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第113話:寺田屋の密会

 伏見の夜は、京のそれとはまた違う顔を持っていた。淀川から吹き付ける湿った夜風が、船着き場の喧騒の残り香と、ほのかな酒の匂いを運んでくる。俺たちは寺田屋から少し離れた船着き場の物陰で馬を降り、息を潜めていた。闇に慣れた目で、前方の旅籠「寺田屋」の大きな建物を睨む。


「さて、と……」

 俺は三人を呼び寄せ、低い声で切り出した。

「これから、この寺田屋にいるある男を助け出す。名は、坂本龍馬。土佐の脱藩浪士だ」


 俺の言葉に、三者三様の反応が返ってきた。原田は「坂本龍馬?」と面白そうに呟き、藤堂は眉をひそめて何かを考え込んでいる。島田君だけは、変わらぬ実直な眼差しで俺の次の言葉を待っていた。


「なぜ、そんな男を助ける必要があるんです?」

 最初に口を開いたのは、やはり藤堂だった。彼の問いはもっともだ。新選組が、勤王の志士として知られる男を助ける理由など、普通に考えればどこにもない。


「奴は、ただの勤王の志士じゃない。この国の未来を変えるために、必要な男だ。今はそうとだけ言っておく。詳しい話は、ここを切り抜けてからだ。今は、俺を信じてほしい」

 俺は藤堂の目を真っ直ぐに見つめて言った。そして、三人の顔を順に見渡す。

「もう一つ、重要なことだ。今回の動きは、新選組の任務じゃない。俺、永倉新八個人の頼みで、お前たちに来てもらった。だからこそ、絶対に公にはできない。伏見奉行所や、ましてや薩摩藩と事を構えるような真似は、絶対に避けなければならない」


 俺の言葉に、場の空気が引き締まる。これは、いつものような「不逞浪士の斬り捨て」ではない。政治的な火種を孕んだ、極めて繊細な作戦なのだ。


「つまり、見つからずにそいつをかっさらってくればいいんでやすね? 鬼ごっこみてえで面白そうだ!」

 原田が、状況を単純化してニヤリと笑う。その単純さが、今はかえって頼もしかった。


「まあ、そういうことだ。だが、相手は伏見奉行所と薩摩藩の精鋭だ。鬼ごっこで済むと思うなよ」

 俺は釘を刺し、地面に寺田屋の簡単な見取り図を描いて説明を始めた。


「敵の主力が来るとすれば、この表通りからだ。原田、お前はそこの角の飯屋の影に潜んで、正面口を監視しろ。奉行所の役人や、それらしい連中が現れたら、すぐに島田君に知らせろ。ただし、連中が動くまで、絶対に姿を見せるな」

「おう、任せとけ!」


「藤堂、お前は裏手だ。寺田屋の裏口と、そこから伸びるこの路地を見張れ。敵は正面からだけでなく、退路を断つために裏手にも伏兵を置いている可能性が高い。薩摩の連中ならやりかねん。いざという時の脱出路も、頭に入れておけ」

「承知しました。裏路地の構造は頭に入っています。もしもの場合は、川沿いに抜けるのが最善かと」

 さすがは藤堂だ。すでに複数の脱出ルートを想定している。


「そして島田君。君は、俺と原田、藤堂の中間に位置して、全体の連絡役を頼む。そして、万が一の時の最後の砦だ。俺の合図があるまで動くな。だが、もし俺がしくじり、敵が龍馬に迫った場合は、お前の判断で突入し、力ずくででも龍馬を連れ出せ。その巨体と腕力は、こういう時にこそ生きる」

