第153話:偽りの御旗
京の西陣で、岩倉具視の命により「錦の御旗」が密造されました。
新選組は薩長藩邸の不穏な動きと偽の御旗の情報を察知し、土方と新八は先手を打つべく動き出します。
京の西陣、とある呉服問屋の奥座敷。
深夜にも関わらず、そこには数人の男たちが集まり、異様な熱気の中で作業を進めていた。
彼らの手にあるのは、鮮やかな赤地の錦と、金糸で刺繍された日月の紋章。
それは、見る者を畏怖させる神々しさを放っていた。
「素晴らしい出来栄えでおじゃる」
岩倉具視は、完成したばかりの旗を愛おしそうに撫でた。
「これぞ、徳川の世を終わらせる魔法の旗。この旗の下に集う者こそが官軍となり、逆らう者は全て賊軍となるのじゃ」
岩倉の傍らには、彼に同調する数名の公家が控えていた。彼らは皆、現状の公武合体路線に不満を持ち、岩倉の描く「王政復古」という甘美な夢に酔わされていた。
「岩倉様、しかし、これは……」
一人の公家が、恐る恐る口を開く。
「帝の勅許なくして、このようなものを作って良いのでしょうか」
「案ずるな。帝のお心は、我々が一番よく理解しておる。夷狄に媚びる幕府を倒し、真の神国日本を取り戻す。それこそが帝の悲願じゃ」
岩倉は自信満々に言い切った。その言葉に嘘はないと、彼自身が信じ込んでいるようだった。あるいは、そう信じ込まなければ、この大それた謀略に耐えられないのかもしれない。
◇
その頃、新選組屯所。
監察方の山崎烝が、息を切らせて駆け込んできた。
「副長! 永倉さん! 緊急の報告です!」
山崎の顔色は蒼白だった。普段は冷静沈着な彼がこれほど取り乱すのは珍しい。
「どうした、山崎。落ち着いて話せ」
土方歳三が、煙管を置いて向き直る。
「はっ。……薩摩藩邸と長州藩邸に、兵が集結しつつあります。その数、合わせて三千以上。しかも、完全武装です」
「三千……! 本気でやるつもりか」
俺が地図上の藩邸の位置を指差すと、山崎はさらに衝撃的な情報を付け加えた。
「それだけではありません。西陣の呉服屋で、奇妙な物が作られているとの情報を得ました。……『錦の御旗』です」
その言葉に、室内の空気が凍りついた。
「錦の御旗だと? まさか、帝が……?」
土方が絶句する。
「いえ、帝からの勅命が出たという情報はありませんし、そのような勅が出るわけがありません。おそらく、岩倉具視による偽造です」
俺は冷静に分析した。だが、その背筋には冷たい汗が流れていた。
偽造であろうと、戦場でそれが掲げられれば、兵士たちの士気に決定的な影響を与える。幕府軍の兵士たちは、朝敵となることを恐れて戦意を喪失するだろう。
「……腐れ公家が。そこまでやるか」
土方が吐き捨てるように言った。
「土方さん、これはクーデターの前触れです。決行は近い。おそらく数日以内でしょう」
「ああ。迎え撃つ準備はできているが、あの旗が出れば厄介だ。……どうする、永倉」
「先手を打ちます。帝に、この事実をお伝えし、岩倉の謀略を暴くのです」
一方、京の街を歩く一人の男がいた。
新選組参謀・伊東甲子太郎である。
彼は、薩摩藩邸の周囲に漂う殺気を感じ取り、立ち止まった。
「……いよいよか」
伊東は、尊王攘夷の志を持つ学者肌の男だ。新選組に入隊してからも、その思想と隊の方針とのズレに悩み続けていた。
彼は、薩摩や長州の動きに共感を覚える部分もあった。彼らが掲げる「勤王」の志は、かつての自分が抱いていたものと同じだからだ。
だが、今の彼らのやり方はどうだ。
偽の御旗を掲げ、帝の意思を無視して戦を起こそうとしている。
「これが、真の勤王なのか? ……いや、違う。これは単なる権力争いだ」
伊東の中で、何かが音を立てて崩れ落ちた。
彼は、自らの信じる「誠」が、薩長にはないことを悟ったのだ。
「私は、新選組の参謀だ。この国を、無益な戦火に巻き込ませはしない」
伊東は踵を返し、屯所へと急いだ。彼の迷いは、この瞬間、完全に消え去っていた。
同じ頃、御所の奥深く。
中川宮朝彦親王は、不穏な気配を感じていた。
彼は「維新の策士」とも呼ばれる切れ者であり、公武合体派の中心人物として、孝明天皇の信頼も厚い。
彼は、密かに二条斉敬を呼び出していた。
二条斉敬は、現職の関白であり、徳川家茂とも縁戚関係にある人物だ。穏健で誠実な人柄だが、その芯には強い意志を秘めている。
「関白殿。岩倉の動きが怪しい」
中川宮が単刀直入に切り出すと、二条も深く頷いた。
「はい。私も耳にしております。何やら、よからぬ物を密造しているとか」
「錦の御旗じゃろう」
中川宮の言葉に、二条は目を見開いた。
「ご存知でしたか」
「噂じゃがな。だが、火のない所に煙は立たぬ。岩倉ならやりかねん」
中川宮は扇子を開き、口元を隠した。
「もし、奴らが偽の勅命を掲げて兵を挙げれば、帝のお立場が危うくなる。帝は、徳川を信頼しておられる。決して倒幕など望んでおられぬ」
「左様でございます。帝の御心を無視した暴挙、断じて許すわけにはいきません」
二条の声に怒りが滲む。
「関白殿。そなたから、公家衆に釘を刺しておいてくれ。岩倉の甘言に乗るなとな。そして、私は帝の御守護を固める」
「承知いたしました。……この京を、彼らの野望の贄にはさせません」
夜が明ける。
だが、その朝日は、どこか血の色を帯びているように見えた。
新選組屯所では、全隊士に武装待機命令が出された。
俺もまた、愛刀・播州住手柄山氏繁を腰に差し、鉢金を締めた。
いよいよだ。
歴史の分岐点。
偽りの夜明けを終わらせ、真の夜明けを呼び込むための戦いが始まる。
「永倉君」
山南敬助が、俺の肩に手を置いた。
「無理はいけませんよ。君は、未来を創る者として、生き残らなければならない」
「分かっています、山南さん。でも、今は一人の新選組隊士として戦います」
俺は微笑んで答えた。
そこへ、伊東甲子太郎が現れた。
「永倉君、土方副長。……私も、前線に出させてくれ」
その瞳には、かつてないほどの澄んだ光が宿っていた。
「伊東参謀……」
「迷いは晴れた。私の信じる『勤王』は、ここにある」
伊東は力強く言った。
土方はニヤリと笑った。
「へっ、学者の先生にしちゃあ、いい面構えになったじゃねえか。頼りにしてるぜ」
役者は揃った。
あとは、幕が開くのを待つだけだ。
偽りの御旗が翻る時、我々の正義が試される。
俺は空を見上げた。
雲の切れ間から、一筋の光が差し込んでいた。
それは、希望の光か、それとも破滅への序章か。
答えは、戦場にある。
偽の御旗を掲げようとする薩長のやり方に、伊東甲子太郎は失望し、新選組への帰属意識を強めます。
一方、中川宮と二条斉敬も岩倉の暴挙を阻止すべく動き出し、京の緊張は極限に達しました。




