第159話:凶星、墜つ
御所に届いた凶報は、帝の心を砕き、そして激しい怒りへと変えました。
親王の死がもたらす衝撃は、朝廷、そして倒幕派の思惑さえも根底から覆します。
御所の奥深く、常御殿。
普段は静寂に包まれているはずのこの場所も、遠くから響く砲声と、慌ただしく行き交う女官たちの足音によって、異様な緊張感に満たされていた。
今上帝、孝明天皇は御帳台の中で、じっと目を閉じていた。
その顔色は蒼白で、握りしめた扇の骨が白く浮き出ている。
傍らには、中川宮朝彦親王が控えていた。彼もまた、不安げな表情で帝の様子を伺っている。
「……宮よ」
帝が、重い口を開いた。
「はっ」
「睦仁は……無事であろうか」
その声には、隠しきれない震えがあった。
「ご安心くださいませ。警護には選りすぐりの者をつけております。今頃は、戦火を避けて安全な場所へ……」
中川宮は、帝を安心させるように努めて明るく答えた。
だが、その言葉とは裏腹に、彼の胸中にも黒い不安が渦巻いていた。
京の市街戦は、予想以上に激化している。
薩長軍の動きは早く、そして狂暴だ。
もし万が一、親王の身に何かあれば……。
その時、廊下を走る荒い足音が近づいてきた。
普段ならば、帝の御前で走るなど許されぬ無礼。
だが、今は非常時だ。
襖が乱暴に開け放たれた。
「へ、陛下……! 申し上げます!」
転がり込んできたのは、関白・二条斉敬だった。
彼の顔は、まるで幽霊でも見たかのように青ざめ、唇はわなないている。
その様子に、帝は弾かれたように身を乗り出した。
「何事か! 申せ!」
二条は、床に額を擦り付け、絞り出すような声で言った。
「む、睦仁親王殿下が……」
「睦仁がどうした!?」
「……薩摩の凶弾に倒れ……薨御あそばされました……!」
時が、止まった。
帝の目が見開かれ、手から扇が滑り落ちる音が、やけに大きく響いた。
パサリ。
その乾いた音だけが、静寂を支配した。
「……な、何を……申しておる……?」
帝の声は、掠れて聞き取れないほど小さかった。
「睦仁が……死んだと……? 嘘であろう……?」
「……誠に、誠に申し訳ございません……!」
二条は泣き崩れた。
その慟哭が、残酷な真実を告げていた。
「ああ……あああ……」
帝の口から、魂が抜けていくような音が漏れた。
最愛の息子。
唯一の皇子。
日本の未来を託すべき希望。
それが、失われた。
それも、自らの臣下であるはずの薩摩の手によって。
「おのれ……おのれぇぇぇっ!!」
帝が絶叫した。
その声には、悲しみよりも、激しい怒りが込められていた。
彼は立ち上がろうとして、よろめいた。
「陛下!」
中川宮が慌てて支える。
「放せ! 余は……余は許さんぞ! 薩摩を! 長州を! 岩倉を!」
帝の目は血走り、涙が溢れ出していた。
「我が子を殺して、何が維新か! 何が尊王か! あやつらは、ただの逆賊ではないか!」
その怒りは、御殿を揺るがすほど凄まじかった。
これまで、公武合体を進め、幕府と共に国を守ろうとしてきた帝の忍耐が、完全に決壊した瞬間だった。
「陛下、お気を確かに……!」
中川宮もまた、涙を流しながら帝を抱きしめた。
彼自身、睦仁親王を我が子のように可愛がっていたのだ。その喪失感と、薩長への憎悪は、帝に劣らぬほど深かった。
「……宮よ」
帝は、中川宮の腕の中で、力なく呟いた。
「余は……もう、誰も信じられぬ」
「陛下……」
「幕府も、朝廷も、誰も彼も……余から睦仁を奪った共犯者だ……」
その言葉は、あまりにも重く、そして絶望的だった。
帝の心は、深い闇に閉ざされてしまったのだ。
その頃、京の街の片隅にある岩倉具視の隠れ家。
そこにも、凶報は届いていた。
「……なんやと?」
岩倉具視は、報告に来た密偵の言葉を理解できずにいた。
手にした茶碗が震え、中の茶がこぼれる。
「親王殿下が……死んだやと……?」
「は、はい……。薩摩の兵が、誤って……」
「馬鹿な……馬鹿なことがあってたまるか!」
岩倉は茶碗を床に叩きつけた。
ガシャン、と陶器が砕け散る。
「わしらの計画は、親王殿下を擁して、帝に圧力をかけることやったんやぞ! それを殺してどうする! これでは、わしらはただの朝敵やないか!」
彼の顔は、恐怖と焦燥で歪んでいた。
クーデターの正当性は、「君側の奸を除く」という名目にある。
だが、その「君」の血を引く皇子を殺してしまえば、もはや言い逃れはできない。
彼らは、歴史上類を見ない大罪人として、追われる身となるのだ。
「大久保は! 西郷は何をしておる!」
「は、現場は大混乱で……連絡がつきません」
「ええい、役立たずどもめ!」
岩倉は頭を抱えた。
完璧だったはずの計画が、音を立てて崩れ去っていく。
その崩壊の音は、彼の野望の終焉を告げるレクイエムのように聞こえた。
再び、御所。
帝は、中川宮に支えられながら、玉座に座り直した。
その瞳から、先ほどの激情は消え失せ、代わりに冷徹な光が宿っていた。
それは、全てを捨て去った者が持つ、虚無と殺意の光だった。
「……筆を持て」
帝が静かに命じた。
「詔を下す」
中川宮が震える手で筆と紙を用意する。
「薩摩、長州、およびこれに加担する者すべてを、朝敵とみなす」
帝の声は、氷のように冷たかった。
「見つけ次第、斬り捨てよ。降伏は認めぬ。……根絶やしにせよ」
それは、慈悲深き帝からは想像もできない、殲滅の命令だった。
だが、誰もそれを止めることはできなかった。
親王の死という代償は、それほどまでに大きかったのだ。
中川宮は、涙を拭いながら、その詔を書き記した。
筆が走るたびに、紙の上に黒い文字が刻まれていく。
それは、日本の歴史を血で染める、呪いの言葉のようでもあった。
「……これでよい」
書き上げられた詔を見て、帝は小さく頷いた。
「睦仁よ……見ておれ。父が、必ず仇を討ってやるからな……」
その呟きは、誰に届くこともなく、虚空へと消えていった。
京の空には、まだ黒い煙が立ち込めていた。
だが、その煙の向こうにある星は、もはや輝きを失っていた。
凶星が墜ちた夜。
それは、日本という国が、修羅の道へと足を踏み入れた夜でもあった。
誰もが予想しなかった最悪の結末。
しかし、運命の歯車は、残酷にも回り続ける。
血塗られた明日へと向かって。
親王の死を知った帝は、悲嘆の果てに薩長への殲滅命令を下しました。
一方、岩倉具視もまた、想定外の事態に野望の崩壊を悟ります。
誰も望まぬ最悪の展開へ、時代が加速します。




