第157話:運命の歯車
炎と銃声が京を呑み込み、戦は市中へ広がっていきます。
混乱の裏で、ある「守るべき行列」がひそかに動き出しました。
新八の胸騒ぎが示す先に、何が待つのでしょうか。
京の街は、狂気と炎に包まれていた。
蛤御門を中心に始まった戦闘は、市街地全域へと飛び火し、逃げ惑う人々の悲鳴と、銃声、砲声が絶え間なく響き渡っていた。
そんな喧騒から少し離れた、下京の路地裏。
普段は静かなこの一角も、遠くから聞こえる爆発音と、空を焦がす赤い光に怯えるように息を潜めていた。
その細い道を、一団の行列が足早に進んでいた。
質素な駕籠を中心に、十数名の侍たちが周囲を固めている。彼らの表情は一様に硬く、周囲を警戒する視線は鋭い。
駕籠の中にいるのは、睦仁親王。
史実では、後の明治天皇となる、わずか十四歳の少年である。
孝明天皇の命により、戦火が及ぶ前に御所を脱出し、安全な場所へと避難する途中であった。
「殿下、もう少しの辛抱でございます」
警護の責任者である公家侍が、駕籠の窓越しに声をかける。
「……父上は、大丈夫であろうか」
中から聞こえた声は、幼さを残しながらも、気丈に振る舞おうとする意思が感じられた。
「帝におかせられましては、会津の中将様や新選組がついておりますゆえ、ご安心を。我々は一刻も早く、安全な場所へ」
「うむ……頼む」
行列は、狭い路地を抜け、少し開けた通りに出ようとした。
その時だった。
「おい、止まれ!」
鋭い怒号と共に、行く手を遮るようにして数人の男たちが現れた。
薩摩の家紋が入った陣羽織。
手には抜き身の刀や、最新式の銃が握られている。
薩摩藩の別動隊だ。
彼らは、幕府軍の残党狩りや、要人の脱出を阻止するために、市中を徘徊していた過激な一派だった。
「何者だ! 怪しい奴らめ!」
隊長格の男が、血走った目で叫ぶ。
警護の侍が前に進み出る。
「無礼者! 道を空けよ! こちらは……」
言いかけて、侍は口をつぐんだ。
ここで「親王殿下である」と明かせば、逆に人質に取られる危険がある。薩長は今や、帝の意に反して兵を挙げた逆賊なのだから。
「……ただの公家の避難である。戦には関わりない」
侍は必死に冷静さを装って答えた。
「公家だと?」
薩摩の男は、疑わしげに駕籠を睨みつけた。
「こんな夜中に、こそこそと逃げ回る公家か。……怪しいな。幕府の要人を逃がそうとしているのではないか?」
「馬鹿な! そのようなことはない!」
「なら、中を見せろ!」
男たちがじりじりと距離を詰めてくる。
殺気。
彼らは、戦の高揚感と、敵を殺したいという衝動に支配されていた。理屈など通じない。
「ならぬ! これ以上の狼藉は許さん!」
警護の侍たちが抜刀する。
その瞬間、薩摩兵たちの顔に、嗜虐的な笑みが浮かんだ。
「抵抗するか。……やはり、やましいことがあるようだな」
「逆賊の味方をする者は、全員斬り捨てろ! チェストォォッ!」
薩摩示現流の猿叫と共に、彼らは襲いかかってきた。
一方、数町離れた場所で。
俺は、原田左之助と共に、敵の増援部隊を撃退し、一息ついていた。
肩で息をしながら、俺はふと、胸騒ぎを覚えた。
嫌な予感。
背筋を冷たいものが走り抜けるような感覚。
「……なんだ?」
「どうした、新八。まだ敵か?」
左之助が槍を構え直す。
「いや……違う。もっと、取り返しのつかない何かが……」
俺は空を見上げた。
赤く染まった空の下、風に乗って微かに聞こえたのは、銃声だった。
戦場では珍しくもない音だ。
だが、その銃声は、俺の記憶にある「歴史の分岐点」を告げる鐘の音のように聞こえた。
「左之助、あっちだ!」
俺は直感に従い、南の方角を指差した。
「あっちって、下京の方じゃねえか。敵の主力は北だぞ」
「わからねえ! でも、行かなきゃいけない気がするんだ!」
