第16話:北辰の女剣士
いよいよ舞台は江戸三大道場の一つ、玄武館です。試衛館の名を懸けた他流試合が幕を開けます。
史実の知識を武器に冷静に戦況を見つめる主人公。しかし、彼の前に現れたのは、心を揺さぶる美しき剣の使い手、北辰の女剣士でした。
歴史の知識だけでは計れない、新たな運命が動き出します。
俺が持ち込んだ集団戦術訓練が試衛館に新たな風を吹き込んでから、一月ほどが過ぎた頃だった。土方歳三という卓越した組織者の手腕により、当初は戸惑いを見せていた門下生たちも、次第に連携の重要性を理解し始め、道場にはかつてない一体感が生まれつつあった。
そんなある日の稽古後、道場主である近藤勇が、興奮を隠しきれない様子で俺たち幹部格を集めた。
「皆、聞け! 来る十日後、我ら試衛館は、あのお玉ヶ池の玄武館と、他流試合を行うことになった!」
「玄武館だと!?」
その名を聞いて、最初に声を上げたのは原田左之助だった。江戸にその人ありと謳われた剣豪、千葉周作が開いた北辰一刀流の道場。斎藤弥九郎の練兵館、桃井春蔵の士学館と並び、江戸三大道場と称される、まさに剣術の総本山の一つだ。
「どうだ、すごいだろう! 俺の剣が、ついに天下に鳴り響く時が来たんだ!」
まるで子供のように目を輝かせ、自分のことのように喜ぶ近藤さん。その隣で、土方さんは腕を組み、冷静な声で尋ねる。
「近藤さん、どういった経緯で?」
「うむ。先触れを出していたのだが、本日、千葉周作先生ご本人から、快くお受けするとの返書を頂いたのだ。我らの実力を、見せてやる絶好の機会だ!」
近藤さんの言葉に、道場内が一度に沸き立つ。田舎道場と侮られがちな試衛館にとって、玄武館との試合は、その名を江戸中に轟かせるまたとない好機だ。誰もが武者震いを抑えきれないでいた。
俺もまた、その決定に異存はなかった。だが、その感情は、周囲の熱気とは少し質の違う、冷めたものだった。
(玄武館か……。坂本龍馬も、一時期はそこの門下生だったはずだ。もっとも、今この時期に彼がいるかどうかは分からないが)
脳内に染み付いた「詳説日本史研究」のページをめくる。そこには、個々の剣客の人生など、ほとんど記されていない。ただ、大きな歴史の流れがあるだけだ。この他流試合が、史実として存在した出来事なのかどうかすら、俺には判断がつかない。
だが、それでいい。俺の目的は、歴史の再現ではない。この掌の上にある未来の知識を使い、仲間たちを死の運命から救い出すこと。そのためには、試衛館の実力と名声を、もっと高める必要がある。玄武館との試合は、そのための格好の舞台だった。
「永倉、どうした? 浮かない顔だな」
俺の考えを読み取ったかのように、土方さんが鋭い視線を向けてくる。彼との「契約」以来、この男は俺の内面を、より深く探ろうとしてくるようになった。
「いえ。最高の舞台が用意されたと思っているだけです。俺たちの戦い方が、どこまで通用するのか……楽しみですよ」
俺がそう言って笑うと、土方さんは「ふん」と鼻を鳴らし、口の端を吊り上げた。
「当たり前だ。俺たちが最強であることを、証明してやるだけだ」
その言葉は、まるで俺自身に言い聞かせているかのようだった。
試合当日。俺たち試衛館一行は、近藤さんを先頭に、神田のお玉ヶ池にある玄武館の前に立っていた。
目の前にそびえる長屋門の威容に、誰もが息を呑む。試衛館とは比べ物にならない、堂々たる構え。門の向こうからは、何百という門下生たちが打ち込み稽古に励む声が、地響きのように伝わってくる。
「……こいつは、すげえな」
沖田総司が、珍しく感嘆の声を漏らす。その隣で、原田や藤堂も、緊張と興奮が入り混じった表情で、固唾を飲んでいた。
「怯むな! 道場の大きさで、剣の腕が決まるわけではない! 俺たちの天然理心流の強さを、見せてやれ!」
近藤さんが大音声で皆を鼓舞し、門をくぐる。俺もその後に続いた。
道場は、まさに圧巻の一言だった。百畳はあろうかという広大な板の間に、所狭しと並ぶ門下生たち。その一人ひとりから発せられる気が、道場全体を濃密な熱気で満たしている。これが、江戸随一と言われる道場の実力か。
俺たちの来訪に気づいた門下生たちが、一斉にこちらに視線を向ける。その目に宿るのは、好奇心と、そして格下の道場を見る侮りが入り混じった、複雑な色だった。
やがて、道場の上座から、一人の老人が静かに立ち上がった。小柄だが、その身から発せられる威圧感は、尋常ではない。
「よく来られた、試衛館の諸君。私が千葉周作だ」
その声は、穏やかでありながら、腹の底に響くような凄みがあった。この男が、北辰一刀流の創始者。近藤さんが、深々と頭を下げる。
「はっ! 天然理心流四代目、近藤勇と申します! 本日は、お手合わせの機会を頂き、誠に光栄に存じます!」
形式的な挨拶が交わされ、道場の空気が一気に張り詰める。いよいよ、他流試合の始まりだ。
