22
水面から浮上するように脳がゆっくりと覚醒し、重い瞼を開ければ、まず感じたのは床の冷たさと、後手に縛られているらしい手首の痛みだった。
……ああ、そうだったわ。
私はマリーナさんを引き留めようとして、案の定、巻き込まれて。
悪魔の手によって攫われてしまったんだわ。
女性を縛り上げて床に転がしておくとか、随分な対応だ。
おまけに私はウォルの水で全身が濡れたままだし、地味に寒い。
そんな私の周辺には、同じように拘束され横たわっている人が何人も居て、今はみんな気を失っている。やつれた様子の若い男性や、顔色の悪い妙齢の女性。きっと全員、攫われた精霊使いだ。ずっと此処に監禁されていたのかしら……。
少し離れたところにマリーナさんも見つけて、ひとまず無事な姿にホッとする。
それから私は這い蹲ったまま、なんとか視線を走らせた。
元は倉庫として使われていた建物だろうか。色褪せ、朽ちかけた木の柱に壁。それなりの広さのある空間には、隅に樽や木箱が積まれている。どれも埃を被り、蜘蛛の巣がはっていて、長年置きっ放しだったことが分かる。
その荷物の傍には、無造作に女王の宝剣も打ち捨てられていた。扱いに困ってとりあえず放置した、という感じだ。
室内にランプなどの灯りは無い。
その代わり、天井近くにある小窓から、降り注ぐ月光が倉庫内をぼんやりと照らしている。
何より目を引くのは――――部屋の中央。
床に黒いインクをぶちまけて描かれた、大きな大きな魔方陣のようなもの。
二重の円の中に、数字らしきものや難解な記号が描かれており、如何にも『悪魔の儀式』といった禍々しさだ。
円に沿って等間隔数で配置された、怪しい輝きを放つ赤黒い石は、ちょうど10個。
……ロア君の生贄の数の推測は当たったみたい。
どこもかしこも空気は濁り、精霊の気は一切感じない。きっと、悪魔憑きが倉庫の回りに結界みたいなのを巡らせているのだろう。
だから親しい精霊使いが拐われても、精霊が居場所を探れなかったのか。
試しにウォルを心の中で呼んでみたが、返事は無い。
でも、もし私に女王の加護とやらが働いているなら、相棒であるウォルになら、私の気配を辿ってもらえるかもしれない。
それなら……私も気絶したふりをして、助けが来るまで大人しくしているのが賢明かしら。
そう思案していたのが、コツコツと死角からいきなり靴音が響いて、私はついビクリと肩を揺らしてしまった。「おや?」とやけに落ち着いた声が耳朶を撫でる。
靴音は私の傍で止まった。
諦めて目線を上げれば――――落ち着いた佇まいの男性が立っていた。
歳は30ほどか。
胸襟が大きく披いた農紺のシャツを着て、黒い細身のズボンを穿いている。腰にゆったりとした赤の布を巻いていて、あまり見たことのない着こなしだ。もしかしたら、この国の人間では無いのかもしれない。
レイスと同じ、だけど彼よりは色艶の落ちる、肩口くらいの長さの黒髪を、皮紐で一つに束ねている。真面目で誠実そうな顔立ちだが、瞳に光が無く……もしかして、目が見えていない、のだろうか。
それでも私が起きていることは、気配で察せられたようで、不思議そうに小首を傾げている。
その邪気の無さそうな仕草が、逆に不気味だ。
「おかしいな。あの蝶の術にかかったのなら、あと二時間は起きないはずなのに。起きても意識は朧気になるんだけど……君には悪魔の術が効きにくいのかな?」
「……あなたが、私を含め此処に居る人たちを攫った、『悪魔憑き』の犯人なの?」
相手の問い掛けは無視して、怖じ気づき震えそうになる声を抑え、出来るだけ強気を装い尋ねてみる。男はあっさりと「そうだよ」と肯定した。
「凄いね。悪魔憑きを知っているんだ」
無言で睨みつければ、男はスッと魔方陣を指差す。
その拍子に襟の隙間から、胸元に浮かび上がっている黒い逆さの蝶の印が、僅かだが垣間見えた。
「精霊使いを十人。誰でも良かったんだ、精霊使いなら。聖鐘節に入ったのを見計らって、月明かりの強い夜に、王都に悪魔の遣いである黒い蝶を放つ。黒い蝶は、見た者にとって『大切な誰か』の姿になる。それに引っ掛かってくれた精霊使いを、此処に儀式の生贄として呼び寄せていたんだけど……まさか最後の一人に、マリーナが来るなんてね」
「君みたいなオマケも来るし。びっくりした」とおどけた調子で男は肩を竦めた。
誰でも良かったといいながら、マリーナさんのことは知っているような口振りだ。そこで私はふと、男の指に目を留めた。
薄暗い空間でも優美な輝きを産む、シトリンを加工した指輪。
それは……マリーナさんの指に嵌っていたものと同じだ。
いつか彼女が言っていた言葉を思い出す。
年上で、故郷はこのナーフ王国だが他国で知り合った、目の不自由な恋人がいると。
まさか……この犯人が?
「あなた、マリーナさんの恋人……よね? マリーナさんを騙していたの」
「君はマリーナの知り合いなんだね。親しくなったのは偶然だよ。ただ、僕に悪魔を憑けた悪魔使いが、教えてくれた『ある願い』を叶える悪魔の儀式。前々から実行の機会を窺っていたんだけど、それにマリーナが利用出来そうだったからね。思いがけず、彼女と仲良くなれたのは僥倖だった」
「色々情報も提供してもらったし。この場所も、元はレヴィオン家の所有なんだ」と、男は悪びれも無く笑った。
随分と口が軽いが、私に計画の概要を知られたところで何も問題ないということか。むしろ、誰かに聞いて欲しかったとでも言わんばかりに、男は楽しげに語る。
悪魔憑きは悪魔との同化が進むと、悪魔に身体や意識を乗っ取られることもあると、ロア君は説明してくれた。この男は半分くらいもう、悪魔に犯されて理性が効いていないのかもしれない。
……それにしたって、許されたことじゃないけど。
マリーナさんは、あんなに幸せそうに、この男のことを話していたのに。
「……そこまでして悪魔の儀式で、あなたが叶えたい願いって何?」
考えるより先に、口先から出た質問だった。
私の問い掛けは、水底のように薄暗く息苦しい空間に、重さを孕んで沈む。
そのとき初めて、不自然なほどに上機嫌で笑みを絶やさなかった男が、光の無い瞳に揺れる感情を映す。少し切なげな表情は、見た中では一番人間らしい顔だった。
男は月光を背負い、ゆっくりと唇を震わす。
「ここまで準備に手間と時間をかけて、精霊使いという特別な力を持つ人間の命を10人も捧げて、悪魔に乞う願いなんて、古来から一つだろう? ……死んだ人間を、生き返らせる儀式だよ」





