第142話:京の恋模様
四条大橋の夜、更なる不逞浪士を前に新選組と新徴組が刃を交えます。
月明かりの下で並び立つ沖田と琴。京の都に、静かな熱が灯ります。
京の夜気は、まだ肌寒さを残していた。
四条大橋のたもと。月明かりの下、数人の不逞浪士が抜刀し、殺気を撒き散らしている。
対峙するのは、浅葱色の羽織を纏った新選組の一隊と、黒を基調とした着流しに身を包んだ新徴組の一隊だ。
「……逃げ場はないよ」
鈴を転がすような、しかし凛とした涼やかな声が響く。
声の主は、新徴組の先頭に立つ一人の剣士。
長身痩躯。結い上げた黒髪に、切れ長の瞳。男装をしてはいるが、その美貌は月光を浴びて妖艶ですらある。
法神流の使い手、中沢琴である。
「女だと侮るなよ。痛い目を見るぜ」
隣に並んだ新選組一番隊組長、沖田総司が楽しげに笑った。
その瞬間、浪士たちが雄叫びを上げて襲いかかる。
「ふっ!」
琴の長刀が閃いた。
踏み込みの鋭さは、並の男を遥かに凌駕する。一撃で敵の刀を弾き飛ばし、返す刀で峰打ちを叩き込む。流れるような所作には、一切の無駄がない。
同時に、沖田も動いた。
三段突き。
目にも止まらぬ速さで突き出された切っ先が、敵の肩口を正確に貫く。
「ぐああっ!」
二人の剣舞は、まるで示し合わせたかのように息が合っていた。
沖田が敵の注意を引きつけ、その隙を琴が突く。琴が敵の退路を断ち、沖田が仕留める。
互いの背中を預け合い、死角を補い合うその戦いぶりは、長年連れ添った夫婦のようでさえあった。
数分もしないうちに、浪士たちは全員地面に伏していた。
「……ふう。片付いたね」
沖田が刀を納め、軽く息を吐く。
琴もまた、静かに残心を示してから納刀した。
「お見事です、沖田先生。相変わらず、神速の突きですね」
「琴さんこそ。あの長刀の間合い、惚れ惚れするよ。僕より強いんじゃないか?」
「ご冗談を」
琴は微かに口元を緩めた。普段は鉄仮面のように表情を崩さない彼女が、沖田の前でだけは見せる柔らかな表情だった。
◇
捕縛した浪士たちを部下に任せ、二人は鴨川の河原へ降りた。
任務終わりの短い休息である。
土方歳三は「報告書をまとめるまで戻ってくるな」と、気を利かせたのか突き放したのか分からない言葉を残して、屯所へ先に戻っていた。
川のせせらぎだけが聞こえる静寂の中、二人は並んで腰を下ろした。
「……少し、痩せましたか?」
不意に、琴が尋ねた。
沖田は苦笑して自分の頬を撫でる。
「そうかな。永倉さんがうるさくてね。『もっと食え』『肉を食え』『卵を飲め』って。おかげで腹回りは太った気がするんだけど」
「永倉様の仰る通りです。あなたは、もっと養生なさらなくては」
琴の声には、真剣な響きがあった。
沖田が労咳(結核)を患っていることは、新選組幹部と、ごく一部の親しい者しか知らない機密事項だ。
新八の現代知識に基づく食事療法と隔離、そして衛生管理のおかげで、沖田の病状は奇跡的に寛解に近い状態を保っている。喀血も無くなり、以前より顔色も良くなった。
だが、完治したわけではない。
時折見せる、肺の奥から絞り出すような咳や、ふとした瞬間の儚げな気配を、琴は見逃していなかった。
「大丈夫だよ。最近は調子がいいんだ」
沖田は明るく振る舞おうとしたが、その言葉を遮るように、小さく咳き込んだ。
「ごほっ、ごほっ……」
口元を押さえる沖田の背中を、琴の手が優しく、しかし力強くさする。
「……無理をなさらないで」
咳が収まるのを待って、沖田は懐から手拭いを取り出し、口元を拭った。
白い布に、血は付いていない。
「……悪いね、琴さん」
「謝らないでください」
琴は懐から水筒を取り出し、沖田に手渡した。中身は、永倉が考案した蜂蜜と柚子を混ぜた特製水だ。
一口飲むと、喉の渇きと痛みが和らぐ。
「……美味しい」
「良かった」
琴は安堵の息をつき、沖田の顔を覗き込んだ。
月明かりに照らされた彼女の瞳は、どこまでも深く、澄んでいた。
男装の麗人。
その美しさと強さは、江戸市中でも評判だった。多くの男たちが彼女に言い寄っては、手酷く振られているという噂も聞く。
そんな彼女が、なぜ自分のような病人に構うのか。沖田には不思議でならなかった。
「琴さんは、強いね」
沖田がぽつりと言った。
