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第147話:二つの牙

岩倉具視の策謀により、薩摩は家茂暗殺と江戸での陽動を決意します。

新八の心を乱すため、江戸の千葉道場に魔の手が。

 京の都は依然として梅雨空の下にあり、湿った空気が人々の肌にまとわりついていた。

 だが、その不快な湿気よりもさらに粘着質で、底知れぬ悪意が、都の地下水脈を静かに侵食し始めていた。


 岩倉具視の隠棲する洛北、岩倉村の屋敷に、今日もまた不穏な影が集っていた。

 大久保利通、そして木戸孝允。

 薩摩と長州が、こうして膝を突き合わせていること自体、彼らが追い詰められている証左である。


「徳川家茂の帰東、いよいよ間近に迫りましたな」

 木戸が、低い声で切り出した。その表情には、焦燥の色が濃く滲んでいる。

「このまま家茂公を江戸へ還せば、幕府の改革は決定的なものとなる。我々薩長に残された時間は、もはや砂時計の残りの砂ほどもない」


 大久保は無言で頷いた。

 彼の手元には、京の地図が広げられている。

 その地図上の「伏見」という一点に、赤い墨で印が付けられていた。

「伏見の船宿、寺田屋近辺。ここが勝負所じゃ」

 大久保の声は、冷徹さを装いつつも、微かに震えていた。

「家茂公は陸路ではなく、舟で大坂へ下る。その乗船の瞬間、警備の網が一瞬だけ緩む。そこを、我が薩摩の精鋭で突く」


 岩倉が、扇子で口元を隠しながら、不気味な笑い声を漏らした。

「ヒヒッ……。大久保殿も、ようやく腹を括られましたな。結構、結構」

 岩倉の目は、爬虫類のように冷たく光っている。

「だが、それだけでは不十分じゃ。家茂を討ったとしても、あの男……永倉がおる限り、幕府はすぐさま次の手を打ってくるじゃろう。一橋慶喜を擁立するか、あるいは田安亀之助を担ぐか……いずれにせよ、永倉の知恵がある限り、幕府の火は消えん」


「では、どうするのです」

 木戸が問うと、岩倉は懐から一枚の書状を取り出した。

「永倉新八の弱点は、その『情』じゃ。あやつは、あまりにも多くのものを守ろうとしすぎておる。特に、江戸にいるあの女……千葉佐那とやらにな」


 大久保と木戸が顔を見合わせた。

「……まさか、女を?」

 木戸が眉をひそめる。武士の道徳として、女子供を狙うことへの忌避感は、彼らの中にも根強く残っていた。


 岩倉は、そんな彼らの逡巡を嘲笑うかのように言った。

「綺麗事では、国は動かせんよ。永倉の目を京から逸らすには、江戸で火の手を上げるのが一番じゃ。奴の心が乱れれば、その隙に家茂の警護も手薄になる。一石二鳥というやつじゃよ」


 岩倉の指示により、すでに江戸へ向けて、彼が飼っている闇の暗殺集団が放たれていた。

 彼らは武士ではない。金で動く、名もなき修羅たちだ。

 狙うは、神田お玉ヶ池、玄武館。

 千葉佐那の命。


 大久保は、苦渋の表情で目を閉じた。

(……すまぬ。だが、これも新しい日本のためじゃ)

