20話 変わり始める日常
どこかで鳥が鳴いている。窓から見える空はうっすらと白くなっていた。
『おやすみ、薫』
いつものごとく千代田はそう言ってボイスチャットを切り、俺は朝ごはんの支度を始める。
いつもと変わらない朝。
いつもと変わらない日常。
そんな瞬間に疲れを引きずって台所に立っていると、突然インターホンが鳴った。
「……ん?」
新聞屋がポストと間違えて押したのだろうか? それとも、悪質なピンポンダッシュだろうか?
どちらにしても本来の目的で押されたインターホンではないだろう。
そう決め込んで無視していたら、二回目のインターホンが鳴った。
「なんだ?」
よくよく考えてみると、現在住んでいるのはかなりセキュリティシステムが整ったマンションである。
インターホンを鳴らすには、マンション入口で部屋番号を打ち込まなければならない。
味噌汁を煮込んでいるIHを一旦止めて、インターホンのモニターを起動すると、
「……は?」
そこに映ったのは万願寺だった。
「こんな朝早くから何のようだ」
『あ、おはようございます! ……ってあれ? もう起きてるじゃん!』
通話ボタンを押して要件を聞くと、返ってきたのは驚きの声。
「俺以外にインターホン出れる奴いないだろ」
『てっきり、最円くんのお母さんが出てくるかと思って』
あー、そのことは話してなかったのか。
「母さんは海外にいる。今ここに住んでるのは俺と桜だけだ」
『そうなんだ!?』
そう説明すると、カメラでは全体を捉えきれないほど万願寺が近づいてきた。
「桜が起きるから声は落としてくれ」
『あ、ごめん。取り敢えず中に入れてよ』
それは、唐突な要求だった。
「なんでだよ」
『朝ごはん作ってきたから』
……なんでだよ。
そして、俺は気づいてしまった。
万願寺が通学用に背負っているリュックとは別に、腕に大きなバッグを持っていることに。
「お前……母親がいるかもしれない状況で、わざわざ飯作ってきたのか?」
『あー……最円くんさ、いつも遅刻するから起こす人いないのかなーって思った』
なるほど。意味がまったくわからん。
『と、とにかく、最円くんが遅刻しないよういろいろ準備してきたから』
「わかったから、大声はあげないでくれ」
状況がよく飲み込めていなかったものの、万願寺が軽い気持ちで訪ねてきたわけではないことはわかった。
せっかく来てくれたのに無下に扱うのも気が引ける。
「今開ける」
とりあえず、俺は万願寺を部屋にあげることにした。
「そういえば、マンションと部屋番号はどうやって知った?」
『与那国先生に「最円くんを朝迎えに行きます」って言ったらすぐに教えてくれたけど?』
個人情報勝手に洩らすなよ……。桜が危ない目に遭ったらどうするんだ。
釈然としない気持ちを抱えながらもマンション入口のロックを解除してやると、数分たって今度は玄関のインターホンが鳴った。
ドアを開けると、もちろんそこには万願寺。
「おはよ」
「音をたてないようにな」
「なんか寝起きドッキリみたいだね?」
「桜の寝室に入ったら怒るからな」
「そんなことしないって。てか、なんでエプロン?」
「朝ごはんをつくってたに決まってるだろ」
「あぁ、なるほど。……え?」
驚きの声をあげて足を止めた万願寺。
彼女が思ってることはわかる。自分が作ってきたご飯が無駄になると思ったんだろう。
「安心してくれ。まだ桜の昼飯の分しかつくってなかいから、毒味して大丈夫そうなら万願寺のご飯を頂くよ」
だから、優しい言葉をかけてやった。
「……うっわ。せっかく作ってきてあげたのに毒味とかやるんだ」
「当たり前だろ。桜に変なもの食わせられるか」
何を言ってるんだこいつは。
