第160話:歴史の罪人
親王薨去の報は、京の街を凍りつかせました。
自責の念に押しつぶされそうな新八を、山南の言葉が引き戻します。
京の街を包んでいた喧騒が、嘘のように引いていた。
銃声も、砲声も、怒号も、全てが消え失せていた。
代わりに街を支配していたのは、息が詰まるような沈黙と、底知れぬ恐怖だった。
皇子薨去。
その一報は、風よりも早く、そして疫病よりも恐ろしく、戦場の隅々まで駆け巡った。
御所近くの路上。
俺は、血と泥にまみれた地面に座り込んでいた。
目の前には、まだ温もりの残る親王の御尊骸を乗せた輿が、静かに御所へと運ばれていくのが見えた。
その光景が、現実感を伴って俺の胸をえぐる。
「……俺が、殺したのか」
乾いた唇から、掠れた声が漏れた。
俺が歴史を変えようとしなければ。
俺が余計な知識を持って、この時代に介入しなければ。
睦仁親王は、明治天皇として、この国の未来を背負って立つはずだった。
それが、俺の行動が引き起こしたバタフライエフェクトの果てに、こんな無惨な最期を迎えることになった。
俺は、救世主気取りで、実は死神だったのではないか。
「新八」
背後から、低い声がかかった。
山南敬助だった。
彼は俺の隣に膝をつき、力強く俺の肩を掴んだ。
「しっかりしろ」
「……山南さん。俺は……取り返しのつかないことを……」
「そうだ。取り返しはつかない」
山南さんは、俺の言葉を否定しなかった。その瞳は、いつになく厳しく、そして悲しげだった。
「だが、それがどうした。お前はここで腹を切って詫びるつもりか?」
「……それも、一つの償いかもしれません」
「馬鹿を言うな!」
山南さんの手が、痛いほど俺の肩に食い込んだ。
「死んで償えるなら、いくらでも死ねばいい。だが、お前が死んでも、親王殿下は帰ってこない。歴史は元に戻らないんだ!」
彼は俺の顔を覗き込み、一語一語を噛み含めるように言った。
「お前が始めたことだ、新八。お前が撒いた種が、どんなに歪んだ実を結ぼうとも、お前にはそれを見届ける義務がある。生き残った者の務めを果たせ」
その言葉は、冷水を浴びせられたように俺の意識を覚醒させた。
そうだ。
死んで逃げることなど、許されない。
俺は、この狂った歴史の責任を背負い、最後まで足掻き続けなければならないのだ。
「……はい。……すみません、山南さん」
俺はふらりと立ち上がった。
足はまだ震えていたが、その目には再び光が戻っていた。
◇
一方、薩摩藩邸。
そこは、通夜のような静けさに包まれていた。
大久保利通は、執務室の椅子に深く沈み込んでいた。
彼のトレードマークである冷静沈着な仮面は剥がれ落ち、その顔色は蝋人形のように白かった。
「……一蔵どん」
部屋に入ってきた西郷隆盛もまた、巨体を小さく縮こまらせていた。
「……終わったな」
大久保が呟く。
「ああ。……わしらは、とんでもないことをしでかした」
西郷の声は震えていた。
彼らは、倒幕という大義のために、多少の犠牲はやむを得ないと考えていた。
だが、皇子殺害は「多少の犠牲」などという言葉で済まされるものではない。
それは、日本という国の根幹を揺るがす、絶対的なタブーだった。
「岩倉様は?」
「……放心状態じゃ。使い物にならん」
大久保は、机の上に置かれた地図を見つめた。
そこには、彼らが描いた新政府の構想が記されていた。
だが、今やその地図は、ただの紙切れに過ぎなかった。
「わしらは、朝敵になった。……いや、それ以下じゃ。歴史の罪人じゃ」
大久保は自嘲気味に笑った。
その笑いは、絶望の淵から漏れ出たうめき声のようだった。
「だが、一蔵どん。まだ終わっちゃおらん」
西郷が、強い眼差しで大久保を見た。
