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第148話:嵐の前の静けさ

江戸の佐那からの手紙により、薩摩の不穏な動きが明らかになります。

京の新選組屯所では、近藤勇が帰還し、士気が高まります。

 慶応三年、夏。

 京の盆地特有の、湿り気を帯びた熱気が肌にまとわりつく。空は鉛色の雲に覆われ、遠く愛宕の山並みが霞んでいた。

 蝉時雨さえもが、何かに怯えるように時折ふっつりと途絶える。その不自然な静寂こそが、嵐の到来を告げる何よりの証左だった。


 新選組屯所の一室で、俺は一通の書状を前に腕組みをしていた。

 江戸の千葉佐那から届いた文だ。そこには、彼女らしい端正な筆致で、しかし切迫した内容が記されていた。

『江戸市中にて、不逞の輩が奇妙な動きを見せております。表立っての騒乱ではありませんが、武器の闇取引が増え、薩摩屋敷への人の出入りが激しさを増しているようです。新八様、どうか京の情勢にもこれまで以上にご用心ください。私の勘が、何か大きな災いの予兆を感じ取っております』

 佐那の勘は侮れない。「北辰一刀流の小町」と呼ばれた彼女の武人としての直感は、時に論理的な推論よりも鋭く真実を射抜く。


「……永倉さん」

 襖の向こうから、低く抑えた声が掛かった。

「入れ」

 音もなく入室してきたのは、監察方の山崎烝だ。普段は薬売りに変装している彼だが、今は隊服に身を包み、その表情は硬い。

「報告します。薩摩藩邸および長州藩邸周辺、人の出入りが尋常ではありません。表向きは静かですが、搬入されている荷の中身……あれは、間違いなく小銃と弾薬です」

「やはりか」

 俺は佐那の手紙を懐にしまい、山崎を見据えた。

「数は?」

「正確には掴めませんが、藩邸の収容能力を超える兵が集結しつつあるとの情報もあります。それに……岩倉具視の配下が、頻繁に薩摩屋敷へ出入りしているのを確認しました」

 岩倉具視。蟄居中の身でありながら、裏で糸を引く稀代の策謀家。

 先日、坂本龍馬がもたらした「薩長同盟」の情報。そして龍馬自身が感じ取った「偽りの夜明け」という違和感。それら全ての点が、一本の線で繋がろうとしていた。

 彼らは焦っているのだ。

 将軍・徳川家茂と孝明天皇の信頼関係が盤石となり、公議政体への移行が現実味を帯びてきた今、武力による倒幕の大義名分が失われつつある。だからこそ、彼らは強引にでも「事」を起こそうとしている。


「ご苦労だった、山崎。土方副長にも同じ報告を頼む」

「はっ」

 山崎が退室した後、俺は刀掛けに置かれた愛刀・播州住手柄山氏繁を見つめた。

 歴史の修正力。それが今、巨大な奔流となって襲い掛かろうとしているのを感じる。だが、ここで流されるわけにはいかない。


 廊下に出ると、久しぶりに聞く太い笑い声が耳に飛び込んできた。

「ガハハ! 歳、そう眉間に皺を寄せるな。俺が戻ったからには、京の守りは万全だ」

 広間の中央で胡坐をかき、土方歳三の肩を叩いているのは、新選組局長・近藤勇その人だった。

 長州征伐に関する幕府との折衝や、広島への出張などで長く京を離れていた近藤だが、この緊迫した情勢を受けて急遽帰京していたのだ。

「近藤さん、戻られましたか」

「おお、新八! 息災だったか」

 近藤は俺を見るなり、破顔一笑した。その顔には旅の疲れも見えたが、それ以上に、ようやく自分の居場所に戻ってきたという安堵と、武人としての気概が満ちていた。

「留守中、よくやってくれたな。お前と歳がいれば心配はないと思っていたが、京の空気は随分と変わったようだな」

「ええ。生臭くなりましたよ」

 苦笑すると、近藤は表情を引き締め、太い腕を組んだ。

「幕府の屋台骨が揺らぐ今こそ、我ら新選組の真価が問われる時だ。将軍家茂公が二条城におられる以上、その御身をお守りすることこそが、我らの至上命題。いかなる凶刃も、この近藤勇が跳ね返してみせる」

 その言葉に迷いはない。近藤勇という男は、どこまでも徳川への忠義に生きる男だ。その純粋さが、時に政治的な駆け引きの中で危うさを孕むこともあるが、今のこの状況下では、その揺るぎない信念こそが隊の求心力となる。


