第116話:静かなる戦い
しんと静まり返った寺田屋の一室。
先ほどまでの喧騒が嘘のように、今は俺の呼吸の音だけがやけに大きく聞こえる。蹴破られた障子の向こうには、血走った目で俺を睨みつける伏見奉行所の役人たちが、まるで時間が止まったかのように立ち尽くしていた。
「なっ……! き、貴様は……新選組の、永倉新八……!?」
最初に我に返った同心頭らしき男が、絞り出すような声で俺の名を呼んだ。その声には、驚きと、怒りと、そして何よりも深い困惑の色が滲んでいた。坂本龍馬という大物を捕らえるべく踏み込んだ先に、なぜ最大の障害となりうる新選組の幹部が、悠々と酒を飲んでいるのか。彼らの頭の中は、今、疑問符で埋め尽くされていることだろう。
俺はゆっくりと立ち上がり、彼らに向かってわざとらしくにこやかに笑いかけてやった。
「これはこれは、伏見奉行所のお歴々。夜分にお集まりで、一体何事でございましょうか。見ての通り、私はここで一人、静かに酒を楽しんでいただけなのですが……。この有り様は、少々物騒ですな」
俺は蹴破られた障子にちらりと視線を送り、肩をすくめる。その余裕綽々の態度が、奴らの神経をさらに逆撫でしたのは言うまでもない。数人の若い役人が、悔しげに歯ぎしりをし、刀の柄を握る手に力を込めるのが見えた。だが、同心頭がそれを手で制する。
「永倉様……。これは一体どういうことで……? なぜ貴殿がこのような場所に?」
同心頭は、努めて冷静な声色で問いかけてきた。だが、その額に浮かんだ脂汗が、彼の内心の動揺を隠しきれていない。
「どういうこと、とは? 俺がどこで酒を飲もうと、俺の勝手だろう。それとも、伏見では酒を飲むのに奉行所の許可がいるのか? それは初耳だ」
「とぼけるのも大概にされよ! 我らが追っているのは、土佐の脱藩浪士、坂本龍馬! この部屋にいたはずだ! どこへやった!」
痺れを切らした若い役人の一人が、堪えきれずに怒鳴った。俺は、その男に冷たい視線を向ける。
「ほう、坂本龍馬? 知らんな。俺は友人と酒を飲んでいたが、彼は少し前に席を立った。あんたたちの言う『坂本龍馬』とやらが、俺の友人だとでも言うのか? 人違いではないかね」
「友人だと……!?」
「ああ、そうだ。何か問題でも?」
俺が開き直ると、役人たちはぐっと言葉に詰まった。新選組の永倉新八が、お尋ね者である坂本龍馬と「友人」である。それは、彼らにとって悪夢のようなシナリオだろう。下手に手を出せば、新選組、ひいてはその後ろ盾である会津藩との全面対決になりかねない。
同心頭は、ごくりと唾を飲み込み、一歩前に出た。
「永倉様。我らは御用の遂行中です。坂本龍馬がこの寺田屋に潜伏しているとの確かな情報を得て、奉行所より直々に手入れの許可を得ております。貴殿がどのようなお立場であれ、公儀御用を妨げるような真似は許されませんぞ」
「御用の妨げ? 心外だな。俺はただ、友人と酒を飲んでいた部屋を、いきなり踏み込んできて荒らされた被害者なんだが」
俺は腕を組み、ゆっくりと部屋の中を見回した。ひっくり返った膳、蹴破られた障子。
「この有様を、俺の上役……例えば、局長の近藤勇や、会津藩の公用人である広沢様あたりに報告したら、どうなるだろうな? 『伏見奉行所は、理由もなく新選組隊士の私的な時間に踏み込み、狼藉の限りを尽くした』と。さて、どちらが御用を妨害していることになるのか、見ものだな」
俺の言葉に、同心頭の顔色が変わった。近藤さんや、ましてや会津藩の名前を出されれば、一介の奉行所役人ではどうすることもできない。彼らの権限を、はるかに超えた政治問題になる。
「そ、それは……」
「それに、だ」
俺は畳み掛けるように、核心を突いた。
「あんたたちの言う『確かな情報』とやらは、どこから得たものだ? 俺の知る限り、伏見奉行所が単独でこれほど大規模な捕り物を仕掛けるとは考えにくい。……ひょっとして、どこぞの藩から尻を叩かれでもしたか? 例えば……薩摩、とか」
