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「レイス……」
惚けたように名を紡ぐと、彼はゆっくりとこちらを振り向いた。黄金色の光の雨を背景に、赤い瞳が私を捉える。
再度、「レイス」と無意識に唇が動けば、レイスはほんの少しの戸惑いを見せながらも、それに応えるように、「スーリア」と私の名前を口にした。
確かめるように、もう一度。
「レイス」
「……スーリア」
目尻を微かに緩めて。
少し気まずそうに、だけど穏やかに、陰り一つ無い眼差しを私に向けながら、レイスは私のことを呼んでくれた。
その瞬間、私は自分の顔がくしゃりと歪むのが分かった。
レイスも私も生きている。
生きて、こうしてまた言葉を交わせている。
そう身に染みて感じると、忘れていた疲労が一斉に押し寄せてきた。溢れた涙が頬を滑り、それをボロボロになった袖で拭うことも出来ず、身体は傾く。
霊力も0に近い。本当は立っているのも限界だったのだ。
吸い込まれるように、重力に従い落ちて行く私の胸元で、ウォルが「わわっ!?」と驚きの声を挙げた。
「っ! スー!」
――――だけど地に触れる前に、レイスはそんな私の肢体を受け止めてくれた。
カランと、彼の手から投げ出された宝剣が、乾いた土を叩く。
そのままレイスは、私を横抱きに抱えて膝を折り、そっと顔を覗き込んできた。大事そうに、壊れ物を扱うような丁寧さで腕の中に収められ、なんというのかしら……ちょっとむず痒い。
間近で合わさる血色の眼差しは、どこか困惑げに揺れている。どうもレイスは、どんな言葉を私に掛けるべきなのか、深く悩んでいる様子だ。
「黒頭! スーを離せー!」
私の腕から転げ落ちたウォルが、いまだに『敵』と認識しているらしいレイスに噛み付くが、フェイ君が「邪魔しちゃダメっスよー」と暴れるウォルの背中を咥え、のそのそと遠ざかっていってしまった。いつの間にか女王のお姿も消えている。
悪魔との戦いが始まる前の、二人きりの空間に戻ったみたいだ。
降っては空中で溶ける、煌々と瞬く光の粒の中。静寂が広がる森の中心で、息をするのは私とレイスだけ。
ただ、私がレイスを膝枕していたあの時とは立ち位置が逆で、私がレイスに抱えられていることが、なんだか少し可笑しかった。
「……怪我は痛む、か?」
やっと絞り出すように、レイスが小さく口を開き、私にそう問い掛けてきた。
悪魔に乗っ取られていた意識が戻ってきたばかりのため、状況の把握が正確に出来ていないのだろう。それでも、私の危機には咄嗟に宝剣を取って助けに入ってくれたのだから、どう言いましょうか……本当にレイスは大嫌いどころか、心底私のことが大好きなのね、と。
そんなことを改めて思い、この密着している現状も相俟って、些か照れが生じて恥ずかしくなる。
……ああ、でも。
そんなレイスの為に命を張った私も、お互い様なのかしら。
「元々、大した怪我はしていないわ。ついた傷は、細かなものも大地の精霊に治してもらったし」
乱れた髪もそのままに、私はレイスの胸元に顔を預けたまま、首をゆるりと横に振った。
身体は現状、どこも無傷と言える。
だからもう大丈夫だと伝えたつもりだったが、レイスの顔は晴れない。
私を支える手も、どこか遠慮がちで、触れ過ぎないように気を付けているようにも感じる。まだ彼は、長い呪いから解放された実感が湧かないのかもしれない。
もう、どれだけレイスが私に触れたって、自身が私を傷つけることは無いというのに。
「もちろん私に怪我をさせたことで、貴方が悔いることも無いのよ? 私は、『レイスに』剣を向けられた覚えは、一つも無いわ」
「だが……服や髪も……」
「このくらい、何ともないわよ。ある程度は覚悟の上だし」
私の金茶の髪を梳く長い指先は、やはり少しぎこちない。
ロア君には謝らないといけないだろうけど、と、私は切り裂かれた白い衣服に視線を馳せる。気に掛かるのはドレスの修復代くらいだ。
いや、これはもう、きっと作り直しね。
精霊姫の衣装っていくらするのかしらと、それだけが心配。
「レイス?」
そこで、会話は再び途切れた。
レイスは秀麗な眉を寄せて、何かを言い淀んでは唇を閉ざす。
私に対して、危険な目に合わせて『すまない』と謝ることも、救ってくれて『ありがとう』と感謝の意を述べることも、どれもこの場には相応しくないように思う。レイスもそう感じているからこそ、きっと私に伝えたい想いは沢山あるのに、適当な言葉にならずに苦悩しているのだろう。
私も同じだ。
いっぱいレイスと話がしたいのに、上手く感情が喉を通過しない。
特に、悪魔によって、本当の想いを口にすることをずっと封じられてきたレイスは、『言葉』というものを声にすることに、どうしても躊躇してしまうのかもしれない。
金色の雨と共に、お互いの間に沈黙が積もる。
一体そうやって、どれくらいの時間が経っただろう。
どちらも黙したままの空間は、不思議と居心地は悪くはなかったが……私はようやく、彼に伝えなくてはいけない、まだ伝えていなかったことを思い出した。
下からレイスの整った顔を見上げて、仄かな笑みを型通りながら声を掛ける。
「……ねぇ、レイス。貴方は知っていた?」
「何をだ……?」
「私はね――――実は貴方が初恋なの」
虚を突かれたように、レイスが切れ長の瞳を見開く。
私に被さるレイスの背後には、青い空に光の粒子が星屑のように散り、鮮やかに輝いていて、涙の膜がまだ残る瞳には僅かに眩しい。
…………そう。
私はレイスから、『殺したいほど、愛している』なんて、かなり熱烈な告白を受けたわりに、自分の気持ちは彼に直接、いまだに打ち明けてはいなかったのだ。
その答えを今、返しておかないと。
きっとレイスは、幼い頃からの私の想いなんて、微塵も知りはしないだろうから。
私は重たい頭を動かして、彼の胸元に小さく頬を摺り寄せた。
『悪魔騎士』なんて異名をつけられるほどに強くて、だけど強情で不器用で。
自分の想いや命を犠牲にしても、最後まで私を守ろうとしちゃうくらい私が大好きな、愛しい私の幼馴染。
「私の初恋は貴方よ、レイス。私はずっとずっと、貴方が好きだった。……そして馬鹿な私は、どうもまだ、その初恋を捨てられずにいるみたい」
「愛しているわ、レイス」、と。
肌を撫でる暖かな風に乗せ、体中が熱くなる感覚も気にしないよう努めて、吐息のような小声で囁けば、レイスはぐっと喉を鳴らして、今にも泣き出しそうな表情を浮かべた。
そして、一拍の間の後。
鼓膜を直接震わせる、低く掠れた声で、「俺もだ」、と。
そう呟いたかと思えば、彼は私の頬に指先を這わせた。決して冷たくなどない、悪魔など身の内に存在しない、人間らしい確かな温度が宿る指だ。
視線が至近距離で交差して、レイスの顔が視界いっぱいに広がる。
気付けば重なっていた唇は……どこまでも暖かった。
「俺も、お前を愛している、スーリア」
「……知っているわ」
「お互いに馬鹿よね」と笑えば、レイスは赤い瞳に私だけを映して、見惚れるほど綺麗に微笑んだあと、私を優しく抱き締めてくれた。





