エッジャの町で
灰色の雲から逃げるように細々とした道を西へと向かう、北から南下してくる雲に対し横に向かって移動する(多少は南へ向かっている)ので、一時間もすれば追いつかれてしまうだろう。
ちょっとずつ道はフツァ山からも離れてきているが、山の頂きよりも高い場所に暗雲が広がり始める。
埃っぽい匂いがしてきた。
山の向こうでは雨が降っているのだろう。
灰色の雲がこちらに来る前に、雨を山の向こうにすべて吐き出してくれればいいのだが。山裾から広がる森を避け、道が南西に向かって曲がり始めた。道の先には大きな岩山や丘も見えている。
黒っぽい色をした岩がこの辺りには多い。
地面は赤茶色や黒色で、肥沃な土地だと思われた。兎や大きな鼠──なんだか間抜けな顔をした、ゴワゴワとした茶色の毛を持つ鼠──などの姿を見かけた。
離れた場所に驢馬らしい四本足の生き物が居る。小さな馬に似ている──驢馬みたいに頭が大きくなく、耳も短い。頭が小さい所為か全体的にすっきりとした佇まいで、足が速そうだ。
小型の馬に似たその生き物は、草原からこちらをじっと見つめ、道行く人間を警戒していたが、やがて背を向けて足早に逃げ去った。
その馬が急に方向転換をして、ぴょんと飛び跳ねる動きをすると、林の陰に向かって凄い勢いで逃げて行く。──なにかあったのだろうか。
大きな岩の陰から馬が進もうとしていた先を見ると、大きな人影が南へ向かって移動しているのが見えた。
──森巨人か? 手に羊かなにかを持っていて、のっしのっしと南側にある森へ向かって歩き続けている。離れているので正確な事は分からないが、三メートル以上はある巨人だろう。
ずんぐりした太く短い足に、長い腕、前屈み気味に歩く姿は知性を感じない、まるで大きな亡者だ。
遠くを歩くそれは岩山の陰に入って見えなくなる。
ほっと胸を撫で下ろし、道を南西に向かって進むのを再開する。闘鬼よりも一回り大きな巨人を相手にするのは危険だ。
剣の技を修得し、かなり戦えるようになった今でも、迂闊に巨人と戦おうなどとは思わない。奴から取れる爪や歯を触媒にした魔法が使える者にとっては、そうした危険を冒してでも戦おうと思うだろうが。
巨人の歯から巨人や魔獣を生み出す召喚魔法がある。
そうした技術の多くが、古い魔術の系統から派生したと考えると、古代魔術言語を理解し、新たに死導者の霊核に組み込まれた者たちの記憶を探れば、俺にもいつかそうした巨人を操る魔法が使えるようになるかもしれない。
かなり強力なそれらの魔法があれば、今からでも宮廷魔導師になる事も可能だろう。──ま、そんなつまらん野心は学生時代に綺麗さっぱりと別れを告げてしまったのだが。
山の向こうから押し寄せてくる灰色の雲、それから逃げるように南西へと歩き続けた。山の上空あたりで灰色の雲が動きを弱めたのは、あの辺りで風の流れが弱まり、左右へと広がっているからだろう。
この機会に早いところエッジャの町へ──そんな風に思いながら進み続けたのだが、道の先に町の壁らしき物が見え始めると、道の手前で嫌な物を見つけた。
放棄された馬車だ。
それも比較的新しい。
馬の姿はなく、道端に無造作に置き去りにされた馬車が、大きな岩場の近くにあるのだ。
近くの草むらからは鳥か、小さな生き物の鳴き声が聞こえてくる。
「チチチチチッ」
「キュゥン、キュゥン」
そんな変わった鳴き声──生命探知で周囲を警戒したが大きな影はなく、敵対的な存在も感知しない。
俺は馬車に近寄って調べてみる事にした。
町から離れた場所に放置された馬車、その向きからしてエッジャの方からこちらに向かって走って来たはずだ。
「馬はどうしたのか」
馬を繋げる棒が伸びた下、地面に黒い固まりを見つけた、……血の跡だ。
馬は殺害され食われたのか? いや、それなら骨くらいは残されているだろう。馬の身体を持ち去ったのだろうか。
馬車を見ると側面がへこんでいる、棍棒かなにかで殴られたみたいだ。
「巨人の仕業か?」
馬車の後方に周り込むと、そこにも大量の血痕が地面に広がっていた。それは黒く染まり、数日前に流れた血であると思われた。
雨が降ったあとでも血痕がこびり付いて残っているのだ。
開いたドアの中を確認すると、中には誰も乗っていない。荷物も奪われてしまったらしい、なにも残されてはいなかった。
凄まじい力で叩かれたのだろう。馬車は道端に生えた木に激突し、無理矢理停車させられたのだと思われる。
「犯人は巨人と──小鬼か?」
地面を調べると、大きな足跡と小さな無数の足跡が道に残されていた。黒く固まった血の跡にも小さな足跡が残されていたのだ。
「巨人の足跡にしては──小さい方だな。あるいは闘鬼かもしれないか」
