第140話:将軍の食卓
二条城に漂う重苦しい気配。
将軍家茂の異変を見抜いた新八は、食卓から命を守ろうとします。
慶応三年、三月。
京の二条城。
春の陽気が満ちる庭園とは対照的に、城内の奥深く、将軍の居室には重苦しい空気が漂っていた。
「……上様、またお残しですか」
側近の老女が、ほとんど手つかずの膳を前に、困惑の表情を浮かべている。
膳の上には、俺と松本良順が考案した「特別献立」が並んでいる。
麦飯、豚肉と大根の煮物、野菜たっぷりの味噌汁。
だが、それらは冷めきっていた。
代わりに、部屋の隅にある文机の上には、空になった菓子折りの包み紙が散乱している。
「食欲がなくてな。……それに、どうも足が重い」
徳川家茂は、力なく微笑んだ。
まだ二十一歳という若さだが、その顔色は青白く、頬は痩せこけている。
袴の裾を少し上げると、脛のあたりがむくんでいるのが見て取れた。指で押すと、その跡がなかなか戻らない。
「脚気……か」
謁見の間に控えていた俺は、心の中で呻いた。
やはり、防げなかったか。
昨年末、俺は松本良順を通じて食事療法を提案した。
我々の提案に耳を傾け、ひとたびは、自らの健康管理に気を配りだしていた家茂だが、長年の習慣というのは、そう簡単に変えられるものではない。
特に、激務に追われる家茂にとって、甘い菓子や慣れ親しんだ白米は、唯一の心の安らぎだったのだろう。
「少しなら」という油断が、病魔を招き入れてしまったのだ。
「永倉。……そなた、何か言いたげだな」
家茂が、俺の視線に気づいて声をかけてきた。
その瞳は澄んでいるが、どこか疲れの色が濃い。
俺は意を決して、一歩前に進み出た。
「はっ。恐れながら、上様。……隠れて甘味を召し上がっておられますね?」
その言葉に、家茂はビクリと肩を震わせ、バツが悪そうに視線を逸らした。
周囲の側近たちが「無礼な!」と色めき立つが、俺は構わずに続けた。
「その足のむくみ、倦怠感。それは『脚気』の兆候です。原因は、白米の偏食と、甘味の摂りすぎによるものです」
「……分かってはおる。分かってはおるのだが……」
家茂は弱々しく呟いた。
「麦飯は喉を通らぬ。豚肉も、どうも獣臭くてな。……公務で疲れると、どうしても甘いものが欲しくなるのだ」
それは、将軍という重責を背負う若者の、悲痛な叫びでもあった。
俺は胸が痛んだ。
彼に無理を強いているのは、他ならぬ俺たちだ。
だが、ここで甘やかすわけにはいかない。
「上様。お気持ちは痛いほど分かります。ですが、このままでは……」
死にますよ、という言葉を飲み込む。
その時、廊下からバタバタと足音が近づいてきた。
「上様! 江戸より、急ぎの書状が!」
小姓が息を切らせて飛び込んできた。
手には、藤色の美しい和紙の封書が握られている。
そこからは、微かに白檀の香りが漂ってくる。
「宮さん……!」
家茂の目が輝いた。
和宮親子内親王。
家茂の正室であり、彼が心から愛する女性だ。
家茂は震える手で封を切り、手紙を広げた。
俺は心の中でガッツポーズをした。
間に合った。
俺が佐那さんを通じて和宮様に頼んだ、「最後の一手」だ。
家茂の視線が、手紙の上を滑っていく。
最初は嬉しそうだった表情が、次第に真剣なものへと変わり、やがて目元が潤んでいくのが分かった。
「……『あなた様がお倒れになれば、私も生きてはいけません』と……」
家茂の声が震えている。
手紙には、俺が伝えた病状の深刻さと、和宮様の切実な願いが綴られているはずだ。
『嫌いな麦飯も、薬だと思って召し上がってください。私のために、生きてください』と。
「宮さんが、これほどまでに余の身を案じてくれているとは……」
家茂は手紙を胸に抱きしめた。
その目から、一筋の涙が零れ落ちる。
そして、顔を上げた時、そこには先ほどまでの弱々しさは微塵もなかった。
「永倉」
「はっ」
「余は、甘かった。……自分の体は、自分だけのものではないのだな」
家茂は、手つかずだった膳を引き寄せた。
冷めきった麦飯。脂の浮いた豚汁。
決して美味くはないだろう。
だが、彼は箸を取り、それを口に運んだ。
「……うまい」
家茂は噛み締めるように言った。
「宮さんの想いが、味がする」
その言葉に、側近たちも涙ぐんでいる。
俺も、目頭が熱くなるのを堪えるのに必死だった。
「これからは、出されたものは残さず食うぞ。甘味も控える。……永倉、良順と共に、余を監視せよ。隠れて食おうとしたら、叩いてでも止めるのだ」
「はっ! 謹んで、お受けいたします!」
家茂は、麦飯を盛った茶碗を空にし、おかわりを所望した。
その食欲は、生きようとする意志そのものだった。
その日から、二条城の食卓は変わった。
家茂は約束通り、出された食事を完食し、甘味を断った。
俺と松本良順は、さらに工夫を凝らした。
豚肉は生姜や味噌で臭みを消し、麦飯には季節の野菜を混ぜ込んで食べやすくした。
薩摩藩邸から極秘裏に調達した豚肉も、今では「薬膳」として台所でも認められつつある。
ある日の朝、庭園を散策する家茂に付き従っていたときのこと
家茂は、池の鯉に餌をやりながら、ふと俺に尋ねた。
「永倉。そなたはなぜ、そこまで余の体を気遣う? 宮さんに手紙まで書いて」
「……バレておりましたか」
「ふふ、宮さんの手紙に書いてあった。『永倉という忠臣の言葉を信じてください』とな」
その時、一陣の風が吹き抜け、桜の花びらが舞い散った。
家茂の肩に、一枚の花びらが留まる。
それはまるで、天が彼の快復を祝福しているかのようだった。
俺は深く頭を下げた。
恩などいらない。
ただ、生きていてくれればいい。
貴方が生きて、和宮様と笑い合える未来があれば、それだけで俺の戦いには意味がある。
将軍の食卓から始まった小さな革命は、やがて日本全体を揺るがす大きなうねりとなっていく。
だが、その前に立ちはだかる闇もまた、深さを増していた。
食べることは生きることだと痛感します。
新八の直言と良順の工夫、そして和宮様の真っすぐな想いが胸に残ります。




