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ここから最終話まで連続更新致します。
――――フッと、辺りを流れる空気が変わった。
極々小さな声で、レイスが「逃げろ」と呟いた瞬間。
私は彼の腕から抜け出し、女王の宝剣を手にして距離を取った。
立ち上がったレイスの、赤い双眸は陰りが差し、そこには虚ろで暗い闇が漂っている。彼は慣れた動作で腰元の剣を抜いた。口元を歪め、冷然とした笑みを象る様に、肌が粟立つ。
これは、レイスじゃないわ。
「やっと契約が果たされるな。お前は、大人しく命を差し出してくれるか?」
レイスの声で、彼の身体と意識を完全に乗っ取った『悪魔』は、酷く楽しげに私にそう問いかけてきた。今が満月の夜では無くて、心底良かったと思う。陽の元で相対しているだけでも、その漂う禍々しさに怖気が走る。
私はフルリと首を振って、震える身体を誤魔化すように指に力を込め、宝剣を構えた。
「悪魔に殺されるなんて御免だわ」
「そうか。それなら無理やり奪ってしまおう。たくさんたくさん、血を流すといい。どうやって殺して欲しい? 胸でも、腹でも、首でも。何処を切り開いても血は溢れる。長らく抑えられてきたからな。こうして獲物である人間の矮小な命をいたぶれるのは、とても愉快だ。最後だけは、お前に選ばせてやろうか?」
「黙って。……これ以上、レイスの声で喋らないで」
土と草の感触を足裏で確かめながら、ゆっくりと後退する。悪魔は表面化してきたばかりで、これではまだ、レイスの身体から切り離すには不十分だ。
もっともっと、私の命を囮に引き付けないと。
「奪えるものなら、奪ってみれば?」
挑発的に笑んでみせれば、向けられた白刃が煌めいた。反射的に横に飛び退けば、白い衣装のスカートがザックリと切り裂かれる。
だけど皮膚は傷ついていない。手加減されている……といより、遊ばれている感じ。
瞬く間に接近してきた悪魔は、振り下ろした剣を滑らせ、もう一度私を狙ってきたが、今度は宝剣で受け止める。
通常なら、いくら幼少期にアランおじさまに、体術のついでに剣の手解きも多少受けたとはいえ、悪魔に支配されているレイスの剣戟を捌けるはずが無い。
だがそこは、精霊姫だけが使える女王の宝剣。霊力さえ流すことに成功すれば、絶対的な強度で、剣の方が私を守るために、自然と手元を誘導してくれる。
こっちなら、マリーナさんと散々特訓したのだから。
ただ競り合いになれば、力では当然押し負ける。刃が交わったらすぐに退く。基本は躱して常に間を取るのが、女王との決め事だ。
『いいかい? 悪魔が目覚めたら、真っ向から相手取ってはいけないよ。私の授けたそなたへの加護は、わざと緩めておく。悪魔は性質上、じわじわと相手を追い詰めることを好む。それを逆手にとり、そなたは無事に場を凌いで、悪魔が表に出るまで時間を稼ぐことだけに務めなさい』
……そう、女王は『戦うな』とおっしゃった。
悪魔を捉えられる、その絶好の機会が来るまで、私はただ『逃げる』だけ。
まぁ、それでも危険に変わりはないので、最後までウォルは、私がこの作戦を実行することを嫌がっていたけど。水状の尻尾をブンブン振って「やだやだやだ、スーが危ないことをするのやだー!」と泣いて喚くウォルを、宥めるのは少し大変だった。
でも、大丈夫よ、ウォル。
心配しないで。
私は、悪魔になんか命をくれてやる気は毛頭ない。
絶対に私はこんなところで死なないし、もちろんレイスだって死なせはしないわ。
そう決めて、私は『悪魔』と向かい合っているのだから。
「強情だな。抵抗すれば、恐怖が長引くだけだというのに」
