第145話:江戸の影
京での改革が進む一方、江戸には不穏な空気が漂います。
佐那は薩摩藩邸の異変を察知。
愛する人を守るため、「千葉の鬼小町」が動き出します。
梅雨の晴れ間が覗いた江戸の空は、抜けるように青かった。だが、その爽やかな空とは裏腹に、地上にはじっとりと重い空気が澱んでいた。
神田お玉ヶ池、玄武館。そして、そこからほど近い桶町にある千葉定吉道場。
北辰一刀流の道場には、今日も鋭い裂帛の気合いと、竹刀が打ち合う乾いた音が響いている。
だが、北辰一刀流剣術の創始者千葉周作の姪、道場主千葉定吉の娘であり、「千葉の鬼小町」の異名を持つ千葉佐那の表情は、どこか晴れなかった。
「……面ッ!」
佐那の竹刀が、屈強な門弟の面を鮮やかに捉える。
相手が崩れ落ちると同時に、彼女は残心をとり、静かに竹刀を下げた。
「参りました……。佐那様には、どうしても敵いませんな」
門弟が面を外しながら苦笑する。
「いいえ、踏み込みが甘かっただけです。次はもっと腰を入れて」
佐那は凛とした声で助言を与えつつも、その視線は道場の外、江戸の街並みの彼方へと向けられていた。
(新八様……)
京へ旅立った許嫁、永倉新八の顔が脳裏をよぎる。
彼からの便りは定期的に届いていた。京での活躍、将軍家茂公との謁見、そして進みつつある改革。手紙の中の文字からは、彼の情熱と、同時に背負っているものの重さが伝わってくるようだった。
だが、ここ数日、佐那の胸を去来するのは、得体の知れない胸騒ぎだった。
「佐那」
稽古を終え、汗を拭っていると、兄の千葉重太郎が神妙な面持ちで近づいてきた。
「少し、話がある」
兄の目には、普段の温厚さとは違う、剣客としての鋭い光が宿っていた。
二人は道場の奥にある居間へと移動した。
重太郎は周囲に人がいないことを確認すると、声を潜めて切り出した。
「田町の薩摩藩邸が、きな臭い」
その言葉に、佐那の眉がぴくりと動く。
「やはり……兄上も、お気づきでしたか」
「ああ。玄武館に出入りしている商人や、町方の役人から妙な噂を聞く。最近、江戸市中で食い詰めた浪人たちが、次々と姿を消しているとな」
「その行き先が、薩摩藩邸だと?」
「十中八九な。それに、藩邸への物資の搬入が異常に増えている。米や味噌だけじゃない。火薬の原料となる硝石や、武具の類もだ」
佐那は膝の上で拳を握りしめた。
北辰一刀流の門弟は、江戸中に数千人とも言われる。そのネットワークは、時として幕府の探索方をも凌ぐ情報網となる。
佐那自身の耳にも、不穏な情報は入っていた。
夜な夜な藩邸から聞こえる怒号、見慣れぬ大男たちの出入り、そして市中のあちこちで頻発し始めた小火騒ぎ。
「薩摩は……江戸で戦を始めるつもりでしょうか」
佐那の問いに、重太郎は腕組みをして唸った。
「正面切っての戦ではないだろう。だが、騒乱を起こし、幕府を揺さぶる腹積もりなのは間違いない。……京にいる新八たちの足を引っ張るためにな」
その言葉が、佐那の懸念を確信へと変えた。
新八は京で、命がけで国を変えようとしている。
薩長にとって、今の幕府の改革は目の上の瘤だ。京での政治工作が行き詰まれば、彼らは必ず盤面をひっくり返しに来る。
その手始めが、この江戸でのテロリズムなのだ。
「許せません……」
佐那の瞳に、静かな怒りの炎が灯った。
「新八様が積み上げようとしているものを、暴力で壊そうとするなど」
「だが、相手は薩摩だ。うかつに手を出せば、こちらが挑発に乗ったと見なされかねん」
重太郎は慎重だった。幕府と薩摩の関係は、薄氷の上にある。一介の道場が介入して良い問題ではない。
「ええ、分かっています。ですが、指をくわえて見ているわけにもいきません」
佐那は立ち上がった。その所作には、迷いはなかった。
「私が調べます。確たる証拠を掴み、奉行所に突きつけるなり、未然に防ぐなりしなければ」
「佐那、危険だぞ」
「新八様は、もっと大きな危険の中にいらっしゃいます。……それに、私は『千葉の鬼小町』ですもの。遅れはとりません」
佐那は微笑んで見せたが、その目は笑っていなかった。武人としての覚悟が決まった時の、凄絶な美しさがあった。
