第158話:偶発の凶弾
炎と銃声が渦巻く京の片隅で、新八の胸騒ぎが最悪の予感へ変わります。
路地裏に潜むのは敵か、それとも「歴史」を揺らす何かなのか。
運命を分ける一瞬が迫ります。
第158話:偶発の凶弾
時間が、凍りついたようだった。
路地裏に立ち込める硝煙の匂いと、血の鉄錆びた臭い。
遠くで響く砲声さえも、今は別世界の出来事のように遠く感じられた。
俺の目の前には、信じがたい光景が広がっていた。
地面に横たわる、小さな体。
睦仁親王。
その胸から溢れ出る鮮血が、泥にまみれた直衣をどす黒く染め上げていく。
まだ幼い顔には、苦痛よりも驚きが張り付いたまま、その瞳は虚空を見つめていた。
「……あ……」
俺の喉から、声にならない呻きが漏れる。
駆け寄ろうとした足が、鉛のように重い。
「殿下ぁぁぁっ!!」
生き残った警護の侍が、半狂乱になって叫びながら親王の遺体にすがりつく。
その慟哭が、凍りついた時間を叩き割った。
「な……なんだと……?」
銃を撃った薩摩の隊長が、呆然と呟く。
彼の顔から、先ほどまでの狂気じみた笑みが消え失せ、代わりに底知れぬ恐怖が浮かび上がっていた。
「こ、子供……? まさか……」
彼は震える手で、俺の刀で弾き飛ばされて地面に転がる、自分の銃を見つめた。
そして、侍の叫び声に含まれていた「殿下」という言葉の意味を、遅まきながら理解したようだった。
「殿下……? 親王……殿下だと……?」
その顔色が、土気色に変わっていく。
彼らは、幕府の要人を殺して手柄を立てるつもりだった。
だが、彼らが手にかけたのは、帝の唯一の皇子。
神の如き存在の血を引く、尊い命。
それは、武士として、いや日本人として、万死に値する大罪だった。
「ひっ……ひいぃぃっ!」
隊長が悲鳴を上げ、後ずさる。
「ち、違う! 俺は知らなかった! ただの公家だと……!」
「逃げるなァァッ!」
俺の絶叫が、路地に轟いた。
俺は地面を蹴り、隊長に向かって突進した。
怒り。
そう、これは怒りだ。
歴史を守れなかった自分への、そして、功名心に駆られて幼い命を奪った愚かな男への、どうしようもない怒り。
視界が真っ赤に染まる。
「新八、待て!」
原田左之助の声が聞こえたが、止まらなかった。
俺の剣が、隊長の首めがけて振り下ろされる。
だが、隊長は恐怖に駆られた獣のような動きで、泥にまみれながら転がるように避けた。
「退却だ! 逃げろ! ここから逃げるんだ!」
彼は部下たちに叫びながら、一目散に走り出した。
他の薩摩兵たちも、事の重大さに気づき、パニックに陥って逃走を始める。
「逃がすかよ……!」
俺は追いかけようとしたが、左之助に羽交い締めにされた。
「放せ! 左之助! あいつらを……あいつらを殺してやる!」
「落ち着け、新八! 今はそっちじゃねえ!」
左之助が必死に俺を抑え込む。
「あの子だ! まだ息があるかもしれねえだろ!」
その言葉に、俺はハッと我に返った。
そうだ。
俺には、まだやるべきことがある。
俺は左之助の手を振りほどき、親王のもとへ駆け寄った。
侍を押しのけ、親王の体を抱き起こす。
「殿下! しっかりしてください!」
脈を確認する。
……ない。
呼吸も停止している。
瞳孔は散大し、対光反射もない。
心肺蘇生を試みる。
胸骨圧迫。人工呼吸。
現代の救急救命措置を、必死に繰り返す。
「戻ってこい! 頼む、戻ってきてくれ!」
俺の手は血で滑り、汗が目に入る。
だが、親王の胸は動かない。
小さな体は、急速に温もりを失っていく。
「……新八」
左之助が、静かに俺の肩に手を置いた。
「もう……いい」
その声は震えていた。
俺は、ガクリと膝をついた。
わかっていた。
最初から、わかっていたのだ。
即死だったと。
それでも、認められなかった。
認めてしまえば、この世界が崩壊してしまう気がしたから。
「……うああああああっ!」
俺は天を仰ぎ、咆哮した。
涙が溢れて止まらなかった。
俺は何のために、未来の知識を持ってきたのか。
何のために、ここまで戦ってきたのか。
たった一人の子供さえ救えないで、何が「最強の近代国家」だ。
何が「歴史の改変」だ。
俺は、無力だ。
周囲の空気は、重く沈んでいた。
生き残った警護の侍たちは、地面に額を擦り付け、声を上げて泣いていた。
左之助も、槍を握りしめたまま、唇を噛み締めて涙を堪えている。
遠くの空では、まだ炎が燃え盛っていた。
だが、その赤色は、もはや希望の光ではなく、地獄の業火にしか見えなかった。
やがて、俺はふらりと立ち上がった。
親王の遺体を、侍たちに託す。
「……御所へ。帝のもとへ、お連れしろ」
俺の声は、枯れてかすれていた。
「はい……」
侍たちは、涙ながらに親王の亡骸を丁寧に担ぎ上げた。
俺は、空を見上げた。
夜空に輝く星々が、滲んで見えた。
その中の一つが、すうっと尾を引いて落ちていくのが見えた気がした。
凶星。
不吉な予兆。
いや、予兆ではない。
これは、終わりの始まりだ。
「……左之助」
「なんだ」
「俺たちは、とんでもない時代を作っちまったのかもしれねえ」
「……ああ」
左之助が短く答える。
「だがよ、新八。ここで立ち止まるわけにはいかねえだろ」
彼は俺の背中を叩いた。
「あの子の死を、無駄にしちゃいけねえ。……薩長の野郎どもに、きっちり落とし前をつけさせてやる」
その言葉に、俺の心に再び火が灯った。
そうだ。
悲しんでいる場合ではない。
この悲劇を引き起こした元凶、薩長同盟、そして岩倉具視。
彼らを許してはならない。
親王の死を、ただの悲劇で終わらせてはならない。
これが、彼らの破滅の始まりになるように。
俺は、鬼になる。
「……行くぞ、左之助」
俺は涙を拭い、刀を鞘に納めた。
その瞳には、かつてないほど冷たく、鋭い光が宿っていた。
「ああ、行こうぜ。地獄の果てまでな」
二人の男は、炎上する京の街へと背を向け、御所の方角へと歩き出した。
その背中には、重い十字架と、燃え上がる復讐の炎が背負われていた。
歴史の歯車は、大きく軋みながら、破滅へと向かって加速していく。
凶弾は偶然の仮面をかぶり、取り返しのつかない結末を招きました。
怒りと絶望に沈む新八は、それでも立ち上がり、悲劇の元凶へ刃を向ける決意を固めます。
ここから、時代が歪み始めます。




