第146話:交錯する思惑
岩倉からの密書に、大久保利通は苦渋の決断を下します。
一方、二条城では家茂が和宮からの手紙に心を和ませていました。
慶応三年、六月下旬。
京の都に降り続く雨は、未だ止む気配を見せていなかった。鴨川の水嵩は増し、濁流が岸を噛む音が、夜の静寂を不気味に震わせている。
薩摩藩邸の一室。
大久保利通は、一通の書状を前に、深い沈黙の中にいた。
行灯の揺らめく光が、彼の実直そうな顔に深い陰影を落としている。
書状の差出人は、岩倉具視。
先日、洛北の隠れ家で密談を交わしたばかりの古狐からの、追撃とも言える密書であった。
『帝と将軍が健在である限り、我らに勝ち目はない』
墨痕鮮やかに記されたその一文が、大久保の網膜に焼き付いて離れない。
先日の会談で、家茂暗殺と江戸での陽動という大枠の策謀は合意に至っていた。だが、いざ実行の段となると、大久保の胸中には一抹の迷いが生じていたのも事実だった。
将軍暗殺。それは、武士としての一線を越える行為だ。失敗すれば薩摩は朝敵となり、逆賊として歴史に名を刻むことになる。
(だが……)
大久保は目を閉じ、現状を反芻する。
永倉新八の主導する幕政改革は、驚くべき速度で進んでいた。公議政体の樹立、朝廷との融和、そして民衆からの支持。
このままでは、薩摩が掲げる「倒幕」の大義は完全に失われる。いや、それどころか、新時代の政治体制において、薩摩は蚊帳の外に置かれることになるだろう。
島津久光公は依然として公武合体に未練を残しているが、それでは手遅れなのだ。
岩倉の書状は続く。
『毒を食らわば皿まで。修羅の道を歩む覚悟なき者に、回天の偉業は成せぬ』
大久保の口元が、自嘲気味に歪んだ。
あの公家崩れに、覚悟を問われるとは。
岩倉の真意は明白だ。薩摩に手を汚させ、自らは安全圏から糸を引くつもりだろう。
だが、その誘いに乗らねば、未来はない。
「……吉井、おるか」
大久保が低く声をかけると、襖の向こうから側近の吉井友実が静かに姿を現した。
「は」
「人斬り半次郎……いや、中村半次郎を呼べ。それと、信頼できる手練れを数名」
吉井が一瞬、息を呑む気配がした。
「……よろしいのですか」
「構わん。すべては、薩摩のためじゃ」
大久保は書状を灯明の火にかざした。
炎が紙を舐め、黒い灰へと変えていく。その炎の照り返しの中で、大久保の瞳から迷いの色は完全に消え失せていた。
そこにあるのは、目的のためなら悪魔とでも手を組む、冷徹な政治家の顔だった。
◇
同じ頃、二条城。
将軍・徳川家茂の居室は、外の荒天とは対照的に、静謐な空気に包まれていた。
文机に向かう家茂の手元には、江戸から届いたばかりの和宮からの手紙が置かれていた。
「上様、宮様よりのお便りでございますか」
側近が茶を運びながら尋ねると、家茂は嬉しそうに頷いた。
「ああ。江戸の桜はもう葉桜になったが、私の帰りを心待ちにしていると……そう書いてある」
家茂は手紙の一節を指でなぞった。そこには、和宮の繊細な筆跡で、家茂の体調を気遣う言葉と、一日も早い帰還を願う切実な想いが綴られていた。
二人の間には、政略結婚という枠を超えた、確かな絆が育まれていた。
「宮さん……。もう少しの辛抱だ」
家茂は独りごちた。
今回の帰国は、単なる帰京ではない。新体制を盤石なものとし、和宮と共に新しい日本を歩むための、凱旋となるはずだった。
だが、部屋の隅で警護にあたっていた永倉新八の表情だけは、硬いままであった。
彼は窓の外、雨に煙る京の闇を見つめていた。
(……空気が、変わった)
新八は、研ぎ澄まされた感覚で、京の都を覆う不穏な気配を感じ取っていた。
史実における家茂の死は、第二次長州征討の最中、大坂城での病死だ。脚気衝心による心不全とされる。
だが、この世界線の家茂は、新八の介入によって健康そのものだ。脚気の兆候もない。
ならば、歴史の修正力はどこへ向かうのか。
病死が回避されたなら、次に訪れる死因は――「暗殺」しかない。
「永倉」
ふと、家茂が声をかけてきた。
新八はハッとして平伏する。
「は」
「怖い顔をしているな。何ぞ、心配事か?」
家茂の聡明な瞳が、新八を見透かすように見つめている。
新八は顔を上げ、真摯な眼差しで答えた。
「……上様。江戸への道中、警備を倍増させていただきたく存じます。特に、伏見から大坂への船路は、狙われやすい箇所がございます」
家茂は少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに穏やかな笑みを浮かべて頷いた。
「分かった。永倉がそう言うのなら、何か理由があるのであろう。すべて任せる」
「……恐れ入ります」
全幅の信頼。
その重みが、新八の肩にのしかかる。
絶対に、守り抜かなければならない。この若き名君と、江戸で待つ和宮の小さな幸福を。
新八は退出した後、すぐに土方歳三のもとへ向かった。
廊下を歩きながら、彼は思考を巡らせる。
敵が動くとしたら、いつだ?
二条城は堅牢だ。御所も警備が厳しい。
最も隙が生じるのは、やはり移動中。
伏見。
寺田屋事件の舞台ともなった、あの水運の要衝。
あそこが、運命の分水嶺になる。
◇
洛北、岩倉村。
雨音に紛れて、数人の影が岩倉具視の屋敷から飛び出していった。
彼らは薩摩の人間ではない。岩倉が独自に飼っている、闇の住人たちだ。
その行き先は、東。
江戸である。
岩倉は、縁側で雨を見つめながら、盃を傾けていた。
「大久保も、ようやく腹を括ったか」
先ほど届いた薩摩からの返書には、計画の実行を承諾する旨が記されていた。
これで、賽は投げられた。
「永倉新八……。お主がどれほど才覚があろうと、所詮は人の子。情愛という鎖からは逃れられまい」
岩倉は、歪んだ笑みを浮かべた。
江戸に放った刺客たちの目的地は神田お玉ヶ池、玄武館。そして標的は、「鬼小町」千葉佐那。
永倉の恋人であり、江戸における彼の情報源でもある女剣士だ。
彼女を襲えば、永倉は必ず動揺する。
京での警護に隙が生まれるかもしれないし、あるいは判断を誤るかもしれない。
どちらに転んでも、岩倉にとっては好都合だった。
「帝も、将軍も、そしてあの小賢しい新選組も……。すべて、わしの描く絵図の中で踊る駒に過ぎん」
岩倉の目には、狂気にも似た野望の炎が宿っていた。
彼は知っていた。
夜明け前が、最も暗いということを。
そしてその闇を利用できる者だけが、次の時代の覇者となれることを。
京と江戸。
二つの都市を繋ぐ見えない糸が、殺意という色に染め上げられていく。
交錯する思惑の中で、運命の歯車は、悲劇へと向かって加速し始めていた。
大久保の冷徹な覚悟と、家茂の純粋な想いの対比が切ないです。
新八の予感が的中し、伏見での激突が避けられない状況に。
歴史の修正力に抗う新八の戦いが始まります。