試合は、壮絶なものとなった。玄武館の門下生は、誰もが基本に忠実で、洗練された剣を使う。対する試衛館は、荒々しく、実戦的だ。特に、一番手として登場した沖田の突きは、玄武館の剣客たちの度肝を抜いたようだった。
俺は、試合の喧騒から少し離れ、壁際に立って戦況を見つめていた。土方さんと共に作り上げた集団戦術とは違う、一対一の剣の応酬。ここで俺が注目すべきは、個々の剣客の力量と、その癖だ。将来、敵となるかもしれない者、味方に引き入れるべき者。すべてを冷静に分析し、脳内のデータベースに記録していく。それが、転生者としての俺の戦い方だった。
その時、ふと、視界の隅に、異質な存在がいることに気づいた。
道場の片隅。試合の熱狂から切り離されたかのような静かな空間で、一人の女剣士が、黙々と素振りを繰り返していた。
年の頃は、俺と同じくらいだろうか。紫の袴を凛と着こなし、結い上げた髪が、動きに合わせてさらりと揺れる。華奢な体つきに見えるが、その背筋は、一本の鋼のように真っ直ぐに伸びていた。
彼女が竹刀を振るう。
ヒュッ、と空気を切り裂く音は鋭いが、その動きには一切の力みがない。まるで、水が流れるように自然で、滑らかだ。一つ一つの動作が、寸分の無駄もなく洗練されている。
俺は、思わず試合から目を離し、彼女の姿に釘付けになった。
なんだ、あれは……。
俺が知る「剣」は、もっと殺伐としたものだ。人を殺すための技術であり、自分が生き残るための手段。そこにあるのは、効率と合理性だけだ。土方さんと共に研究している集団戦術も、その延長線上にある。
だが、彼女の振るう竹刀からは、そうした「死」の匂いが一切感じられなかった。
そこにあるのは、ただひたすらに純粋な「道」を求める求道者の姿だった。天と地と、そして自分自身が、一本の竹刀を通じて繋がっていくような、静謐で、一点の曇りもない世界。
俺は、その姿を「美しい」と感じた。
その瞬間、俺は自分自身に驚愕していた。
美しい? この俺が? 霞が関で心をすり減らし、人の感情すらコストとして計算するようになっていた俺が。転生してからは、仲間たちの死の運命に抗うため、非情な決断を下すことだけを考えてきた俺が。
この幕末という血生臭い世界で、「美」などという非生産的なものに、心を奪われるなど、あり得ないはずだった。
だが、俺の目は、彼女から離すことができなかった。
それは、常に死と隣り合わせの戦場を生き抜くことばかり考えてきた俺にとって、あまりに衝撃的な光景だった。まるで、泥沼の中に咲く、一輪の蓮の花を見つけたような。
「あの方は、千葉佐那様。周作先生の姪御さんで、北辰一刀流の免許皆伝の腕前だよ」
いつの間にか隣に来ていた藤堂平助が、囁くように教えてくれた。
千葉佐那。その名前に、俺の脳内の教科書は反応しない。歴史に名を残すほどの人物ではないのかもしれない。だが、そんなことはどうでもよかった。
俺の心は、激しく揺さぶられていた。
史実を知るがゆえに、俺は神のような視点を持ってしまったと思い上がっていたのかもしれない。誰を救い、誰を見捨てるか。その選択を、冷徹に下すことだけが、自分の役目だと。
だが、彼女の姿は、俺に突きつけてくる。
この世界には、俺の知らない、俺の理解を超えた「理」が存在するのだと。歴史の大きな流れの中では名もなき一人かもしれないが、そこには確かに、懸命に生き、自らの道を究めようとする人間の、尊い魂の輝きがあるのだと。
「永倉!」
土方さんの声で、俺は我に返った。どうやら、俺の試合の番が来たらしい。
俺がゆっくりと試合場の中央に進み出ると、その対面に、静かに歩み寄る人影があった。
紫の袴。凛とした佇まい。
俺の対戦相手は、千葉佐那だった。
道場の喧騒が、嘘のように遠のいていく。俺たちの間に張り詰めた、見えない糸。互いに礼をし、ゆっくりと竹刀を構える。
互いに礼をし、竹刀を構える。間近で見る彼女の瞳は、まるで静かな湖面のようで、どこまでも澄み切っていた。その瞳に見つめられると、俺の心の内に渦巻く打算や策略が、すべて見透かされてしまうような気がした。
凍てついていたはずの俺の心に、確かな熱が灯るのを感じる。それは、武者震いとも、焦りとも違う、未知の感情だった。
審判が、高く息を吸い込む音が聞こえた。
世界から、音が消える。
ただ、目の前の彼女だけが、鮮やかに存在していた。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、主人公の心を揺るがす存在、千葉佐那との出会いを描きました。
史実では坂本龍馬のヨメ1号とされていますが…
未来の知識を持ち、非情な覚悟を決めていた彼の凍てついた心に灯った、未知の感情。
最強の女剣士との勝負の行方は?この出会いが歴史にどう影響するのか、ご期待ください。




