第141話:命の恩人
将軍家茂の療養を支える新八と良順に、思わぬ横槍が入ります。
命を守る食卓は守り切れるのか。
二条城の台所で緊張が高まります。
京の都は、遅咲きの桜が散り、新緑が眩しい季節を迎えていた。
二条城の台所は、早朝から一種異様な緊張感に包まれていた。
「永倉様、本日の献立でございますが……」
おずおずと差し出された書き付けに、俺は厳しい視線を走らせる。
「……麦飯の割合が減っているな。それに、豚肉の生姜煮が消えて、また鯛の塩焼きになっている。どういうことだ?」
俺の問いに、膳奉行の役人が脂汗を浮かべて平伏した。
「は、はい……。それが、大奥の老女様方より、上様に獣の肉を召し上がらせ続けるとは何事か、と……。麦飯も、農民の食い物であって将軍家の食卓に上るものではないと、猛烈な抗議がございまして」
俺は小さく溜息をついた。
予想していたことではある。
将軍・徳川家茂の脚気治療のために俺と松本良順が考案した「特別献立」は、当時の武家、特に格式を重んじる大奥や保守的な幕臣たちにとっては、受け入れがたい「下賎な食事」だったのだ。
白米至上主義。それが江戸の武士のステータスであり、同時に彼らを蝕む病魔の温床でもあった。
「松本先生、どう思いますか」
隣に控えていた松本良順に水を向ける。西洋医学の泰斗は、腕組みをして渋い顔をした。
「医学的に見れば、愚の骨頂ですな。上様の御御足の浮腫は、明らかに白米の偏食によるもの。麦や肉に含まれる滋養こそが、今の特効薬なのです。格式で病が治るなら、医者はいりませんよ」
良順の言葉は辛辣だが、真理だ。
俺は役人に向き直り、静かだが断固とした口調で告げた。
「献立は元に戻せ。これは治療だ。薬だと思えと言ったはずだ。もし文句があるなら、俺が直接説明する。上様の命と、古臭い格式と、どちらが大事なのかとな」
その時だった。
「騒がしいな」
凛とした声が響き、台所の入り口に人影が現れた。
小姓を従えた、若き将軍・徳川家茂その人である。
全員が慌てて平伏する中、家茂はスタスタと俺たちの前まで歩み寄ると、書き換えられた献立表を手に取った。
「……永倉の言う通りにせよ」
家茂の声には、以前のような弱々しさは微塵もなかった。
「余は、生きねばならぬのだ。徳川のため、日の本のため、そして……待っている者のために。そのためなら、麦飯だろうが泥だろうが食らう。外野の雑音は余が黙らせる。永倉、松本、構わぬ。続けよ」
その力強い宣言に、俺は胸が熱くなるのを感じた。
この若き君主は、覚悟を決めたのだ。
自らの命を守ることが、この国を守ることに直結しているという事実を、正しく理解している。
「はっ! 直ちに!」
膳奉行たちが慌ただしく動き出す。
家茂は俺を見て、悪戯っぽく片目を瞑ってみせた。
「だが永倉、あの豚肉というのは、案外美味いものだな。脂が甘くて、力が湧いてくる気がする」
「……お気に召して何よりです。上様」
俺は深く頭を下げながら、心の中でガッツポーズをした。
勝てる。
この「脚気」という、史実における家茂の死神に、俺たちは打ち勝とうとしている。
それから半月が過ぎた。
効果は、劇的だった。
二条城の庭園を、家茂が歩いている。
以前は少し歩くだけで息切れし、足を引きずっていたのが嘘のようだ。足取りは軽く、背筋も伸びている。
青白かった頬には血色が戻り、痩せこけていた体躯にも、健康的な肉付きが戻りつつあった。
「どうだ、永倉。見てみろ」
家茂は袴の裾をまくり上げ、自らの脛を俺に見せた。
「指で押しても、すぐに戻る。あの不気味なへこみは、もうどこにもない」
「お見事です。心臓の動悸も治まりましたか?」
「ああ。夜もぐっすりと眠れる。朝、目が覚めた時に体が軽いのだ。こんな感覚は、何年ぶりだろうか」
家茂は庭の池のほとりに腰を下ろした。俺も許しを得て、その隣に控える。
水面には、初夏の日差しがキラキラと反射していた。
「……正直に言えば、怖かったのだ」
家茂がぽつりと漏らした。
「体が日に日に重くなり、指先が痺れ、思考が霞んでいく……。まるで、底なしの沼に沈んでいくような感覚だった。医者たちは『御疲れが出たのです』としか言わぬ。誰も、余の本当の苦しみを理解してはくれなかった」
俺は黙って耳を傾ける。
史実の家茂は、この孤独と恐怖の中で、二十一歳という若さで命を落としたのだ。
第二次長州征討の最中、大阪城で、誰にも救われることなく。
「だが、そなたは違った」
家茂が俺の方を向いた。その瞳は、澄み切っている。
「そなたは、余の病の正体を言い当て、具体的な解決策を示してくれた。『必ず治ります』と、迷いのない目で言ってくれた。あの時、余はどれほど救われたか知れぬ」
俺は首を横に振った。
「私がしたのは、あくまで知識の提供に過ぎません。治したのは、上様ご自身の『生きたい』という意志です。あの、さして旨くもない麦飯を毎日食べ、周囲の反対を押し切って治療を続けた、上様の強さが奇跡を起こしたのです」
「買い被りすぎだ」
家茂は苦笑したが、すぐに真剣な表情に戻った。
「……永倉。余には、どうしても生きて帰らねばならぬ場所がある」
彼は懐から、一通の手紙を取り出した。
美しい料紙に、流麗な文字が記されている。差出人の名は見るまでもない。江戸にいる御台所、和宮からのものだ。