「薩摩」という単語が出た瞬間、役人たちの間に動揺が走った。図星だったようだ。彼らの背後で糸を引いているのが誰なのか、俺は百も承知だ。だが、それを俺の口から指摘されるのと、彼らが自覚しているのとでは、意味が全く違う。
同心頭は、顔を真っ赤にして反論した。
「な、何を根拠にそのようなことを! 我らは伏見奉行所として、正当な職務を遂行しているだけだ!」
「ほう、そうか。ならば結構。この場にいる全員の名前と役職を教えてもらおうか。後日、会津藩を通じて、伏見奉行所に対し、今夜の『正当な職務』について、公式に照会させてもらおう。もちろん、あんたたちの行動が本当に正当なものなら、何の問題もないはずだな?」
俺が冷たく言い放つと、役人たちは完全に沈黙した。会津藩に公式に照会される。それは、自分たちの独断ではなく、薩摩の圧力によって動かされたという事実が白日の下に晒されることを意味する。そうなれば、自分たちの首が飛ぶだけでは済まない。伏見奉行所そのものの面子が丸潰れになり、薩摩藩との関係も険悪になるだろう。
彼らは、坂本龍馬を捕らえるという功績と、会津藩を敵に回すという危険を天秤にかけ、そして答えを出せずにいる。俺は、その葛藤を、まるで面白い見世物でも見るかのように楽しんでいた。
時間だけが、静かに過ぎていく。
この沈黙が、俺の勝利を確かなものにしていく。龍馬たちは、今頃もう伏見の町を抜け、淀川の船上にいるはずだ。藤堂たちが稼いだ時間に加え、俺がこの場で稼いだ時間が、彼らの生存確率を限りなく百パーセントに近づけている。
やがて、諦めたように同心頭が深く、深くため息をついた。彼は、まるで十歳は老け込んだかのような顔で、俺に向かって力なく首を振った。
「……永倉様。今宵は、我らの早とちりであったようだ。この度の非礼、何卒ご容赦願いたい」
「なんだ、もう終わりか? まだ部屋の隅々まで調べていないじゃないか。押し入れの中とか、天井裏とかに、あんたたちの言う『坂本龍馬』が隠れているかもしれんぞ?」
俺の皮肉に、同心頭は悔しさに顔を歪め、拳を固く握りしめた。だが、もはや彼に選択肢は残されていない。
「……我らは、これにて失礼する。……引き上げるぞ!」
同心頭が苦々しく吐き捨てると、役人たちは、まるで獲物を取り逃がした狼の群れのように、すごすごと部屋を出ていく。階段を降りていく足音は、来た時とは比べ物にならないほど力なく、そして敗北の色に染まっていた。
やがて、階下からも役人たちが引き上げていく気配がし、寺田屋に再び静寂が戻ってきた。
俺は、その場にゆっくりと胡坐をかいた。全身から、どっと力が抜けていく。
(……終わった、か)
一滴の血も流さず、一人の死人も出さず、俺は坂本龍馬を救った。
これは、剣の腕前だけでは決して成し遂げられない勝利だ。俺が持つ現代知識、そして新選組という組織の中で築き上げてきた立場、その全てを駆使して掴み取った、知恵の勝利。
「ふ、ふふ……はははは!」
思わず、笑いが込み上げてきた。最高に愉快だ。歴史の奔流に抗い、未来を変える。その手応えが、今、確かにこの手の中にある。
「永倉様……」
階下から、心配そうな女将のお登勢さんの声が聞こえてきた。俺は立ち上がり、障子の残骸を跨いで廊下に出る。
「ああ、女将さん。すまない、店を荒らしてしまった。後始末は、こちらで責任を持つ」
「いえ、そのようなことは……。それよりも、お怪我は?」
「ご覧の通り、ピンピンしてるよ。それより、酒をもう一本頼めるか? 祝杯だ」
俺はニヤリと笑い、そう言った。
窓の外には、静かな伏見の夜が広がっている。遠くの空が、少しだけ白み始めていた。
(龍馬……。あんたは、俺が繋いだ命で、一体何を成す?)
その答えを見るのが、楽しみで仕方がなかった。
俺は、新しい日本の夜明けを夢見ながら、勝利の酒を静かに待った。




