第151話:二つの戦線
戸では千葉佐那が道場の警戒を強め、京では新選組が薩長の陰謀に対抗すべく動き出します。
神田お玉ヶ池の玄武館に、いつになく張り詰めた空気が漂っていた。
竹刀の打ち合う音は聞こえない。代わりに、静寂の中で数十人の門弟たちが、木刀や真剣を手に、道場の内外を警備していた。
「佐那様、表の通りに不審な動きはありません」
門弟の一人が報告すると、上座に座る千葉佐那は静かに頷いた。
彼女は今、稽古着ではなく、動きやすい袴姿に襷を掛け、傍らには愛用の薙刀を置いていた。その凛とした横顔には、かつての「小町」と呼ばれた可憐さに加え、修羅場を潜り抜ける覚悟を決めた武人の厳しさが宿っていた。
「ありがとう。引き続き、警戒を怠らないで」
佐那の声は落ち着いていたが、その瞳の奥には揺るぎない決意が燃えていた。
数日前、彼女のもとにも奇妙な知らせが届いていた。差出人は不明だが、京での不穏な動きと、江戸でも何かが起ころうとしていることを示唆する内容だった。
そして何より、彼女自身の武人としての勘が、見えない刃が喉元に突きつけられているのを感じ取っていた。
「新八様……」
佐那は懐から、かつて永倉新八から送られた文を取り出し、そっと撫でた。
京での将軍襲撃。新八も負傷したという噂が、風の便りに届いている。
心配で胸が張り裂けそうだった。だが、今自分が取り乱せば、新八の足枷になる。
「私は、私の戦いをします。貴方が京で戦っているように、私もここで、この場所を守り抜きます」
佐那は薙刀を手に取り、立ち上がった。
その姿は、まさに戦乙女のようだった。
一方、京。
新選組屯所の一室で、俺は土方歳三と向かい合っていた。
肩の傷はまだ痛むが、じっとしているわけにはいかなかった。
「高杉からの情報、そして襲撃犯の遺留品……状況証拠は揃ったな」
土方が低い声で言った。その目は、獲物を狙う狼のように鋭い。
「ああ。黒幕は岩倉具視、そして薩摩の大久保、長州の木戸」
俺が断言すると、土方は机を拳で叩いた。
「腐れ公家と薩長め。上様を殺して、自分たちが天下を取ろうって魂胆か。反吐が出るぜ」
「奴らは焦っている。公議政体が成れば、彼らの出る幕はなくなるからな」
俺は地図を広げた。京と江戸、二つの都市が描かれている。
「土方さん、これは戦争だ。まだ宣戦布告はされていないが、実質的な戦争状態にある」
「ああ、分かってる。で、どうする? こっちから仕掛けるか?」
「いや、それは奴らの思う壺だ。我々はあくまで『守護者』でなければならない。だが、ただ守るだけじゃない。奴らの攻撃を逆手に取り、その正体を白日の下に晒す」
そこへ、二人の男が入ってきた。
一人は、眼鏡をかけ、どこか神経質そうな風貌の男。五番隊組長・武田観柳斎。
もう一人は、坊主頭で柔和な顔つきだが、その体躯からは岩のような強さを感じさせる男。四番隊組長・松原忠司。
「副長、永倉さん。お呼びでしょうか」
武田が恭しく頭を下げる。彼は甲州流軍学の使い手であり、隊内では軍事顧問的な役割も果たしている。史実ではその媚びへつらう性格や裏切りによって粛清される運命にあるが、この世界線では俺の改革に興味を持ち、その知識を活かそうと協力的な姿勢を見せている。
「武田君、君の軍学の知識を借りたい。京の市中警備を、個人の剣技に頼るのではなく、組織的な防衛網として再構築してくれ」
俺が頼むと、武田の目が輝いた。
「おお! それは私の得意分野です! 西洋の用兵術も取り入れ、鉄壁の布陣を敷いてみせましょう。薩摩の芋侍どもに、最新の軍学の粋を見せつけてやりますよ」
彼は興奮気味に語り出した。承認欲求の強い男だが、使いどころを誤らなければ有能なのだ。
「松原君、君には柔術を活かした捕縛術の指導を頼みたい。敵を生け捕りにして情報を引き出すには、君の技が必要だ」
松原は「関口流柔術」の免許皆伝であり、「今弁慶」の異名を持つ。史実では悲恋の末に心中するという悲劇的な最期を遂げるが、今はその優しさと強さを隊のために使ってくれている。
「承知しました。無駄な殺生は好みません。関節を外して、大人しくさせてやりましょう」
松原は穏やかに笑ったが、その笑顔がかえって凄味を感じさせた。
その日の午後、俺は二条城へ向かった。
家茂公に謁見するためだ。
傷ついた体を引きずって現れた俺を見て、家茂公は痛ましげな表情を浮かべた。
「永倉、無理をするなと言ったではないか」
「上様。事態は一刻を争います」
俺は平伏し、高杉からの手紙の内容と、我々の分析を報告した。
「……そうか。やはり、岩倉たちが」
家茂公は扇子をきつく握りしめた。
「彼らは、江戸でも事を起こそうとしています。上様、どうか江戸の守りを……小栗上野介様に、全権を与えて対応させてください」
「分かった。直ちに小栗に命じよう」
家茂公は即座に決断した。
「それと、上様。敵は必ず次の手を打ってきます。今度は、より大規模な、そして非道な手段で」
「覚悟はできている。私は逃げない。この国を、彼らの私利私欲の道具にはさせない」
家茂公の瞳には、王者の風格が漂っていた。
その頃、江戸城。
勘定奉行・小栗忠順は、山のような書類の山に埋もれていた。
彼の元には、永倉からの急報が届いていた。
「……永倉め、とんでもない難題を寄越しおって」
小栗は苦笑しながら、煙管を吹かした。
だが、その目は笑っていない。
彼は幕府随一の財政通であり、先見の明を持つテクノクラートだ。永倉の描く「近代国家」の構想を、最も深く理解し、実務面で支えているのが彼だった。
「戦費調達か。……フランスからの借款を急がせるか。いや、それでは足元を見られる。国内の豪商たちを説得し、国債を発行するか」
小栗の頭脳はフル回転していた。
戦争には金がかかる。特に、近代戦となれば尚更だ。
薩長はイギリスの支援を受けている。対抗するには、幕府もまた経済力を武器にしなければならない。
「おい、誰かあるか!」
小栗は大声で部下を呼んだ。
「三井、鴻池、住友……大店の番頭たちを至急集めろ。日本の未来を賭けた商談だとな」
小栗は立ち上がり、窓の外に広がる江戸の町を見下ろした。
「この町を、火の海にはさせん。徳川の底力、見せてやるわ」
京と江戸。
二つの都市で、それぞれの戦いが始まろうとしていた。
武力と知略、そして経済。
あらゆる要素が絡み合い、巨大な渦となって時代を飲み込もうとしている。
俺は屯所に戻り、空を見上げた。
月が、雲に隠れようとしている。
闇が深まる。
だが、その闇の向こうにこそ、真の夜明けがあると信じて。
俺は刀を握りしめた。
佐那、待っていてくれ。
必ず、君を守り抜く。
そして、この国を、誰もが笑って暮らせる新しい時代へと導いてみせる。
悪魔の密約。
歴史の闇が、その口を大きく開けようとしていた。
新八は土方と共に、武田観柳斎や松原忠司の能力を活かした組織的な防衛網を構築
京と江戸、離れた地でそれぞれの戦いが始まろうとしています。
新選組の組織力が強化されていく過程に期待が高まります。




