第144話:追い詰められる者たち
新体制に危機感を募らせる薩長。
岩倉村では、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允が密談を交わします。
慶応三年、六月。
京の都は、梅雨の湿気を孕んだ重苦しい空気に包まれていた。
それはまるで、時代の表舞台から弾き出されようとしている者たちの、鬱屈した感情そのもののようだった。
洛北、岩倉村。
蟄居を命じられている岩倉具視の質素な住まいに、二人の男が訪れていた。
一人は、薩摩藩の大久保利通。もう一人は、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)である。
かつては犬猿の仲であった薩長の両雄が、こうして膝を突き合わせていること自体、事態の異常さを物語っていた。
「……してやられたな」
木戸が、苦虫を噛み潰したように吐き捨てた。
彼は神経質そうに眉間を揉みながら、苛立ちを隠そうともしない。
「『公議政体』だと? 帝と将軍が手を組み、議会を作って天下の公論で政治を行う……。そんなものを出されては、我々が掲げる『倒幕』の大義名分は雲散霧消だ」
大久保は、無表情のまま茶を啜った。しかし、その茶碗を持つ指先には、微かに力がこもっている。
「幕府は、変わった。いや、変えられたと言うべきか。あの永倉新八という男によって」
大久保の声は低く、冷徹だった。
「帝の勅許を得た以上、今の幕府は『朝敵』ではない。むしろ、それに弓引く我々こそが、逆賊の汚名を着せられかねん状況じゃ」
部屋の奥、薄暗い影の中に座る岩倉具視が、不気味な笑い声を上げた。
「ヒヒッ……。公武合体、か。まさか、あの若造の将軍が、ここまでやるとはのう。いや、帝のお心をここまで掴むとは」
岩倉の目は、爬虫類のように冷たく光っていた。
「帝は、徳川を信頼しておられる。このままでは、わしらの出番は永遠になくなる。薩長はただの地方大名に逆戻り、わしはずっとこのあばら家で飼い殺しじゃ」
「そんなことはさせん!」
木戸が激昂して畳を叩いた。
「長州は、幕府によって散々な目に遭わされた。多くの同志が殺され、京を追われた。この恨み、徳川を倒さずして晴らせるものか!」
「感情論で動く時ではない、木戸どん」
大久保が冷静に諫めた。
「今は、形勢が圧倒的に不利じゃ。正面から戦っても、勝ち目はない。幕府軍はフランス式の調練を受け、最新の兵器を備えている。それに加えて、帝の錦の御旗まで向こうにあるのじゃぞ」
沈黙が落ちた。
雨音が、屋根を激しく叩く音だけが響く。
彼らは理解していた。
永倉新八が描いた『新体制大綱』は、あまりにも完璧すぎた。
幕府の権力を維持しつつ、諸藩の不満を吸収し、さらには近代国家としての体裁まで整えている。
これに反対する者は、すなわち「日本の進歩を阻む者」として、世論からも孤立するだろう。
「……崩すには、一点しかない」
岩倉が、独り言のように呟いた。
「一点?」
木戸と大久保が同時に岩倉を見た。
「今の体制は、二人の人物の信頼関係の上に成り立っておる。孝明天皇と、徳川家茂じゃ。この二人の絆が強固である限り、盤石じゃ」
岩倉は、扇子で口元を隠し、細められた目だけで二人を見据えた。
「逆に言えば……そのどちらかが欠ければ、全ては瓦解する」
大久保が、鋭い視線を岩倉に向けた。
「……岩倉様。まさか、再び帝を……?」
その言葉に、木戸も顔色を変えた。
「馬鹿な! 以前の失敗を忘れたのか!? あの時は新選組に阻まれ、危うく全てを失うところだった。これ以上、帝に手を出すなど……!」
「分かっておるわ!」
岩倉が忌々しげに吐き捨てた。
「あの時の失敗は、わしも骨身に沁みておる。帝の警護は、あれ以来、鉄壁じゃ。新選組だけでなく、会津の精鋭も張り付いておる。うかつに手を出せば、今度こそ命はない」