「剣の腕だけじゃない。心が、強い。男装して、故郷を離れて、こんな血なまぐさい京の都で戦い続けている。僕なんかより、よほど立派な武士だ」
「……強くなど、ありません」
琴は視線を川面に落とした。
「私は、ただ……自分らしくありたいだけです。女だからと薙刀を持たされ、家を守ることだけを強いられるのが嫌だった。剣で身を立て、己の力で生きたかった。それだけです」
琴は膝の上で拳を握りしめた。
「でも、時々……怖くなることがあります。このまま戦い続けて、何が残るのか。私の剣は、誰かを守れているのか。ただ人を斬るだけの道具になっていないか……」
普段は凛々しい彼女の、初めて聞く弱音だった。
沖田は、彼女の握りしめられた拳に、そっと自分の手を重ねた。
剣ダコのある、武骨な、しかし温かくやわらかな手。
「守れているよ」
沖田は優しく言った。
「少なくとも、僕は琴さんに守られている気がする。君が隣にいてくれると、背筋が伸びるんだ。ああ、一人じゃないんだって思える」
「沖田先生……」
「僕の方こそ、弱虫だよ」
沖田は空を見上げた。満月が、雲間から顔を出している。
「……死ぬのが、怖い時があるんだ」
誰にも言えなかった言葉が、琴の前では自然と零れ落ちた。
「永倉さんのおかげで、今は生きている。でも、この病は影のように僕に張り付いている。いつまた、あの発作が来るか。いつ、剣が握れなくなるか。夜、布団に入ると、明日の朝、目が覚めないんじゃないかって……震えることがある」
天才剣士・沖田総司。
常に笑顔を絶やさず、冗談を言い、子供たちと遊ぶ彼が抱える、深淵のような孤独と恐怖。
それを聞いた琴は、ハッとしたように顔を上げた。
沖田の手が、微かに震えていることに気づいたからだ。
「……私の前では、強がらなくていいです」
琴は、重ねられた沖田の手を、両手で包み込んだ。
「あなたは、もう十分に戦っています。誰よりも強く、誰よりも優しい。だから……弱音を吐いたって、誰もあなたを責めたりしません」
琴の瞳から、一筋の涙が伝い落ちた。
彼女は、衝動のままに身を乗り出し、沖田の体を抱きしめた。
男装の着物越しに伝わる、彼女の体温と、鼓動。
それは、剣士としてのものではなく、一人の女性としての、温かく柔らかなものだった。
「私が、守ります」
琴は沖田の耳元で、誓うように囁いた。
「病からも、敵からも、あなたを脅かす全ての恐怖から、私が守ってみせます。私の剣は、そのためにあるのだと……今、分かりました」
沖田は一瞬驚いて硬直したが、すぐに力を抜き、琴の背中に腕を回した。
甘い花の香りがした。
血の匂いでも、薬の匂いでもない、生命の香り。
その温もりに触れていると、胸の奥にあった冷たい塊が、ゆっくりと溶けていくような気がした。
「……ありがとう、琴さん」
沖田は目を閉じ、彼女の肩に額を預けた。
「君に守られるなら、悪くないな」
二人はしばらくの間、言葉もなく抱き合っていた。
川の音だけが、優しく二人を包み込んでいる。
それは、激動の時代の只中に咲いた、小さくも確かな恋の花だった。
互いの孤独を埋め合わせ、魂を支え合う、共依存にも似た深い絆。
明日、何が起こるか分からない。だからこそ、今この瞬間の温もりだけは、決して離したくないと、二人は強く願った。
◇
その様子を、少し離れた橋の上から見下ろす影があった。
新選組副長、土方歳三である。
彼は口に咥えた楊枝をぺっと吐き捨てると、苦虫を噛み潰したような、それでいてどこか安堵したような複雑な表情を浮かべた。
「……ったく、総司の奴。隅に置けねえな」
土方は懐から煙草入れを取り出しながら、独りごちた。
「まあいい。あのバカが少しでも生きる気力を持ち続けるなら、惚れた腫れたも薬のうちか」
土方は、二人を邪魔しないように、わざと足音を高く鳴らして反対方向へと歩き出した。
「おい、新八。お前の描く未来図に、あいつらの幸せな結末も書き加えておけよ」
夜空に向かって呟くその声は、誰に聞かれることもなく風に消えていった。
京の夜は更けていく。
だが、その闇の向こうには、確実に新しい時代の光が差し込み始めていた。
恋も、政治も、戦いも。
全てを飲み込みながら、歴史の歯車は加速していく。
沖田と琴の息の合った剣と、任務後の川辺の会話が印象的です。
強さの裏の弱さに触れた時、距離が縮む切なさ
土方や新八の支えも光ります。