「わしらは、薩摩隼人じゃ。罪を背負ってでも、最後まで戦うしかない。……たとえ、地獄に落ちようともな」
大久保は、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳に、狂気にも似た決意の光が宿る。
「そうじゃな。……どうせ地獄行きなら、道連れは多い方がいい」
彼らは、修羅の道を選んだ。
もはや後戻りはできない。破滅に向かって突き進むのみだ。
◇
京の外国人居留地。
英国公使館の一室で、若き通訳官アーネスト・サトウは、震える手でペンを走らせていた。
彼は、単なる通訳官の枠を超え、日本の政治情勢に深く食い込んでいた。
流暢な日本語を操り、西郷や大久保らとも親交を深め、匿名で『英国策論』を発表して「幕府を見限り、天皇を中心とした雄藩連合政権を樹立すべき」と説いたのも彼だ。
彼は、自らの知性と行動力で、日本の「夜明け」を後押ししているという自負があった。
だが、その自負は今、粉々に打ち砕かれていた。
机の上には、書きかけの報告書が散乱している。
『本国政府へ。日本における情勢は、劇的かつ悲劇的な転換を迎えた』
彼は手を止め、窓の外を見た。
遠くに見える御所の森は、深い闇に沈んでいる。
「……God save the Prince(神よ、皇子を救いたまえ)」
彼は小さく十字を切った。
彼が思い描いていたのは、あくまで「平和的な政権交代」だった。
血は流れるかもしれないが、それは必要最小限のものであり、新しい秩序を生むための産みの苦しみだと信じていた。
しかし、この結末は違う。
親王の死は、秩序の崩壊であり、混沌の始まりだ。
彼が肩入れした薩長同盟は、もはや革命の英雄ではなく、皇帝殺しの汚名を着たテロリスト集団に堕ちてしまった。
『薩長同盟は、道義的優位性を完全に喪失した。彼らは今や、皇帝に対する反逆者であり、国民の敵である。……我々英国もまた、方針の転換を迫られるだろう』
サトウは、重い溜息をついた。
パークス公使も激怒するだろう。英国の外交戦略は根本からの見直しを迫られる。
何より、サトウ自身の心に空いた穴は大きかった。
彼が愛した日本という国が、彼の助言が一因となって、修羅の道へと突き進んでしまったのだから。
「私は……とんでもない怪物を育ててしまったのかもしれない」
彼は再びペンを握り、歴史の証人として、この悲劇を記録し続けた。
その文字は、懺悔の言葉のように紙に刻まれていった。
◇
再び、路上。
俺は、山南さんと共に、新選組の屯所へと向かっていた。
道中、すれ違う人々は皆、喪に服すように俯き、涙を流していた。
その悲しみの深さが、改めて事の重大さを痛感させる。
「永倉君、これからどうする?」
山南さんが尋ねた。
「……戦います」
俺は即答した。
「薩長を、岩倉を、絶対に許さない。彼らに、自分たちが犯した罪の重さを思い知らせてやる」
それは、復讐心だけではない。
これ以上、悲劇を繰り返させないための、俺なりの贖罪の決意だった。
「そうか。……なら、私も付き合おう」
山南さんが、静かに微笑んだ。
「地獄の果てまで、な」
その言葉は、かつて俺が左之助と交わした言葉と同じだった。
俺たちは、運命共同体だ。
この狂った世界で、最後まで足掻き続ける同志だ。
夜明けが近づいていた。
だが、その空は、希望の光ではなく、血の色に染まっていた。
歴史の罪人たちが、それぞれの想いを抱えて、最後の戦いへと向かっていく。
その先にあるのは、破滅か、それとも再生か。
誰もまだ、その答えを知らない。
新八は歪んだ歴史を見届ける覚悟を決め、薩摩は逆賊の汚名を背負いながらも破滅への道を進みます。
そして英国公使館のアーネスト・サトウもまた、希望が絶望へ変わる瞬間を目撃していました。




