第143話:公議政体の胎動
京の都に満ちる新しい時代の予感。
二条城にて、新八は容保公に「公議政体」を説きます。
五月。
京の都は、かつてない熱気に包まれていた。
それは、血なまぐさい戦の予感ではなく、新しい時代が幕を開けようとする、希望に満ちた高揚感だった。
二条城、黒書院。
広げられた大判の和紙を前に、俺は筆を走らせていた。
傍らには、京都守護職・松平容保公が、感嘆のため息を漏らしながらその様子を見守っている。
「……永倉。これは、真に実現可能なのか?」
容保公が指差したのは、俺が書き上げたばかりの『新体制大綱』の一節、「議会開設」の項目だ。
「可能です。いや、やらねばなりません」
俺は筆を置き、容保公の誠実な瞳を見据えた。
「薩長が掲げる『王政復古』は、結局のところ、権力を徳川から彼らに移すだけのもの。それでは、また新たな藩閥政治が生まれるだけです。我々が目指すのは、広く天下の公論を採り入れ、万機を公論に決する仕組み――すなわち『公議政体』です」
俺は言葉を継ぐ。
「帝を国家元首として戴きつつ、行政権は将軍家が担う。しかし、その権力行使は、諸藩の代表者からなる『上院』と、広く有識者を集めた『下院』による議会の承認を必要とする。これにより、独裁を防ぎ、国全体の総意として政治を行うのです」
容保公は腕を組み、深く考え込んだ。
「……帝の権威と、徳川の統治能力を融合させる、か。確かに、それならば朝廷も諸藩も納得せざるを得まい。だが、身分によらぬ人材登用、というのは……」
「そこが肝要です」
俺は力を込めて言った。
「これからの日本に必要なのは、家柄ではなく、実力です。農民だろうが町人だろうが、才ある者は国のために働く機会を与える。それが、欧米列強に対抗できる強い国を作る唯一の道です」
その時、襖が静かに開いた。
「永倉の言う通りだ、肥後守」
現れたのは、将軍・徳川家茂だった。
健康を取り戻した彼の顔には、自信と活力が満ち溢れている。
「上様!」
容保公が慌てて平伏しようとするのを、家茂は手で制した。
「よい。今は公式の場ではない。……永倉、その大綱、余に見せてみよ」
家茂は俺が書いた『新体制大綱』を手に取り、食い入るように読み始めた。
議会制度、身分制の撤廃、そして……。
「『日本中央銀行』の設立……か」
家茂が呟く。
「はい。各藩が勝手に藩札を発行している現状では、経済の統一は図れません。統一通貨「円」を作り、中央銀行が一元管理する。これにより、日本の経済力は飛躍的に向上します」
俺の説明に、家茂は大きく頷いた。
「金は天下の回りもの、と言うが、その流れを制御できれば、国は富む。……良いな。実に面白いぞ、永倉」
家茂は顔を上げ、少年のように目を輝かせた。
「これを、やるのだな。余の手で」
「はい。上様ならば、必ずできます」
「……うむ。肥後守、そなたも力を貸してくれるな?」
家茂の問いに、容保公は居住まいを正し、深く頭を下げた。
「はっ! この容保、身命を賭して、上様の理想実現にお仕えいたします。会津の武士道にかけて!」
家茂は満足げに微笑むと、懐から一通の書状を取り出した。
「実はな、すでに帝より勅許をいただいてるのだ」
「なんと……!」
容保公は息を吞んだ。
「『公議政体』への移行、そして幕政改革の断行。帝は『家茂の思うままにせよ』と仰せられた。これで、大義名分は我にある」
家茂は窓辺に歩み寄り、京の街並みを見下ろした。
「……余は、この新しい日本を、早く宮さんに見せてやりたいのだ」
その声は、優しく、温かかった。
「江戸にいる宮さんに、文を送った。『もうすぐ、誰も見たことのない素晴らしい国ができる。その時こそ、胸を張ってそなたを迎えに行く』とな」
史実では、家茂の遺体が江戸に帰り、和宮が涙に暮れた。
だが、この世界では違う。
生きて、新しい時代を切り拓いた英雄として、彼は最愛の妻の元へ帰るのだ。
「和宮様も、きっと首を長くしてお待ちでしょう」
俺が言うと、家茂は照れくさそうに笑った。
「ああ。返事が来たのだがな。『待ちくたびれて、首が鶴のように長くなってしまいます』と書いてあった。あの方は、時々妙な冗談を仰る」
場が和やかな笑いに包まれた。
しかし、俺の心の一部は、冷静に現状を分析していた。
光が強まれば、影もまた濃くなる。
幕府主導の改革が成功すればするほど、倒幕を掲げる薩長の立場はなくなる。
彼らは、追い詰められている。
そして、追い詰められた獣ほど、恐ろしいものはない。
「……上様、容保公。油断は禁物です」
俺は表情を引き締めて言った。
「改革が進めば進むほど、既得権益を失う者たちの抵抗は激しくなります。特に、薩長は……」
「分かっている」
家茂の瞳から、笑みが消え、鋭い光が宿った。
「彼らは、手段を選ばぬだろう。だが、余はもう逃げぬ。帝の信頼と、そなたたちの助けがある限り、どのような陰謀も打ち砕いてみせる」
その言葉には、一国の主としての揺るぎない覚悟があった。
俺は改めて、この若き将軍に一生の忠誠を誓った。
現代知識を持つ俺が、彼の剣となり、盾となる。
歴史の荒波を、この手でねじ伏せてやる。
その夜。
新選組屯所の一室で、俺は土方歳三と酒を酌み交わしていた。
「……へえ。いよいよ、国造りってわけか」
土方は盃を干し、ニヤリと笑った。
「お前が最初にここに来た時、ただの剣術バカかと思ったもんだが……まさか、将軍様の知恵袋になるとはな」
「俺も、こんなことになるとは思ってませんでしたよ」
俺は苦笑しながら、酒を注ぎ足した。
「でも、やるしかない。この国を、滅茶苦茶にさせないためには」
「ああ、分かってる」
土方の目が、鋭く光った。
「俺たちの仕事は、お前らが描いた絵図面を、血で汚そうとする連中を排除することだ。……最近、京の街が妙に静かだ。嵐の前の静けさってやつか」
「ええ。岩倉たちが、何か企んでいるのは間違いない」
「山崎に探らせているが、尻尾を出さねえ。相当、慎重になってやがる」
土方は煙管を取り出し、紫煙をくゆらせた。
「だが、焦りは禁物だ。向こうが動くのを待つ。動いた瞬間、叩き潰す。……総司の調子もいいしな」
「ああ、琴さんのおかげですね」
「ふん、あの朴念仁が。まあ、悪くはねえがな」
土方は憎まれ口を叩きながらも、その表情はどこか嬉しそうだった。
俺たちは、それぞれの場所で、それぞれの戦いをしている。
政治の場で戦う俺と家茂。
剣の場で戦う土方や沖田。
そして、その全てを支える多くの人々。
公議政体の胎動は、確実に始まっている。
それは、誰にも止められない時代の奔流だ。
だが、その流れを堰き止めようとする黒い影が、すぐそこまで迫っていた。
俺は窓の外、暗闇に沈む京の街を見つめた。
遠くで、犬の遠吠えが聞こえた。
夜明けは近い。
だが、その前に訪れる最も深い闇を、俺たちは乗り越えなければならない。
「……行くぞ、新八」
「おう」
俺たちは盃を合わせ、静かに決意を新たにした。
家茂の英断と容保公の覚悟に胸が熱くなります。
しかし、光が強まれば影も濃くなる予感が漂います。