「宮さんが、待っているのだ」
その言葉の響きには、将軍としての威厳ではなく、一人の青年としての切実な愛が滲んでいた。
「余が死ねば、彼女はどうなる。朝廷と幕府の架け橋として嫁ぎ、慣れぬ江戸での暮らしに耐え、それでも余を支えてくれた。余が先に逝くようなことがあれば、彼女を絶望の淵に突き落とすことになる。それだけは、絶対に避けねばならなかった」
史実の悲劇が脳裏をよぎる。
家茂の死後、和宮が詠んだ歌。
『空蝉の 唐織衣 何か(なにか)せむ 綾も錦も 君ありてこそ』。
夫のために用意した美しい着物も、あなたがいてくれなければ何の意味もない――。
あの悲しみを、この世界では回避できたのだ。
「これでまた、宮さんに会える」
家茂は手紙を胸に抱き、少年のように無邪気に笑った。
「江戸に戻ったら、真っ先に彼女に元気な姿を見せてやりたい。そして、そなたの話をするつもりだ。『魔法使いのような男がいて、余の命を救ってくれたのだ』とな」
俺は目頭が熱くなるのを必死に堪えた。
現代知識を持つ「転生者」としての俺は、常に合理的で、冷徹な計算のもとに動いてきたつもりだ。
だが、今、目の前にあるのは、計算や損得を超えた「命」の輝きだった。
俺が救ったのは、単なる歴史上の重要人物ではない。一人の青年と、彼を愛する女性の未来なのだ。
「……光栄の至りに存じます」
声を絞り出すように答えるのが精一杯だった。
家茂は立ち上がり、俺の肩に手を置いた。
その手には、確かな体温と力強さがあった。
「永倉。そなたは余の師であり、臣下であるが……それ以上の存在だ。そなたは、余の命の恩人だ」
「上様……」
「これからの日本は、かつてない荒波に揉まれるだろう。薩長の動き、異国の圧力、そして幕府内部の腐敗……。余一人では、とても舵取りはできぬ。だが、そなたがいれば、やれる気がするのだ」
家茂は真っ直ぐに俺を見据えた。
「共に創ろう、永倉。誰もが笑って暮らせる、新しい日本を。余の隣で、その知恵と力を貸してくれ。これは将軍としての命令ではない。徳川家茂という一人の男からの、一生の頼みだ」
俺は、その場に片膝をつき、深く頭を垂れた。
前世で国のために尽くそうとして挫折し、過労死した記憶。
そして今、この時代で、真に仕えるべき主君を見つけた喜び。
全ての感情が、一つの決意へと収束していく。
「御意。……この命、燃え尽きるまで、上様と日本のために捧げます。どのような困難が待ち受けていようとも、必ずや上様が描く未来を実現してみせます」
俺の言葉に、家茂は満足げに頷いた。
「頼りにしているぞ、我が同志よ」
家茂の快復の報せは、すぐに御所にも届いた。
数日後、孝明天皇より勅使が遣わされ、家茂の健勝を祝う言葉と共に、俺に対しても異例の勅語が賜られた。
『将軍の身を救いし功、すなわち国家を救いし功なり。その忠節、朕深くこれを嘉す』
帝にとって、家茂は単なる義弟(妹・和宮の夫)というだけでなく、最も信頼を寄せる政治的パートナーでもあった。
家茂が健康を取り戻したことは、公武合体による政権運営が盤石なものとなったことを意味する。
帝の信頼は、俺という個人を超え、俺が推進する「公議政体」構想への強力な後ろ盾となった。
二条城の大広間。
諸藩の重役たちが集まる中、上座に座る家茂の顔色は艶やかで、その声には王者の風格が漂っていた。
「皆の者、心配をかけた。余はこの通り、健在である」
その一言で、広間の空気は一変した。
将軍の死を予期し、次なる権力闘争を画策していた者たちは顔色を失い、心ある者たちは安堵の涙を流した。
俺は末席からその光景を眺めながら、静かに闘志を燃やしていた。
歴史の歯車は、確実に変わり始めた。
家茂は生き残った。高杉晋作も生きている。
主要な役者が揃ったまま、舞台は次の幕へと進む。
だが、これで全てが上手くいくわけではない。
光が強くなればなるほど、影もまた濃くなる。
岩倉具視、大久保利通、木戸孝允……。
彼らは、このまま黙って引き下がるようなタマではない。
むしろ、正攻法での倒幕が不可能になった今、彼らはより陰湿で、より過激な手段に訴えてくるはずだ。
「……来るなら来い」
俺は懐の愛刀・播州住手柄山氏繁の柄を、服の上から強く握りしめた。
俺には、守るべき主君がいる。共に戦う仲間がいる。そして、未来を変えるための知識がある。
薩長の陰謀など、全て叩き潰してやる。
ふと、窓の外を見ると、新選組と新徴組の羽織を着た隊士たちが、城内の警備に当たっているのが見えた。
その中には、一番隊組長・沖田総司の姿もある。
彼の隣には、新徴組の小柄な剣士――中沢琴が並んで歩いていた。
二人の距離は、以前よりも少し近いように見える。
俺は少しだけ口元を緩めた。
激動の時代の只中にあっても、花は咲き、恋は芽吹く。
そんな当たり前の幸せを守るために、俺たちは戦っているのだ。
偽りの夜明けは終わりを告げようとしている。
ここからが、本当の夜明け前。
一番暗く、そして一番熱い時間の始まりだ。
俺は大きく息を吸い込み、新たな戦場へと足を踏み出した。
大奥の反発すら押し切る家茂の覚悟が頼もしい回でした。
新八の直言が「治療」を「意志」に変えた瞬間が熱いです。