俺は走り出した。
理屈ではない。
俺がこの世界に来た意味、歴史を変えるために奔走してきた日々、その全てが、今、俺を其処へ向かわせようとしていた。
路地裏の戦いは、一方的な虐殺になりつつあった。
警護の侍たちは奮戦したが、多勢に無勢、しかも相手は実戦慣れした薩摩兵だ。
一人、また一人と斬り伏せられていく。
「殿下をお守りしろ! 逃げろ!」
最後の侍が叫び、自らの体を盾にして敵の刃を受ける。
その隙に、駕籠かきたちは駕籠を捨てて逃げ出した。
地面に放り出された駕籠。
その扉が開き、中から睦仁親王が転がり出た。
泥にまみれた直衣。
恐怖に歪む幼い顔。
「……子供?」
薩摩の隊長が、意外そうに眉をひそめた。
だが、すぐにその目は冷酷な光を帯びた。
「公家のガキか。……将来、幕府の傀儡になるかもしれん種だ。今のうちに摘んでおくのも、御国のためか」
狂気。
戦争という極限状態が、人間の倫理観を麻痺させていた。
彼はゆっくりと、親王に近づいていく。
手には、装填されたばかりの短銃が握られていた。
「やめろぉぉぉっ!」
俺の声が、路地に響き渡った。
角を曲がった俺の目に飛び込んできたのは、銃口を向けられた少年の姿。
そして、その少年が誰であるか、俺は瞬時に理解した。
睦仁親王。
未来の明治天皇。
絶対に、死なせてはならない存在。
「新選組か! 邪魔をするな!」
薩摩兵たちが俺たちに向かってくる。
「左之助、あいつらを頼む! 俺はあの子を!」
「おう! 任せろ!」
左之助が槍を振るい、敵の壁をこじ開ける。
俺はその隙間を縫って、親王のもとへ疾走した。
間に合え。
間に合ってくれ。
心臓が破裂しそうなほど脈打つ。
隊長が、ニヤリと笑った。
その指が、引き金にかかる。
スローモーションのように流れる時間。
俺は刀を投げた。
切っ先が回転しながら、隊長の腕を狙う。
だが。
パンッ!
乾いた破裂音が、夜の空気を切り裂いた。
俺の刀は、隊長の腕をかすめ、銃を弾き飛ばした。
しかし、それは一瞬遅かった。
銃口から放たれた鉛玉は、既に軌道を描いていた。
そして。
ドサッ。
小さな体が、地面に崩れ落ちた。
胸に広がる赤いシミ。
睦仁親王は、苦痛に顔を歪めることもなく、ただ静かに、その瞳から光を失っていった。
「……嘘だろ」
俺は立ち尽くした。
足が震え、力が抜けていく。
歴史が変わった。
いや、壊れた。
俺が守ろうとした未来、築こうとした新しい日本。その象徴となるはずだった少年が、今、俺の目の前で命を散らした。
「やったか……!」
隊長が腕を押さえながら、狂ったように笑う。
「見たか! これが薩摩の力だ! 幕府の犬どもめ!」
その笑い声が、俺の耳には遠く聞こえた。
代わりに、頭の中で何かが切れる音がした。
ブチリ、と。
「……貴様」
俺は低く唸った。
怒りではない。
悲しみでもない。
ただ、純粋な殺意だけが、俺の体を支配した。
「貴様ら……何をしたか、わかっているのか……!」
俺は地面に落ちていた刀を拾い上げた。
その切っ先は、微かに震えていた。
それは恐怖からではない。
抑えきれない激情が、俺の魂を揺さぶっていたからだ。
運命の歯車は、完全に狂ってしまった。
この一発の銃弾が、日本を、そして俺たちの運命を、取り返しのつかない地獄へと引きずり込んでいく。
京の炎よりも熱く、そして冷たい絶望が、俺の心を覆い尽くしていった。
悲劇は連鎖し、怒りは業火となって全てを焼き尽くす。
歴史の修正力など、もはや存在しない。
あるのは、血で血を洗う修羅の道だけだ。
戦火の陰で進む別動隊の凶行が、歴史そのものを踏み外しかねない瞬間を生みました。
嫌な予感に突き動かされた新八は左之助と走り、守るべき存在へ手を伸ばします。
運命の歯車が軋み始めます。




