことなど許されなかった。
これは、正義の戦いなのだ。
皇子を殺めた逆賊を討ち、日本の秩序を取り戻すための、聖戦なのだ。
「……御意」
家茂は、深く頭を下げた。
その声には、悲壮な決意が込められていた。
「この家茂、命に代えましても、逆賊どもを討ち果たし、陛下の無念を晴らしてみせまする」
「頼むぞ、家茂。……余の、最後の頼みじゃ」
帝の声が、ふっと弱々しくなった。
怒りを吐き出し終えた後には、深い喪失感だけが残っていた。
家茂は、涙をこらえながら、静かに御殿を後にした。
廊下に出ると、そこには勝海舟と松平容保が待っていた。
二人の顔にも、緊張の色が浮かんでいる。
「上様……」
容保が、心配そうに声をかけた。
家茂は、無言で詔を二人に示した。
その内容を目にした瞬間、二人は息を呑んだ。
「……ついに、出ましたか」
勝が、重々しく呟いた。
「これで、大義は完全に我らにあります」
「ああ」
家茂は、遠くの空を見つめた。
そこには、まだ黒い煙が立ち上っていた。
「だが、勝。……これは、悲しい戦だ」
「はい」
「日の本の民同士が、血で血を洗う。……しかも、その引き金となったのが、あのような悲劇だとはな」
家茂は、拳を握りしめた。
爪が食い込み、血が滲む。
「だが、やらねばならぬ。……これ以上、悲劇を繰り返させないために。新しい日本を、正しい形で迎えるために」
その時、遠くから太鼓の音が聞こえてきた。
それは、幕府軍の進軍を告げる合図だった。
これまで、薩長の挑発に対して受け身に回っていた幕府軍が、ついに反撃の狼煙を上げたのだ。
その音は、京の街に、そして日本中に響き渡るだろう。
「偽りの官軍」が「真の朝敵」へと堕ちた瞬間を告げる、弔鐘として。
一方、薩摩藩邸。
そこには、絶望的な空気が漂っていた。
帝の詔の内容は、すでに彼らの耳にも届いていた。
「……万死に値する朝敵、か」
西郷隆盛は、自嘲気味に笑った。
その笑顔は、泣き顔よりも痛々しかった。
「おいどんは、帝のために死ぬ覚悟でやってきた。……それが、帝に殺せと言われるとはな」
彼の周りにいる兵士たちも、皆、槍を投げ捨て、地面に座り込んでいた。
戦う気力など、残っているはずもなかった。
彼らが掲げていた「錦の御旗」は、今やただのボロ布に過ぎなかった。
それどころか、それを持っていること自体が、逆賊の証となってしまうのだ。
「……西郷」
大久保利通が、青ざめた顔で現れた。
「撤退じゃ。……これ以上、ここにいても無駄死にするだけじゃ」
「……そうじゃな」
西郷は、ゆっくりと立ち上がった。
「だが、一蔵どん。……おいどんは、逃げんぞ」
「なっ……!?」
「ここで死んで、詫びる。……それが、おいどんの最後の務めじゃ」
「馬鹿を言うな!」
大久保が、西郷の胸倉を掴んだ。
「お前が死んでどうする! 生きて、薩摩を守らんか! このままでは、薩摩は地図から消えるぞ!」
大久保の必死の形相に、西郷はハッとした。
そうだ。
自分たちがここで全滅すれば、故郷の薩摩もまた、朝敵の汚名を着せられ、焼き払われることになる。
それだけは、避けなければならない。
「……わかった。……帰ろう、薩摩へ」
西郷は、血を吐くような思いで言った。
それは、敗北を認めることよりも、遥かに辛い決断だった。
京の街に、雨が降り始めた。
その雨は、血と涙を洗い流すかのように、激しく、そして冷たく降り注いだ。
真の朝敵となった者たちが、逃げるように京を去っていく。
そして、正義の旗を掲げた者たちが、その後を追う。
だが、勝者の顔に笑顔はなかった。
あるのは、深い悲しみと、終わりの見えない戦いへの覚悟だけだった。
ついに下された薩長討伐の詔。
正義の御旗は幕府へと渡り、薩摩は「真の朝敵」として追われる身となりました。
絶望の中で西郷たちが選んだのは、壮絶な抗戦の道でした。




