第154話:帝の怒り
京の空気が張り詰める中、新八は将軍家茂と共に御所へ向かいます。
密かに進む策謀を前に、帝の御前で何が語られるのか。
正義の拠り所が試される一日が始まります。
京の御所は、朝霧の中に静かに佇んでいた。
だが、その内部では、歴史を揺るがすほどの激震が走ろうとしていた。
俺は、徳川家茂公と共に、孝明天皇の御前へと進み出ていた。
通常であれば、一介の幕臣である俺が、帝に直接拝謁することなど許されない。だが、事態は切迫しており、家茂公の強い要望と、中川宮朝彦親王の手引きによって、異例の謁見が実現したのだ。
御簾の向こうに、帝の気配がある。
張り詰めた空気の中、家茂公が静かに口を開いた。
「帝におかせられましては、ご機嫌麗しく存じ上げます。本日は、国家の存亡に関わる重大な事案につき、ご報告申し上げたく参上いたしました」
家茂公の声は、いつになく低く、そして重かった。
「申してみよ」
御簾の奥から、威厳ある声が響く。
家茂公は私に目配せをした。俺は深く一礼し、懐から一枚の書状を取り出した。それは、監察方の山崎烝が命がけで入手した、岩倉具視と薩長の密約の証拠、そして「偽の錦の御旗」の図面だった。
「恐れながら申し上げます。……現在、京の市中にて、帝の勅命を偽り、私利私欲のために兵を挙げんとする逆賊がおります」
俺は、できる限り冷静に、しかし熱意を込めて語り始めた。
岩倉具視が主導するクーデター計画。
薩長による偽の錦の御旗の製造。
そして、それを利用して幕府を「朝敵」に仕立て上げようとする卑劣な陰謀。
俺の言葉が進むにつれて、御簾の向こうの気配が、次第に鋭くなっていくのを感じた。
「……まことか」
帝の声が震えていた。それは恐怖ではなく、激しい怒りによるものだった。
「朕が、徳川を討てなどと命じた覚えはない。朕は、家茂を、そして幕府を信頼しておる。公武一和こそが、この国を異国から守る唯一の道であると、何度も申してきたではないか!」
帝の怒声が、広間に響き渡った。
陪席していた関白・二条斉敬も、顔色を青くして平伏した。
「恐れ多いことでございます。岩倉めが、これほどまでに増長しておろうとは……」
「斉敬! そちは何をしておったのじゃ! 朕の名を騙り、私利私欲のために戦を起こそうなど、言語道断! これは謀反じゃ! 逆賊じゃ!」
帝は立ち上がり、御簾を荒々しく開け放った。
初めて拝見する帝の御尊顔は、怒りに燃え、鬼神のような迫力を帯びていた。
「朕は断じて許さぬ。徳川を討つなど、朕の意志ではない! その偽りの旗を掲げる者こそが、真の朝敵であると、天下に知らしめよ!」
家茂公は、深く頭を下げたまま、静かに答えた。
「帝の御心、確かに承りました。臣徳川家茂、命に代えましても、帝とこの国を、逆賊の手から守り抜く所存でございます」
その言葉には、将軍としての、そして一人の男としての、揺るぎない決意が込められていた。
帝は、家茂公を見つめ、ふっと表情を和らげた。
「家茂よ。……苦労をかけるな」
「もったいないお言葉でございます」
「そなたがおれば、この国は大丈夫じゃ。……頼むぞ」
「はっ!」
謁見が終わり、俺たちは退出した。
廊下を歩きながら、家茂公が俺に話しかけてきた。
「永倉。……帝は、お優しい方だ」
「はい。そして、強い方でもあらせられます」
「ああ。だが、その優しさが、岩倉のような輩に付け込まれる隙を与えてしまったのかもしれん。……だが、もう迷いはない」
家茂公は立ち止まり、庭園の松を見上げた。
「私は、戦う。帝のため、そして……江戸で待つ妻のためにも」
