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俺にとって唯一『故郷』と呼べる、アルルヴェール領へと発つ前。
正式に護衛騎士としての認定を受け、女王の加護が働いているおかげか、俺の中の悪魔は嘘のように鳴りを潜めていた。これならば二年ぶりにスーリアと再会しても、悪魔に意識を奪われることは無さそうだ。
……そう思い、油断をしたわけではないのだが。
やはり久方ぶりの彼女を前にして、 僅かな動揺までは完璧に消し去ることは出来なかった。
アラン院長に顔見せを済ませ、向かったスーリアの家。出てきた二年越しに会う彼女は、記憶よりも幾分か大人びて見えた。
健康的な肌や、俺を驚きと共に映す意思の強そうな瞳、快活な雰囲気はそのままなのに、女性らしい華やかさが加味されていて、俺は思わず息を呑んだ。つい「綺麗になったな」なんて、無意識の本音が出かけてしまった。
他にも王都に着いて、スーリアが精霊の悪戯を受け、頭に花弁を乗せていた時。
不意に、一緒に庭の手入れをした幼い頃の記憶が蘇り、気付けば俺は、その柔らかな金茶の髪に手を伸ばしていた。寸でのところで、自分の手に昔のような温度など無いことを思いだし、我に返って腕を引き、触れることはしなかったが。
心が揺れるその度に、大人しくなった悪魔の眠りを起こすような真似をしていれば、世話が無い。
それでまた、彼女を突き放すような態度と、棘を帯びた言葉を紡がねばいけなくなるのだから、何処までも愚かだ。
……彼女が俺の言動を受け、痛ましげな顔をしていることには気付いていた。
決別のきっかけになった、あの日のスーリアの泣き顔が浮かぶ。
同じ痛みを感じる資格は、きっと俺には無いだろう。
教会では、ロアという使徒を通して、ようやく準備の整った『精霊水晶』を受け取った。
精霊姫の世話役も担っているその使徒が、スーリアはどうも気に入ったようだ。年下に甘いところは相変わらずらしい。……何の足枷も無く、彼女と親しげに接するソイツに、お角違いの妬みを抱き、粗雑に水晶を奪い取ったことも反省対象だ。
あれほど悪魔につけ入られないよう、思惑を気取られないよう、何が起きても冷淡さを貫くと決意し、護衛騎士という立場に立ったというのに。スーリアの傍に居ると、沈めた感情が簡単に息を吹き返してしまう。
だが精霊水晶を身に着ければ、そのように俺が精神を乱し、悪魔がその隙に蠢いても、禍々しい力は水晶が吸ってくれた。
その都度、水晶は濁りを蓄積していったが、これと女王の加護があれば、何とか聖鐘節を無事に乗り切れそうだった。
教会に到着してからの日々は、警戒すべきことはあっても大きな問題も無く、拍子抜けするほど平和だったように思う。むしろ俺にとっては、ここ数年では有り得ない程、穏やかな時間が流れていた。
ただスーリアの方は、精霊姫の儀の特訓で苦心している様子も窺えた。
俺も建前として、女王との謁見時の作法を教授されたが、こちらはそう難しいものでは無い。精霊姫の役割の方が当然多く、何より彼女の気性として、細かいことが不得手だとは知っていた。大分疲労も溜まっているようだった。
昔からスーリアは、人に心配されるのも苦手な性質だ。誰かに「大丈夫か」と問われたら、反射的に辛くとも平気なフリをする。滅多に人にも頼らない。
それは孤児院で、年下の者に囲まれていた故もあるだろうが。幼い頃はそれで、俺がアイツより年上だったらと歯痒さを覚えたこともあった。
僅か二年で、根本的な性格が変わるわけも無く。街に出て、スーリアに息抜きでもさせてやれないかと、俺は思案した。そんなことを考えられる程度には、悪魔に対する危惧が薄らぎ、幾何かの余裕があったのだ。
結果的に、俺は言い出す直前まで相当葛藤したが、アイツを街へと誘った。
俺がスーリアを気に掛けているなんてことが、彼女に伝わらないよう、名目として俺の用事を作った。近々リコラの睡眠薬を受け取りに行く予定だったから、レオンの店に寄ればちょうどいい。さらには「ロアという使徒に、息抜きに付き合うよう頼まれた」ということにしておいた。
この理由なら、アイツも素直に申し出を受け入れられたようだ。
なお、街へ行く際は俺とスーリアの二人だけでなく、アイツに懐いている水の精霊もついて来た。
「スー! スーと二人だけで出掛けたかった!」
そう喚くウォルという名の精霊は、どうも俺を警戒しているようだった。水晶の効果で精霊が見えるようになったが、他の精霊は特に反応が無いのに、俺の中の悪魔の気配を察知したのか。感知能力の高い精霊だ。
もう俺が呼べなくなったアイツの愛称を、何度も繰り返す精霊の存在は些か煩わしかったが。
街へ出てはしゃぐ精霊のおかげで、スーリアも共に羽を伸ばせているようだった。……俺と二人だけでは、こうはいかなかっただろう。連れ出すことに成功したら、あとは邪魔をしないよう護衛に務めることにした。
ここでも概ね順調だったのだが――――しかし。
レオンの店で聞いた、王都で相次いでいる『精霊使い行方不明事件』の新たな情報。
護衛としてある程度の詳細は知って注視していたが、それがまさか……他の『悪魔憑き』によるものだとは思わず、『黒い蝶』という単語を耳にした瞬間、俺は舌を打っていた。
「人物が消えたのは共通して夜――――それも、月明かりの強い夜だったと」
そう、風の精霊が言い終わらない内に、俺はスーリアの腕を強引に掴んで店を出た。
人為的なものと考えていた事件が、悪魔絡みのものだったとは。
何か明確な目的のある悪魔憑きに従えられているようだし、使徒長が言っていたように、引き寄せられた悪魔がスーリアの命を狙いに来たわけではない。女王の加護がついていて、さらに別の悪魔憑きである俺が傍に居れば、事件の首謀者の中の悪魔が、わざわざスーリアを誘拐対象に定めることは無いだろうが。
それでも、何かの拍子に巻き込まれるとも限らない。
俺はスーリアを悪魔などに一切関わらせたくなくて、思いがけずアイツに触れてしまったことを後悔する間もなく、嫌な焦燥感を拭い去るように、何事も無かったかのように歩き出した。
スーリアは俺の手の冷たさに驚いていたようだったが、大人しく着いてきて、外出自体はその後も何事もなく終えられた。
事件が悪魔関連だと分かったその日から、俺はスーリアの周囲により気を配った。「夜は絶対に、勝手に外へは出るな」と、煩く彼女に何度も言い含めた。
こんな事件が重なるなんて、本当に計算外だ。
使徒長も対応に追われている。そのせいで碌な面会もままならない。教会全体が何処か張り詰め、常に慌ただしかった。
事件の首謀者である悪魔憑きが、事を起こすなら次の満月の夜だろう。
……俺にとっても、聖鐘節の満月の夜は正念場だ。ここ暫くは沈静化していた悪魔の動きも、月が満ちれば獰猛になる。聖鐘節の最中ともなれば尚更だ。
事件のことも含め、何としてでも満月の夜を無事に越えなくては。
――――そう考えていた矢先のことだった。
「黒頭! スーを助けて!」と、水の精霊が俺の元に、勢いよく飛び込んできたのは。