 彼は自らにそう言い聞かせ、修羅の道を歩む覚悟を新たにした。


 一方、江戸。

 神田お玉ヶ池の千葉道場は、梅雨の晴れ間の陽光を浴びていた。

 道場からは、今日も元気な稽古の声が響いている。

 佐那は、門弟たちの指導を終え、汗を拭いながら縁側に腰を下ろした。


「ふぅ……。今日も暑くなりそうですね」

 傍らに座った兄の重太郎が、手拭いで顔を拭きながら笑いかけた。

「ああ。だが、いい汗だ。……それにしても佐那、お前最近、さらに腕を上げたんじゃないか? さっきの突き、俺でも見えなかったぞ」


 佐那は少し照れくさそうに微笑んだ。

「新八様が……いつか帰ってこられた時に、恥ずかしくない自分でいたいのです。それに、新八様のお留守の間、この道場と、新八様の帰る場所を守るのは、私の務めですから」


 その時だった。

 道場の門前に、異様な気配が漂った。

 殺気ではない。もっと粘着質で、不快な何か。

 佐那と重太郎は、同時に表情を引き締め、立ち上がった。


「……誰だ」

 重太郎が低く問う。

 門をくぐって現れたのは、編み笠を深く被った虚無僧姿の男たちだった。その数、五人。

 だが、彼らが手にしているのは尺八ではない。仕込み杖、あるいは懐に隠した短刀の類だろう。

 その足運びは、明らかに武芸者のそれではない。暗殺者の、音のない歩法だ。


「千葉佐那か」

 先頭の男が、感情のない声で言った。

「……いかにも」

 佐那が答えると同時に、男たちは一斉に笠を脱ぎ捨て、襲いかかってきた。

 その手には、毒塗りの刃が鈍く光っている。


「佐那! 下がれ!」

 重太郎が叫び、木刀を構えて前に出る。

 だが、佐那は下がらなかった。

 彼女は静かに、しかし素早く、道場の壁に掛けられていた薙刀を手に取った。


「兄上、私も戦います!」

 佐那の声は凛として響いた。

 彼女の脳裏に浮かぶのは、京で戦う新八の姿。

 彼が命懸けで守ろうとしているこの国を、そして自分たちの未来を、こんな名もなき凶刃によって奪われてたまるか。


 敵の一人が、低い姿勢から重太郎の足元を狙って斬り込んでくる。

 重太郎はそれを跳躍してかわし、上段から木刀を振り下ろす。

「ふんっ!」

 重い打撃音が響き、男の肩が砕ける音がした。

 だが、別の男がその隙を突いて、佐那へと躍りかかる。


「もらったぁ!」

 男の刃が、佐那の喉元へと迫る。

 しかし、佐那の目は少しも動じていなかった。

 彼女は半身に構え、呼吸を整える。

 北辰一刀流、小太刀の技。いや、薙刀の間合い。


「……甘い!」

 佐那の薙刀が、閃光のように走った。

 切っ先が男の手首を正確に打ち据え、短刀が空中に舞う。

 すかさず石突で男の鳩尾を突き上げると、男は苦悶の声を上げて吹き飛んだ。


 残る三人が、一瞬怯んだ。

 女子供と侮っていた標的が、これほどの手練れだとは想定外だったのだろう。

 その隙を見逃す千葉兄妹ではない。


「行くぞ、佐那!」

「はい、兄上!」

 二人は阿吽の呼吸で踏み込んだ。

 重太郎の剛剣が敵の防御を崩し、佐那の速剣がその隙を突く。

 北辰一刀流の真髄、ここにあり。

 数合の打ち合いの後、五人の刺客たちは全員、地面に伏していた。


「……何者だ、貴様ら」

 重太郎が、意識のある男の胸倉を掴み上げる。

 男は苦しげに喘ぎながら、ニヤリと笑った。

「……京でも、同じことが……起きる……」

 そう言い残し、男は奥歯に仕込んだ毒を噛んで絶命した。


 佐那の顔から血の気が引いた。

「京でも……? まさか、新八様が!?」

 重太郎は沈痛な面持ちで、動かなくなった男を見下ろした。

「……これは、ただの道場破りじゃない。組織的な暗殺部隊だ。佐那、すぐに新八君へ知らせるんだ」


 佐那は強く頷いた。

 手は震えていたが、その瞳には強い決意の光が宿っていた。

「新八様の帰る場所は、私が守る。……絶対に!」


 彼女の気迫は、夏の暑さを忘れさせるほどに冷たく、そして熱かった。

 江戸の空に、再び黒い雲が湧き上がり始めていた。

 遠く京の空と繋がるその雲は、これから訪れる嵐を告げているようだった。



 京、二条城。

 永倉新八は、ふと背筋に寒気を感じて立ち止まった。

 廊下の窓から見える空は、不気味なほどに赤く染まっている。


「……佐那」

 無意識に彼女の名を呟いていた。

 胸騒ぎがする。

 だが、今は感傷に浸っている場合ではない。

 家茂の帰東まで、あとわずか。

 敵は必ず動く。

 新八は拳を握りしめ、自らに言い聞かせた。

(俺が守る。歴史も、家茂公も、そして佐那も……すべて!)


 二つの牙が、同時に剥かれた。

 一つは京で、一つは江戸で。

 歴史の修正力という名の怪物は、執拗に彼らを追い詰めていく。

 だが、新八は諦めることはない。

 彼には、未来を知る知識と、仲間たちの絆がある。

 偽りの夜明けを、真の夜明けに変えるために。

 戦いは、いよいよ佳境へと突入しようとしていた。


江戸の千葉道場に魔の手が。佐那と重太郎は、迫り来る暗殺者たちに立ち向かいます。

兄妹の共闘シーンは圧巻です。

しかし、京と江戸、二つの場所で同時に進行する危機に予断を許しません。



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