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糖蜜のように甘い花の香りが鼻孔を満たした。
ふわり、と羽でも乗ったのかと思うくらい、軽く柔らかな感触が頭頂に触れる。
見上げれば、音もなく現れた精霊女王は、宙に浮き優しげな眼差しを注ぎながら、そっと私の頭にその御手を置いていた。
――――艶やかな唇が、「よくやった」と呟いた刹那、獣の咆哮のような叫びが前方から響く。
フッと、レイスから黒々しい影が離れていくところを、私は瞬きの合間に確認した。
糸が切れたように傾いたレイスの身体を、地に倒れる前に、何処からかまさに風のように現れたフェイ君が、その灰色の肢体で受け止める。
空中では、黒い靄の集合体のようなものが、黄金の光の粒に囲まれていた。
あれが……悪魔の本体?
「スー!」
呆然と座り込んだまま、女王の力で拘束されているのであろう、悪魔の様子を見上げていた私の胸元に、勢いよく何かがへばり付く。
なんだか、事件の時もこうして現れてくれた気がする、私の小さな相棒だ。
ウォルはあの時と同じ、いやそれ以上に、声を張り上げわんわんと泣いていた。
「スー! ボク、ボクね、本当はもっと早く、スーのところに駆け付けたかったの! でもでも、ジョオウサマやフェイがダメだって……! ボク、本当にスーが悪魔に殺されちゃう気がして怖くて……っ」
「……ええ、心配かけてごめんなさいね、ウォル」
「やっと来れてっ、でもスー、怪我している! だけど生きている! うう……スーのバカー!」
尻尾と瞳から無数の水滴を飛ばしながら、ウォルはポカポカと短い前足で私の胸を叩いた。
本当に不安だったのだろう。話していることは支離滅裂だが、私が無事だったことへの安堵は痛いほど伝わってきた。
「ありがとうね、ウォル」
心配ばかりかけたお詫びに、アルルヴェール領に帰ったら、ウォルに好物のパイを沢山食べさせてあげようと思いながら、私はそのふわふわの身体を優しく撫でる。
そんなやり取りをしていたら、羽が緑の葉になっているインコが一匹、いつの間にか私の肩に乗っていた。インコが歌うように囀ると、怪我をした箇所が淡く光る。インコが飛び立つ頃には、傷はすっかり治っていた。
流石は聖なる森に住む、直に女王に仕える精霊だ。大地の精霊は癒しの力を持つと聞いたことがあるが、あっという間に痛みも引いた。ウォルは「スーが治ったー!」とまた泣いている。
様子を眺めていたフェイ君は、「ウォルは泣き過ぎッスよ」と苦笑するように鼻を揺らした。いつの間にか名前を呼び合う仲になったらしい。
姿を現した賑やかな精霊達のおかげで、なんだか一気に張っていた気が抜け始めるが、そこで私はハッと気付く。
フェイ君の背に乗っていたはずの、レイスの姿がない。
すぐさま視線を巡らせば、近くの大木の枝葉の下に、彼らしき人影を見つけた。
無事、なのよね?
「レイス……っ!」
私は急いで立ち上がり、ウォルを抱えたまま、レイスの傍に走り寄ろうとした。
しかし不意に、頭上から鈍い呻き声が響く。
立ち止まって仰ぎ見れば、今だ女王と悪魔の攻防は続いていた。
「……やはり、悪魔という生き物は執念深い」
「ぐっ、ううっ! こんな、ところで……っ!」
女王が手を翳せば、悪魔を縛る光の拘束が強まる。黒い靄は嗄れた不快な声で、金色の光で編まれた鎖から逃れようともがくが、女王はそれを許さない。
彼女の纏う圧倒的な霊力が大気を揺らし、森全体の木々がざわめいた。
絹糸のような長い白銀の髪が、突風に煽られ翻る。精霊女王は悪魔に対して、どこまでも清廉で美しい、慈悲深ささえ感じる笑みを口元に乗せながら、毅然と言い放つ。
「――――消えなさい。騎士に絡み付いていた、憐れな人の業や怨嗟の念ごと。これ以上、私の国に居座ることは許さないよ」
女王が手を優雅に振り上げれば、手首に巻かれている腕輪の、小さな鐘が澄んだ音を立てる。
泉の上に立つ、ガゼボの中に吊るされた聖なる鐘と呼応し、音は不思議なほど増幅され、枝から枝へ、重なり合う葉の間を駆け抜け、広く波のように響き渡った。
泉の水面が震え。
音は幾重にも連なり。
高らかに、悪魔を打ち払う浄化の鐘が鳴る。
再び、耳を塞ぎたくなる断末魔の叫びを挙げた悪魔は、金の光と共に弾け霧散した。
黒が呆気なく砕け散る。
きらきらと森に降る、幻想的な光の雨の中で――――レイスを長く苦しめていた、醜悪な悪魔が滅んでいく。
「……せめてっ、あの魂くらいはっ!」
しかし、最期の最期まで、消え行くことを拒んだ黒い靄の塊の一部が、私を目掛けてその魔手を伸ばしてきた。
捉えようとする女王の御手を潜り抜け、私の元に矢のように飛んでくる。
「危ない、スー!」
ウォルが私を庇おうと、腕から飛び出そうとしてくれたが、私はそれを押さえてウォルを抱き締め、ぎゅっと目を閉じた。
咄嗟の行動だ。女王の言うように、悪魔というものは何処までも執念深い。
だけど、悪魔の最期の悪足掻きは、私には指一つ届かなかった。
「――――レイス?」
「本当にっ、お前は無茶ばかりする……っ!」
瞼を押し上げてすぐ、視界に飛び込んできたのは、騎士団の白い団服に包まれた広い背中だった。
薄桃色の花弁と共に、黒髪が悠然と空を舞う。目の前には大きな影が、私を守るように確と佇んでいる。
レイスは手にしている剣……私が手放してしまった女王の宝剣を掴み、道連れにしようと私を狙ってきた悪魔の残骸を、慣れた動作で切り裂いた。
鋭い一閃が、眩い光を纏って靄を両断する。
それは、レイスが己の手で、自身の中に巣食っていた悪魔と決着をつけた瞬間だった。私は瞬きも忘れて、悪魔の最期を見届ける。
柔らかな風が吹いて。
振り払った剣先が、静かに地を向く頃。
――――今度こそ悲鳴一つ上げず、悪魔は完全に消滅した。