「ならば、どうするのです」
木戸が問うと、岩倉は不敵な笑みを浮かべた。
「帝がダメなら、もう一方の柱を折るまでよ」
「……将軍、家茂公か」
大久保が呟いた。
「家茂は若い。病弱だとも聞く。……事故、あるいは急病に見せかけることは、不可能ではあるまい」
「しかし」
木戸が反論する。
「家茂公の周りには、あの永倉がついています。あいつは、まるで未来が見えているかのように、こちらの先手を打ってくる。毒も、刺客も、簡単には通じないでしょう」
「ふふふ……。永倉新八、か」
岩倉は、楽しげに笑った。
「あやつが一番の邪魔者なのは間違いない。だが、あやつにも弱点はあるはずじゃ。……例えば、遠く離れた江戸にいる、大切な者とかな」
大久保の眉がぴくりと動いた。
「……江戸で、騒ぎを起こすおつもりか」
「陽動じゃよ。永倉の目を、京から逸らす。その隙に、本丸を攻める」
岩倉は、懐から一枚の紙を取り出した。
そこには、京の地図と、いくつかの印が記されていた。
「薩摩と長州の精鋭を集めよ。表向きは、暴発した過激派浪士の仕業に見せかける。狙うは……」
岩倉の指が、地図上の一点を指し示した。
それは、二条城でも御所でもない、意外な場所だった。
「……なるほど。そこを突くか」
大久保が、初めて納得したように頷いた。
「それならば、幕府も朝廷も、動揺せざるを得ない。その混乱に乗じて、一気に政局をひっくり返す」
「毒を食らわば皿まで、か」
木戸は、覚悟を決めたように目を閉じた。
「いいだろう。長州の忍びを動かす。汚れ役は、我々が引き受けよう」
「薩摩も、示現流の手練れを用意しもす」
大久保もまた、腹を括った。
彼らにとって、これは後戻りできない道への第一歩だった。
正義のためではない。理想のためでもない。
ただ、己の生存と権欲のために、彼らは修羅の道を選んだのだ。
岩倉は、満足げに扇子を閉じた。
「決まりじゃな。……夜明けは近いと言うが、その前に、たっぷりと血の雨を降らせてやろうではないか」
三人の男たちの影が、行灯の光に揺らめき、壁に巨大な怪物の姿を映し出していた。
外の雨は、さらに激しさを増していた。
それは、これから京の都を襲う、血塗られた悲劇の前奏曲のようだった。
◇
一方、新選組屯所。
永倉新八は、ふと悪寒を感じて筆を止めた。
「……なんだ?」
背筋を冷たいものが這い上がってくるような感覚。
彼は窓を開け、雨に煙る暗闇を見つめた。
得体の知れない不安が、胸をざわつかせる。
「新八っつぁん、どうしました?」
巡回から戻った原田左之助が、濡れた羽織を拭きながら声をかけた。
「いや……何でもない。少し、冷えただけだ」
永倉は努めて明るく答えたが、胸のざわめきは消えなかった。
歴史が変わろうとしている。
だが、その変化に対する反作用もまた、大きくなっている。
彼は知っていた。
追い詰められた人間が、どれほど恐ろしいことをしでかすか。
そして、自分が変えた歴史の歪みが、どこかで破綻をきたすのではないかという恐怖。
「……佐那」
無意識のうちに、江戸に残してきた恋人の名を呟いていた。
彼女は無事だろうか。
江戸の守りは堅いとはいえ、何が起こるか分からない。
永倉は、机の上の『新体制大綱』を見つめた。
これは、希望の光だ。
だが、その光が強ければ強いほど、影もまた濃くなる。
彼は、再び筆を執った。
今は、進むしかない。
どんな闇が待ち受けていようとも、この手で切り拓くしかないのだ。
雨音に混じって、遠くで雷鳴が轟いた。
それは、来るべき嵐の合図だった。
岩倉の冷徹な策謀と、それに乗る薩長の覚悟が恐ろしい。
新八の弱点を突く陽動という展開に、不穏な空気が漂います。
江戸の安否が気になります。




