第152話:悪魔の密約
京の夜、岩倉具視の庵で密談が行われていました。
集まったのは大久保利通と木戸孝允。
将軍襲撃の失敗を受け、彼らは追い詰められています。
京の夜は、不気味なほどに静まり返っていた。
だが、その静寂の裏側で、歴史の歯車を無理やりにでも回そうとする者たちが蠢いていた。
洛北、岩倉村。
蟄居中の岩倉具視の庵に、二人の男が密かに訪れていた。
薩摩藩士・大久保利通と、長州藩士・木戸孝允である。
薄暗い行灯の光が、三人の顔を陰影深く照らし出している。
岩倉具視は、その小柄な体躯からは想像もつかないほどの異様な殺気を放っていた。
「……失敗したか」
岩倉が低い声で呟く。その目は、獲物を逃した猛禽類のように鋭く、飢えていた。
「申し訳ございません。新選組の防備が予想以上に堅固で……それに、会津の介入もありました」
木戸孝允が苦渋の表情で報告する。かつて桂小五郎と呼ばれたこの男は、長州の知恵袋でありながら、常に理想と現実の狭間で苦悩する繊細さを持ち合わせていた。今回の将軍襲撃も、本心では賛同しきれていなかったのかもしれない。
「言い訳は無用でおじゃる」
岩倉は扇子で畳を叩いた。
「問題は、これで幕府側が警戒を強め、公議政体への移行を加速させるということじゃ。家茂と慶喜、そして帝が手を組めば、もはや我々に勝ち目はない」
大久保利通が、冷徹な仮面のような無表情で口を開いた。
「左様。公議政体が成れば、薩長は単なる地方の一大名に過ぎなくなる。倒幕の大義名分も失われ、我々が目指した『新しい日本』は夢幻と消えるでしょう」
大久保の声には、一切の感情がこもっていなかった。彼は目的のためなら手段を選ばない、冷徹なリアリストだ。かつての盟友・西郷隆盛とは対照的に、彼は情を切り捨ててでも国家の未来を設計しようとしていた。
「では、どうする」
岩倉が二人の顔を交互に見る。
「このまま指をくわえて、徳川の天下が続くのを見ているか? それとも……」
岩倉は口元を歪め、悪魔のような笑みを浮かべた。
「帝のご意思を無視してでも、事を起こすか?」
その言葉に、木戸が息を呑んだ。
「帝のご意思を……無視する? それは、逆賊の汚名を着るということですぞ!」
「綺麗事を言っている場合か!」
岩倉が一喝した。
「勝てば官軍、負ければ賊軍。歴史とはそういうものじゃ。我々が勝ち、新しい国を作れば、それが正義となる。帝も、後から追認せざるを得なくなる」
「しかし……」
木戸はまだ躊躇していた。尊王攘夷を掲げてきた長州にとって、帝の意思に背くことは自己矛盾に他ならない。
「木戸どん」
大久保が静かに呼びかけた。
「我々はもう、後戻りできないところまで来ているのです。高杉も、今は病床にあるとはいえ、このまま幕府に屈することを望むでしょうか」
「……晋作なら、面白くないと言うだろうな」
「でしょう。ならば、我々が泥をかぶってでも、道を切り開くしかない。……岩倉様、策はおありで?」
大久保の問いに、岩倉はニヤリと笑った。
「ある。……『錦の御旗』じゃ」
「錦の御旗?」
「そうじゃ。帝の軍であることを示す、菊花紋章の旗。これを我々が掲げれば、幕府軍は朝敵となる。誰も弓を引けなくなる」
「し、しかし、帝からそのような勅許は降りておりません!」
木戸が驚愕する。
「降りておらぬなら、作ればよい」
岩倉は平然と言い放った。
「偽造……するというのですか?」
「人聞きが悪いのう。帝の真のお心を、我々が代弁するだけじゃ。今の帝は、会津や幕府の甘言に惑わされておられる。それを正すのが、真の忠臣というものじゃろう」