その後、彼女を居間のほうへと招いて机の方へ座らせた。
「ゆっくりしていってくれ。麦茶があるが、温かいお茶かコーヒーもだせるぞ」
そう言うと、万願寺はキョトンとした顔をした。
「へ? ゆっくりって……もう、ご飯食べて家でないと授業遅れるよ?」
は? マジで何を言ってるんだこいつは。
「桜が起きてくるまであと三十分あるぞ? それまで家をでるわけだろ」
「……あー、なるほど」
「なんだよ」
彼女は一瞬呆けていたが、まるで、すべてを理解したとでも言うかのような呆れ顔をした。
「最円くんが遅刻してたのって、寝坊じゃなかったんだ……」
「寝坊したら誰が桜に朝ごはんつくるんだ」
直後、万願寺は大きな大きなため息。
「最円くんって重度のシスコンだったんだね……」
「なわけないだろ。桜と結婚したら社会的に変な目で見られるからな? そんな視線に桜を晒せない。結婚はできないな」
「結婚のことまで考えてる時点でおかしいけど」
「舐めるな。俺は離婚のことまで考えている。もしそうなっても桜の子供はちゃんと育ててやりたい。どんな形であってもな? だが、安心してくれ。間違いを犯すつもりはないから」
「……やばすぎ」
それから万願寺は頭を抱えた。
「妹ちゃんかぁ。こんなんもう、敵は本能寺にありじゃん……」
敵は本能寺にあり、というのは明智光秀が主君であった織田信長を裏切って本能寺を攻めるときに用いたとされる言葉である。
使いかたは『本来の目的は別にあり』。ちなみに、裏切りとか謀反を起こす際に使われることもあるが、これは誤用らしい。
つまり、万願寺が訪ねてきた目的は別にあるということ。
「なるほどな。お前、もしかして……」
「へ!? 今の聞こえた!?」
バッと顔をあげた万願寺は頬を赤く染めてうろたえた。ったく、独り言ならもっと小さな声で呟かないといけないぞ?
「俺を遅刻させないようにすることで、さては誰かと取引しているな?」
「……」
「あたりだろ?」
「あー……、バレた?」
彼女は開き直ったように笑った。
さすがにわかる。俺はそこまで鈍感じゃないからな? 急に訪ねてきて何かと思ったが、どうやらちゃんとした企みがあったらしい。
「まぁ、詳しく追求はしないが、俺は桜との時間を減らすつもりはない。諦めてくれ」
そう言うと、追求しないことに安心したのか、万願寺は胸をなでおろした。
「とりあえず、何を作ってきたのかみせてくれ」
「う、うん」
万願寺は返事をしてから、大きなバッグからお弁当を取り出して机の上に広げた。
それは、意外にも良くできていて野菜やお肉がバランスよく取り入れられている。
ただ、
「量少なくないか……?」
「うん。最円くんの分だけだし」
「それ早く言えよ。桜の分作らないといけないだろ」
「あ、そっか。ごめん」
「いいよ。俺用に作ってくれたなら食べるから。ありがとな」
「た、食べてはくれるんだ?」
「当たり前だろ。その前に毒味だけ頼む」
そう言うと万願寺は首を傾げた。
「……なんで? 桜ちゃんの分は最円くんが作るんでしょ? なら、毒味する必要なくない?」
その言葉に、今度は俺が首を傾げる番。
「俺が倒れたら桜の面倒を見てくれる人がいなくなるだろ? なら、万願寺が毒味するのが一番だと思うが」
「……これ、うちが作ったんだよ??」
「あぁ。なら、安心して俺の前で食えるよな?」
「……」
口を開けたまま固まる万願寺。え? 俺なんか間違ったこと言った?
「いや、もういいや。……食べればいいんでしょ」
やがて、彼女はため息を吐いてそう言い、箸を取り出してお弁当から少しずつおかずを取ると俺の前で食べ始める。
その間、なぜか俺のことを涙目で睨んでいた。
……なんでだよ。