陽を照り返し、銀色に光る切っ先を私に向けたまま、悪魔は嗤う。
元々人並外れたレイスの美貌に、酷薄な悪魔の笑みが乗ると、その美しさは氷雪の如く。寒気がするほど恐ろしくも魅惑的だ。
辺り一帯を凍らせるほどの冷たい麗容さに、つい呑まれそうになるのを堪えて、また振るわれる剣を避ける。悪魔もそろそろ焦れてきたのか、幾分か速まった切っ先の動きを避けきれず、太股辺りに赤い筋が生まれた。
ひりつく微細な痛みに顔を顰める。
精霊姫の衣装であるドレスはもうボロボロだ。ロア君がこれを見たら、悲鳴を挙げてしまうのではないかというほど。
結っていた長い髪は解けて乱れ、汗で張り付いてきて鬱陶しい。髪飾りは生い茂る草木の上に落ちて、最後にリィンと虚しい音を立てた。
「っ!」
再び悪魔の銀の軌道が空を裂き、シュッと、腕に熱が走る。
宝剣の補助に頼っているとはいえ、慣れない急激な動作に、すでに息は上がり始め、対応が追い付かなくなってきていた。
つけられた傷は、どれもまだ小さく浅いが、その痛みは決して看過出来ない。多少の怪我なら、あとで治癒の力を持つ精霊が治してくれるはずだが、痛いものは痛い。足からも腕からも、ジワリと溢れた血が肌を伝う感覚は、生々しく不快だ。
そんな私の無様な姿を見て、悪魔はレイスの顔で、整った口の端をゆるりと優美に釣り上げる。
赤い舌が妖しく覗き、唇が蠱惑的に弧を描く。
その凄みに気圧された。
本能的な恐怖で、一歩下がった足は疲労も重なり縺れ、私はその場に尻餅をついて倒れてしまう。
「あっ……!」
慌ててすぐ立ち上がろうとするが、その前に悪魔が迫る。騎士服の白い裾を靡かせて放たれた悪魔の一閃を、私はなんとか宝剣で受けるが、もう流せる霊力も底をついたようだ。
カァン! と甲高い音が響く。
宝剣は弾かれ、泉の辺までガラクタのように転がった。
「……さぁ、どうやって殺して欲しい? やはり喉を裂くか。出来るだけゆっくりと、血を抜いて体温を奪うのがいいな。その白い衣服を赤に染めてから、魂を頂こう」
地に座り込む私を見下ろして、悪魔が私の喉元に剣を向ける。目前に居座る無機質な刃の鋭さと、悪魔らしい残酷な言葉の羅列に、私の全身は迫る死への怯えで震えた。
私を『獲物』としか映さない、愉悦に濡れた殺意で濁る、赤い瞳が恐ろしい。
つい己の役割さえ忘れ、瞼を落として意識を飛ばしてしまいたくなるが、その前にふと、悪魔が眉を寄せて額を押さえた。
「くっ、ああ、忌々しい。お前もこの男も、無駄な抵抗ばかりする……っ!」
「レイス……?」
私は閉じかけていた瞳を見開いた。
レイスの意識は、まだ悪魔に抗おうとしているのか。
何処までも私を守ろうとしてくれる、レイスの存在を確かに傍で感じて、私は押し潰されそうになっていた恐れを、ほんの一時忘れた。
剣先がブレて私から外れる。
悪魔が煩わしげに頭を振れば、黒い影のようなものが、レイスの背後で残像のように揺れたのを、私は見逃さなかった。
あと、少し。
「……どうしたの? 私の喉を裂くのでしょう? 斬り付けたければ、その剣で斬ればいいわ。もう悪足掻きもしない。ずっと狙っていた獲物は此処よ。さっさと殺して、私の魂とやらを奪っていきなさい」
わざと事を急かすように悪魔を煽る。
歯が鳴るのも無理やり押さえつけ、背筋を張って勝気に笑ってみせれば、レイスの身体から滲み出はじめていた黒い気が、一気に膨れ上がるのが分かった。
――――――今だ。
一瞬だけ、正気の光を取り戻したレイスの瞳と、視線が交わったように思う。
悪魔の向こうに居るレイスに届くよう、今度は場違いにも、心からの慈しむような微笑みを浮かべながら。
あとは全てを託すため、私は祈るように女王を呼んだ。