その横顔を見て、俺は胸が熱くなった。
かつて、俺が歴史の知識を使って救おうとした、若き将軍。
彼は今、俺の想像を超えて、真の指導者へと成長していた。
「上様。私も、最後までお供いたします」
「頼りにしているぞ、永倉。……それと、一つ頼みがある」
「何なりと」
「万が一の時のことだ。……睦仁親王殿下の身の安全を、確保してほしい」
睦仁親王。後の明治天皇となる少年だ。
史実では、父である孝明天皇の急死により、幼くして即位し、維新の象徴として担ぎ上げられる運命にある。
だが、この世界線では、孝明天皇は健在だ。しかし、クーデターの混乱の中で、親王が狙われる可能性は高い。
「承知いたしました。新選組の総力を挙げて、お守りいたします」
その頃、二条斉敬は、公家衆を集め、帝の意志を伝えていた。
「皆の者、よく聞け! 帝は、岩倉らの暴挙に激怒しておられる! 偽の勅命に惑わされるな! 薩長に加担する者は、帝の敵とみなす!」
二条の必死の説得により、動揺していた公家たちの多くが、岩倉から距離を置き始めた。
だが、岩倉と薩長は、もう止まらなかった。
彼らは、後戻りできない橋を渡ってしまったのだ。
翌日。
京の街に、不気味な太鼓の音が響き渡った。
薩摩藩邸と長州藩邸から、武装した兵士たちが次々と姿を現した。
その先頭には、鮮やかな赤地の錦の旗が翻っていた。
偽りの御旗だ。
それを見た市民たちは、恐怖に震え、戸を閉ざした。
「見ろ、あれが官軍の旗だ!」
「幕府は朝敵ぞ! 天誅を下せ!」
兵士たちの叫び声が、京の空気を切り裂く。
それは、正義の叫びなどではない。
欲望と狂気に満ちた、悪魔の咆哮だった。
俺は屯所の屋根から、その光景を見下ろしていた。
隣には、土方歳三がいる。
「……始まったな」
土方が低い声で言った。
「ええ。……でも、あんな紙切れ一枚で、俺たちの正義が揺らぐことはありません」
俺は刀の柄を握りしめた。
「ああ。俺たちの正義は、この剣と、仲間との絆にある。……行くぞ、永倉。新選組の喧嘩、見せてやろうぜ」
「はい!」
俺たちは階段を駆け下りた。
道場には、武装した隊士たちが整列していた。
近藤勇局長が、彼らの前に立ち、檄を飛ばす。
「野郎ども! 薩長が、帝の名を騙って攻めてきやがった! こんなふざけた真似、許しておけるか!」
「おーっ!」
隊士たちの怒号が轟く。
「我ら新選組は、京の守護者! 帝の御心を守り、幕府の威信を守る! 一歩も引くな! 斬って斬って斬りまくれ!」
「誠」の旗が、風に煽られてバタバタと音を立てる。
それは、偽りの錦の御旗よりも、遥かに美しく、そして誇り高く見えた。
御所の門前。
松平容保率いる会津藩兵が、厳重な陣を敷いていた。
その横には、新選組、そして庄内藩配下の新徴組が並ぶ。
最強の布陣だ。
だが、敵もまた、死に物狂いで向かってくるだろう。
これは、単なる武力衝突ではない。
「正義」と「正義」のぶつかり合い。
いや、「真実」と「虚偽」の決戦だ。
遠くから、砲声が聞こえた。
戦いの火蓋が切られたのだ。
俺は深呼吸をし、己の心を落ち着かせた。
家茂公の言葉、帝の怒り、そして仲間の顔。
歴史の修正力か、それとも新たな運命か。
激闘の幕が上がる。
全てを力に変えて、俺は戦場へと駆け出した。
帝の怒りを、我々の刃に乗せて。
偽りの夜明けを、真の光で切り裂くために。
帝の怒りがついに噴き上がり、岩倉と薩長の企みは「逆賊」と断じられました。
それでも偽の御旗は市中に翻り、戦の火蓋が切られます。
新八たちは揺るがぬ覚悟で京を守ります。