「局長のおっしゃる通りです。しかし、敵は刀を持つ者だけとは限りませんぞ」

 涼やかな、しかしどこか含みのある声が響いた。

 広間の隅、文机に向かっていた男が、静かに立ち上がりこちらへ歩み寄ってくる。

 伊東甲子太郎いとうかしたろう

 元治元年に江戸で入隊し、その学識と剣の腕、そして弁舌の才で瞬く間に参謀の地位に就いた男だ。端正な顔立ちに、知性を宿した瞳。隊内でも一目置かれる存在だが、同時にその思想的背景から、土方などは警戒心を隠そうとしない。

「伊東先生か。敵は刀を持つ者だけではない、とは?」

 近藤が問うと、伊東は優雅な仕草で懐から扇子を取り出し、口元を隠した。

「薩長が狙っているのは、単なる武力衝突ではありません。彼らは『大義』を欲している。帝を擁し、幕府を朝敵とする……そのような絵図を描いている気配が濃厚です」

 俺は内心で舌を巻いた。伊東甲子太郎、やはり切れ者だ。

 彼は熱烈な尊王攘夷論者であり、本来ならば薩長の思想に近い。史実では、やがて新選組を離脱し御陵衛士を結成、そして暗殺される運命にある。だが、この世界線の彼は、まだ新選組に留まっている。

 彼にとっての「尊王」は、あくまで帝を中心とした国の安寧であり、薩長のような権力奪取のための謀略とは一線を画しているようだ。あるいは、岩倉らのやり方に美学を感じられないのかもしれない。

「永倉君」

 伊東が俺に視線を向けた。その瞳の奥には、俺という人間を値踏みするような光がある。

「君が進めている改革、公議政体論……あれは面白い。帝と将軍が手を取り合い、諸藩が議を尽くす。それこそが、真の攘夷――すなわち、異国に侮られぬ強国を作る道かもしれぬと、最近は思い始めていますよ」

「それは光栄です、伊東先生」

「ですが」伊東は扇子を閉じ、ピシャリと掌を打った。「理想が高ければ高いほど、それを阻む闇も深くなる。薩長の動き、あれは獣のそれです。追い詰められた獣は、何をしでかすか分からない」

 伊東の警告は、俺の懸念と完全に一致していた。

「ええ。だからこそ、我々がその牙から将軍をお守りしなければなりません」

「ふふ、君ならそう言うと思いましたよ」

 伊東は薄く笑い、近藤に向かって一礼した。

「局長、私も微力ながら、市中の探索に独自の網を張りましょう。私の門人たちも使ってください」

「うむ、頼むぞ伊東先生」

 近藤は大きく頷いたが、その横で土方が微かに目を細めたのを、俺は見逃さなかった。決して一枚岩ではない新選組。だが、今は使える手札は全て使わねばならない。



 翌日、俺は二条城にいた。

 将軍・徳川家茂に謁見するためだ。

 二条城の奥まった一室に通された俺は、そこで家茂の姿を見て、密かに安堵の息を吐いた。

 顔色は良く、以前見られたような浮腫みもない。食事療法――ビタミンB1を多く含む豚肉や麦飯の摂取――を、忠実に守ってくれているようだ。史実における彼の命を奪った脚気は、今のところ影を潜めている。

「永倉、よく来てくれた」

 家茂は穏やかな笑みを浮かべ、手元の書状を置いた。宛名が見えずとも分かる。江戸の和宮への手紙だろう。

「上様、お加減はいかがですか」

「すこぶる良い。そちたちの勧める麦飯にも、だいぶ慣れた。最初は閉口したが、良く噛めば甘みがあるものだな」

 冗談めかして言う家茂だが、その瞳には以前にも増して強い意志の光が宿っていた。数々の修羅場を潜り抜け、自らの手で国を変えようとする指導者の顔だ。

「明日、江戸へ戻られると伺いました」

「ああ。帝に、公議政体への移行に関する最終的な上奏は済ませた。帝も深く頷いてくださった。これで幕府は生まれ変わる。私が江戸へ戻り、諸藩に号令を掛ければ、薩長とて公然とは刃向かえなくなるはずだ」