「はっ。必ずや」

 巨漢の島田君が、重々しく頷いた。彼の存在そのものが、作戦の成功を担保する保険だった。


 俺は立ち上がり、自分の愛刀を島田君に預けた。

「打刀は預かってくれ。物々しい得物を持っていては、客として入るには不自然すぎる。この脇差一本で行く」

 腰の脇差の柄を確かめる。護身用としてはともかく、複数の敵を相手にするにはあまりに心許ない。だが、今は警戒心を抱かせないことが何よりも優先だ。


「いいか、繰り返す。目的は、あくまで龍馬の救出だ。敵との戦闘は、最後の最後まで避けろ。俺が龍馬を連れて出てきたら、合図と共に一斉に離脱する。死ぬなよ」


 俺はそう言い残し、三人に背を向けた。闇に紛れるようにして寺田屋へと向かう。三十間ほどの距離が、やけに長く感じられた。山崎君の情報によれば、薩摩の連中はすでにこの周辺に潜んでいるはずだ。どこかの窓から、あるいは路地の暗がりから、無数の目に見られているような錯覚に陥る。


 寺田屋は、伏見の船宿の中でも特に大きな構えの旅籠だった。夜も更けているというのに、中からはまだ賑やかな声や明かりが漏れている。俺は一つ深呼吸をして、ごく普通の旅人を装い、格子の戸を開けた。


「ごめんください」


 中に入ると、帳場に座っていた女将らしき恰幅の良い女性が、少しばかり怪訝な顔で俺を見上げた。この人が、お登勢か。史実では、この人が龍馬を息子のように可愛がり、彼の活動を支えたとされる人物だ。


「おや、お客さん。もうお終いの時間どすけど」

「夜分にすまない。土佐の坂本様にご紹介いただいた者だが、今宵こちらにお泊りだと伺って、ご挨拶に参上した」


 俺は、当たり障りのない口実を述べた。俺の風体と、腰の脇差を値踏みするように見たお登勢だったが、坂本龍馬の名前が出ると、少しだけ表情を和らげた。

「ああ、坂本さんのお知り合いどすか。あのお人は、ほんまに顔が広おすなあ。今、二階の『梅の間』におられますえ。お連れ様と、楽しそうにやってはります」


「お連れ様」という言葉に、俺の眉がわずかに動く。三吉慎蔵か。

「そうか、それは良かった。邪魔をするのも悪いが、一言ご挨拶だけでもしておきたい」

「ほな、ご案内します」


 お登勢に連れられ、磨き上げられた急な階段を上がる。きしむ床板の音が、やけに大きく響いた。二階の廊下は静まり返っていたが、一番奥の部屋から、楽しげな男女の笑い声が漏れ聞こえてきた。


(男女……? 三吉慎蔵ではないのか?)


 俺の胸に、新たな疑念が浮かぶ。お登勢は、その部屋の前で立ち止まると、「坂本さーん、お客さんどすえ」と声をかけ、俺に目配せをして階下へ戻っていった。


 障子の向こうの笑い声が、ぴたりと止まる。

「……客? わしにかのう?」

 聞き覚えのある、土佐訛りの呑気な声が聞こえた。俺は息を整え、静かに声をかける。


「夜分に失礼。長崎では世話になった、永倉だ」


 その瞬間、障子の向こうの空気が変わった。数秒の沈黙の後、勢いよく障子が開かれる。そこに立っていたのは、紛れもない、坂本龍馬だった。彼は目を丸くして俺を見つめ、やがて破顔した。


「おお、永倉殿! まこと、永倉殿か! いやあ、これは驚いた! なぜ、おまんがここに!?」

 黒い着流しをラフに着こなし、少し伸びた髪を無造作に結わえている。長崎で会った時と変わらない、人懐っこい笑顔だ。だが、今の俺には、その笑顔を素直に受け止める余裕はなかった。


「少し、話がある」

 俺は彼の肩を押し、部屋の中へと自ら進み出た。そして、彼の返事を待たずに、背後の障子をピシャリと閉める。その俺のただならぬ様子に、龍馬の笑顔が消えた。


 部屋の中には、酒の匂いが満ちていた。卓の上には徳利と杯が並び、その脇には、息を呑むほど美しい女性が、不安げな表情でこちらを見ていた。切れ長の目に、すっと通った鼻筋。黒髪を島田に結い上げ、薄紫の着物を着こなしている。この女性が、お龍か。史実通りなら、龍馬の未来の妻となる人だ。