その日の夕暮れ。
佐那は町娘のような質素な着物に身を包み、田町周辺を歩いていた。
懐には護身用の短刀を忍ばせ、足運びは音もなく軽やかだ。
薩摩藩邸は、海に面した広大な敷地を持っていた。高い塀に囲まれ、中の様子を窺うことは難しい。
だが、門の周辺には、明らかに堅気ではない風体の男たちがたむろしていた。彼らの目は血走り、殺気を隠そうともしていない。
(……尋常ではない数ね)
佐那は物陰からその様子を観察した。
出入りする荷車の一つが、段差で大きく跳ねた。その拍子に、積荷の筵がめくれ、中身がちらりと見えた。
黒い、鉄の塊。――大砲の砲弾だ。
(あれほどの火薬を、江戸のど真ん中に……)
背筋が凍るような思いだった。彼らは、江戸の町を火の海にするつもりなのか。
その時、門の中から数人の男たちが出てきた。
その中心にいる人物を見て、佐那は息を呑んだ。
粗末な浪人風情ではない。鋭い眼光と、隙のない身のこなし。
以前、新八から聞いたことのある特徴と一致する。
(示現流の使い手……。薩摩本国から送り込まれた精鋭たちだわ)
男たちは、地図のようなものを広げ、何かを話し合っていた。
佐那は気配を消し、限界まで近づいて耳を澄ませる。
「……風向きが良ければ、一気に広がる」
「……神田、日本橋あたりを狙えば、混乱は大きかろう」
「……京からの合図を待て」
断片的な言葉が、恐るべき計画を浮き彫りにする。
放火。それも、江戸の中枢を狙った大規模なものだ。
そして「京からの合図」。
これは単独の行動ではない。京と江戸、同時多発的な作戦なのだ。
枝を踏む音がしたわけではない。
ただ、佐那の殺気が、ほんの一瞬だけ漏れたのかもしれない。
「誰か!」
薩摩の男の一人が、鋭くこちらを睨んだ。
佐那は即座に身を翻した。
「追え! 見られたかもしれん!」
背後から怒号と足音が迫る。
佐那は路地裏を疾走した。地の利はこちらにある。入り組んだ江戸の路地を、彼女は風のように駆け抜けた。
追手の気配を撒き、大通りに出たところで、ようやく足を緩める。
心臓が早鐘を打っていた。恐怖ではない。これから起こる事態への危機感に、全身が粟立っていた。
道場に戻った佐那は、すぐに筆を執った。
手紙を書く手は、微かに震えていた。だが、文字は力強く、流麗だった。
『新八様。
突然の文、お許しください。
江戸にて、容易ならざる動きがございます。
薩摩藩邸に多数の浪人が集められ、大規模な火計の準備が進められているようです。
私の調べでは、これは単なる騒乱ではなく、京での動きと連動したものの由。
彼らは「京からの合図」を待っていると言いました。
つまり、京でも何かが起ころうとしているのです。
新八様、どうか、どうかご油断なさいませぬよう。
貴方様の目指す「夜明け」を、このような卑劣な手段で閉ざさせてはなりません。
江戸のことは、私と兄上、そして門弟一同で必ずやお守りいたします。
ですから、新八様も、必ずご無事で。
生きて、またお会いできる日を信じております。
佐那』
書き上げた手紙を封筒に入れ、封蝋をする。
佐那は、最も信頼できる門弟の一人を呼んだ。
「これを、京の新選組屯所へ。早馬を使い、可能な限り急いで届けてください。新八様たちの命に関わることです」
「はっ! 命に代えましても」
門弟は手紙を受け取ると、深く一礼して闇夜へと消えていった。
佐那は立ち上がり、道場の床の間に飾られた薙刀を手に取った。
鞘を払うと、冷ややかな刃が灯明の光を反射して輝いた。
それは、人を斬るための道具。
だが今は、愛する人の帰る場所を守るための、守護の剣だ。
「新八様……」
窓の外、西の空を見上げる。
遠く離れた京の空も、同じ闇に繋がっている。
江戸と京。
二つの都市を繋ぐ見えざる糸が、今、張り詰めようとしていた。
佐那は薙刀を構え、静かに目を閉じた。
その姿は、美しくも勇ましい、戦乙女そのものであった。
嵐が、来る。
だが、決して負けはしない。
彼女の決意が、夜の静寂を切り裂くように、鋭く研ぎ澄まされていた。
薩摩の計画は予想以上に大規模で危険なものでした。
江戸を舞台にした戦いの幕開けに緊張が走ります。