詭弁だ。
だが、その詭弁こそが、今の彼らに残された唯一の活路だった。
大久保は、しばらく沈黙した後、深く頷いた。
「承知いたしました。薩摩は、その策に乗ります」
「大久保君!」
木戸が大久保を睨む。
「木戸君、長州とて同じはずだ。このままでは、長州は永遠に『朝敵』のままだぞ。汚名を雪ぐには、勝つしかないのだ」
大久保の言葉は、木戸の心の最も痛い部分を突き刺した。
禁門の変以来、長州は朝敵とされ、苦汁を舐め続けてきた。その屈辱を晴らすには、確かに勝つしかない。
「……分かった。長州も、乗ろう」
木戸は苦渋の決断を下した。
「よし! それでこそじゃ!」
岩倉は満足げに膝を打った。
「では、手はずを整えよう。私が懇意にしている公家たちを使い、水面下で準備を進める。お主たちは、兵を集めよ。決行は……次の大安吉日じゃ」
密談が終わり、大久保と木戸は庵を出た。
外には、一人の巨漢が待っていた。
西郷隆盛である。
彼は腕を組み、夜空を見上げていた。その大きな背中には、言い知れぬ哀愁が漂っていた。
「吉之助さぁ」
大久保が声をかけると、西郷はゆっくりと振り返った。
「……決まったか」
「ああ。やるしかない」
大久保の短い答えに、西郷は深くため息をついた。
「一蔵(大久保)どん。おいには、どうしても分からん。帝を騙してまで、戦をする意味が本当にあるのか」
西郷の瞳は、純粋な問いを投げかけていた。彼は「敬天愛人」を信条とし、誰よりも帝を敬い、民を愛する男だ。今回の策謀は、彼に最も似合わないものだった。
「吉之助さぁ。これは、日本のためだ。徳川の古い体制では、異国に飲み込まれる。強い国を作るには、痛みを伴う手術が必要なのだ」
大久保は説得するように言ったが、西郷の表情は晴れなかった。
「手術か……。だが、その刃で、大事なもんまで切り捨ててしまわんか心配じゃ」
「……私とて、心苦しくないわけではない。だが、誰かが鬼にならねばならんのだ」
大久保の声が、わずかに震えた。
幼馴染であり、無二の親友である二人。だが、その道は今、決定的に分かれようとしていた。
「おいも、薩摩の人間じゃ。藩が決めたことなら、従う。……だが、もし間違いだと分かったら、その時はおいは腹を切る」
西郷はそう言い残し、闇の中へと歩き出した。
その背中を見送りながら、木戸が呟いた。
「西郷殿は、優しすぎるな」
「ええ。だからこそ、人が集まる。……だが、これからの時代に必要なのは、優しさではないのかもしれません」
大久保は自らに言い聞かせるように言った。
岩倉の庵では、主が一人、酒を煽っていた。
「ククク……面白くなってきた。徳川家茂、永倉新八……お主らがどれほど賢かろうと、この『錦の御旗』の威光には勝てまい」
岩倉は杯を干し、不敵に笑った。
彼は知っていた。日本人が、権威というものにどれほど弱いかを。
そして、その権威を操る者こそが、真の支配者となることを。
悪魔の密約は結ばれた。
賽は投げられたのだ。
京の街に、再び血の雨が降る予感が満ちていた。
それは、これまでの小競り合いとは違う、国を二分する巨大な内戦の幕開けだった。
偽りの夜明けは、真の闇を連れてくる。
その闇の中で、誰が生き残り、誰が散るのか。
運命の歯車は、軋んだ音を立てて回り続ける。
岩倉の提案した「錦の御旗」の偽造という禁断の策に、薩長が手を染めることになりました。
西郷の苦悩と、歴史が大きく歪み始める不穏な空気が漂います。