「……永倉殿? いったい、どうしたがじゃ」

 龍馬の声から、陽気さが消え、警戒の色が滲む。俺は彼の問いには答えず、部屋の隅に座るお龍に視線を向けた。


「人払いをお願いしたい。あんたの命に関わる、重要な話だ」

 俺がそう言うと、お龍はびくりと肩を震わせ、龍馬の袖を固く握った。龍馬は、そんな彼女を安心させるように軽く袖を叩くと、俺に向き直った。その目は、もはやただの人の良い男のものではない。数々の修羅場をくぐり抜けてきた、革命家の鋭い光を宿していた。


「このお龍は、わしの妻になる女じゃ。この者には聞かせられん話かえ?」

「……そうか。ならば、構わん。だが、今から俺が話すことは、決して他言無用。いいな」


 俺は二人の顔を順に見据え、そして、単刀直入に切り出した。

「あんた、狙われているぞ」


 部屋の空気が、凍りついた。龍馬の眉がひそめられ、お龍が息を呑む音が聞こえる。

「……狙われちゅう? 誰にじゃ」


「伏見奉行所だ。連中は、三日後の二十三日、亥の刻過ぎに、この寺田屋を包囲し、あんたを捕縛するつもりだ」

 俺の言葉に、龍馬は鼻で笑った。

「奉行所が? わしは、幕府のお尋ね者じゃ。狙われるがは、今に始まったことではない」

 その余裕のある態度に、俺は首を横に振った。


「今回は、ただの捕縛じゃない。奴らは、あんたを殺す気だ」

「……なに?」

「奉行所の背後には、薩摩がいる。奴らがあんたの情報を奉行所に流し、合同で作戦を立てている」


「薩摩」という単語が出た瞬間、龍馬の表情が初めて大きく揺らいだ。

「さ、薩摩が……? 馬鹿な! わしは、薩摩の小松様や西郷様とは、昵懇の間柄じゃ! 薩摩がわしを狙う道理がない!」


「道理など知らん。だが、事実は事実だ。伏見に潜伏している薩摩藩士は、少なくとも十五名。その中には、人斬り半次郎こと、中村半次郎もいる」


「中村半次郎」という名が、とどめの一撃となったようだった。龍馬の顔から血の気が引き、彼はよろめくようにして畳に手をついた。傍らのお龍が、「龍馬さん!」と悲鳴に近い声を上げる。


「奉行所の捕り方三十と、薩摩の剣客十五。合わせて四十五の兵力が、三日後の夜、あんた一人を殺すために、この寺田屋に殺到する。これが、俺が掴んだ情報の全てだ」


 俺は、畳みかけるように事実だけを告げた。同情も、憶測も挟まない。ただ、冷徹な事実だけが、この男を動かす力になると信じて。


 部屋に、重い沈黙が落ちる。蝋燭の炎が、パチリと音を立てて爆ぜた。龍馬は畳に手をついたまま、俯いて動かない。信じられない、という思いと、俺の言葉が持つ否定しがたい真実味との間で、彼の思考が激しく揺れ動いているのが見て取れた。


 やがて、彼はゆっくりと顔を上げた。その目には、もはや混乱の色はない。あるのは、底なしの疑念と、俺の真意を探ろうとする、鋭い探求心だけだった。


「……永倉さん」

 龍馬は、震えを抑えた低い声で、言った。

「礼を言う。その情報が真実じゃとすれば、わしは命拾いしたことになる」


 彼は一度言葉を切り、俺の目を真っ直ぐに射抜いた。


「じゃが、やっぱり一つだけ分からんことがある。なぜそこまでして、新選組のおんしが、わしを助ける?」


 ついに、核心を突く問いが来た。

 俺は彼の視線を受け止めながら、静かに口を開こうとした。この男を、俺の描く未来図に引きずり込むための、運命の第一声を発するために。


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