 家茂の言葉は正しい。正論だ。だが、相手は正論が通じない領域に踏み込もうとしている。

 俺は平伏し、意を決して言上した。

「上様。恐れながら申し上げます。……明日の道中、決して隙を見せぬよう、最大限の警戒をお願いいたします」

 家茂の表情から笑みが消えた。

「……何か、あるのか」

「具体的な計画までは掴めておりません。しかし、敵は追い詰められています。公議政体が成る前に、何としても上様を排除しようとする動きがあります。監察方の報告では、京の町に殺気が満ちていると」

 室内を沈黙が支配する。遠くで雷鳴が聞こえたような気がした。

 家茂は立ち上がり、窓の外、東の空を見つめた。その先には江戸がある。

「永倉。私はな、宮さんに約束したのだ。『必ず生きて戻る』と」

 その声は静かだったが、震えるほどの熱を帯びていた。

「和宮様のためにも、私は死ぬわけにはいかない。そして、私を信じてくれた帝のためにも、この国を戦火に包むわけにはいかないのだ」

 家茂は振り返り、俺を真っ直ぐに見据えた。

「分かった。そちの指示に従おう。警護の配置、道中の差配、すべて永倉、そちに任せる。私の命、そちに預けるぞ」

「ははっ! この命に代えましても!」

 私は額を畳に擦り付けた。

 この若き将軍を、絶対に死なせてはならない。それが、この時代に転生した私の、最大の使命なのだ。



 その頃、大坂湾。

 幕府軍艦奉行・勝海舟は、揺れる甲板の上で望遠鏡を覗き込んでいた。

 潮風が彼の髷を乱暴に撫でていく。

「……けっ、きな臭えな」

 勝は吐き捨てるように呟き、望遠鏡を下ろした。

 視線の先には、薩摩藩の旗を掲げた蒸気船が停泊している。表向きは交易船を装っているが、その喫水線の沈み具合は、通常の荷物ではない重量物を積んでいることを示していた。大砲か、あるいは大量の弾薬か。

「先生、どうしますか? 臨検しますか?」

 傍らの部下が問うが、勝は首を横に振った。

「やめとけ。今ここで手を出せば、向こうの思う壺だ。『幕府が不当に干渉した』なんぞと騒ぎ立てて、戦の口実にされかねねえ」

 勝は懐から煙管を取り出し、苛立たしげに噛んだ。

「龍馬の野郎からの知らせじゃ、薩長はもう腹を括ってやがる。……嵐が来るぜ。それも、とびきりでけえのがな」

 彼は空を見上げた。黒い雲が、渦を巻くように京の方角へと流れていく。

「永倉の兄さんよぉ、持ち堪えてくれよ。海の方は俺が睨みを利かせとくが、おかの火種はどうにもならねえ」

 勝の言葉は、波音にかき消された。


 京、新選組屯所。

 夜が更けても、俺の神経は張り詰めたままだった。

 明日の家茂公の出立。それが運命の分水嶺となる。

 俺は愛刀の手入れを終え、刀身を鞘に納めた。鯉口を切る微かな音が、静寂の中でやけに大きく響く。

「新八」

 縁側に、原田左之助が立っていた。手には愛用の槍を持っている。

「眠れねえのか?」

「ああ。左之こそ」

「俺はいつだってぐっすり眠れる質だがよ。今夜はどうも、槍が疼いて仕方ねえんだ」

 原田はニヤリと笑ったが、その目は笑っていなかった。野生の勘が、血の匂いを嗅ぎ取っているのだ。

「明日は荒れるぞ」

「望むところだ。俺たちの槍と剣で、その嵐を叩き斬ってやるさ」

 頼もしい言葉に、俺は少しだけ肩の力が抜けた。

 そうだ。俺には仲間がいる。

 近藤がいる。土方がいる。沖田が、原田が、藤堂が、斎藤がいる。そして、中沢琴や井上源三郎も。

 史実では散り散りになっていく彼らだが、今はまだ、ここにいる。

 全員で、生き残る。そして、新しい時代を見る。

 そのために、俺はあらゆる知識と手段を使う。


 風が強まってきた。

 木々がざわめき、屯所の提灯が激しく揺れる。

 嵐の前の静けさは終わりを告げようとしていた。

 明日、京の都は血に染まるかもしれない。だが、その血の中から、「真の夜明け」を掴み取らねばならない。

 俺は暗闇の中で、見えざる敵に向かって静かに闘志を燃やした。


近藤局長の帰還で新選組の結束が強まる一方、伊東の冷静な分析が不気味なリアリティを帯びています。

歴史の修正力と戦う新八の覚悟、そして迫り来る決戦の予感に緊張が高まります。

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