人喰鬼なども大きな足跡を残すだろう。
いや、それよりも──
「まさか──エッジャの町は?」
馬車を調べるのを止めて、石の壁に囲まれた町の方を見ると、壁の間にある大きな門扉が開放されたままになっている。
人影はない。
警戒しながら町に近づいて行くと、どうやら魔物の襲撃にあったらしいと分かってきた。町の周辺には血の跡や武器が散乱し、中には鎧を着た人間の死体や、小鬼の死体なども転がっていたのである。
多くの死体は持ち去られたか、喰われでもしたのだろう。血の跡よりも死体の数は少ないように思われた。
「最悪だな……」
町で一休みしようと考えていたのに、まさか町が滅ぼされているとは……この町の兵士たちはどうしたのか、全滅したのだろうか。
もしこの町を放棄して逃げ出した者が居たのなら、他の町の戦士ギルドでエッジャの町が亜人の襲撃を受けた、と話題になっていたのではないか。
そう考えるとこの町の兵士や住民は皆殺しにされた、と考えるのが妥当だろう。
それほど大きくない町とはいえ、そんな事が可能なのか? 俺は訝しみながら町を囲む壁にある大きな門をくぐって町の中へと入って行く。
そこは荒れ果てていた。
門から繋がる通りに血の跡や、壊れた荷車や馬車が放置されている。中には崩れかかった建物があり、窓が破壊されて大きな穴の空いた壁などもいくつかある。巨大な腕が窓から部屋の中を探ったのだろうか。
町の中には死体が無かった。ただ、大量の血痕がある場所を見つけた。町の中央に大通りが交差する広くなった場所があり、そこは黒々とした血痕で埋め尽くされていた。
町を襲撃した化け物どもが、この場で宴会でも開いたのだろうか。──火を熾した跡も残っている。荷車かなにかをばらばらにして薪にしたらしい、一部が焦げた車輪が残されていた。
辺りに満ちる錆びた鉄のような臭いの中に、つんと鼻につく異臭が一部から感じられた。その方向を見ると、地面が一部変色している場所がある。
「この臭いは……小便か?」
状況から推測すると、この町の住人の一部は生きたまま捕らえられて一ヶ所に集められ、亜人たちが兵士や市民の死体を喰らうさまを見せつけられた。集められた虜囚たちは人肉を喰らう亜人どもに恐怖し、失禁してしまった──という事だろう。
──そして数ヶ所に、折り重なるようにして積み上げられている、焦げ目の付いた白い棒や、歪な皿などがあった。……それは人骨だ。
町の中をくまなく探ってみたが、生存者は見つからなかった。亜人や化け物の姿もない。町の東と西にある門はどちらも開放されたままになっており、冷たく乾いた風が町の中を通り過ぎて行く。
生命はこの町には一つも残っていない。
俺は比較的荒らされていない一軒の家に入ると、そこにあった椅子に腰かけ、少し考えたあとで──この町の状態を戦士ギルドに報告する気持ちになった。
魔術の門を開き、魔神ヴァルギルディムトから渡された「伝書鳥の骨」と、それを復元して操る魔術えお解析したものを研究して、なんとかその技術を使って伝書鳥を作り出せないかと取り組んでみたが、やはり無理だろう。
死霊術に関係する中級程度の力を扱う魔術のようだ。
「くそ、ブレラの屋敷に飛ばすんじゃなかったな」
今こそあの伝書鳥が役立つというのに。
それにしても、この町を襲撃するだけの亜人や魔物が群れをなし、町の住民を全滅させるつもりで襲いかかるとは。
町の外にあった馬車を見ても、逃げ出そうとした町の人々も逃さず皆殺しにしたのだろう。町に続く道に沿って伏兵を用意し、逃げ出す者を襲ったに違いない。
かなり知性の高い者が統率していたのだ。
他の町は無事なのだろうか、エッジャ周辺の町は近くても数十キロ、下手をすると百キロ以上はなれた場所にある。
大規模な魔物の群れが移動すれば気がつくはずだが。この町を訪れる商人なども居るだろう。
血痕の様子から見ると、襲撃を受けてからおそらく数日は経過しているだろうが、町中に見られる様々な痕跡の中から気になる足跡を見つけたのだ。
大きな蹄の跡。それはたぶん半人半獣の化け物──猪豚の闘鬼、牛頭闘鬼のような魔物──のものだろう、それが数体分あった。危険な集団であるのは間違いない。シン国の兵士はこうした魔物の活動を看過しないはずだ。
これほどの数──軍勢と言っていい数になると、この群れを率いている存在が居るのではないかと考える。
そうこうしているうちに雨が降り出した。
しとしとと降っていたかと思ったら、ざ──っと音を立てて土砂降りになった。
雷鳴などはない。
外に出る訳にもいかず、民家の中で昼食を取る事にした。
幸い暖炉と一体化した調理場がある。薪も残されていたが、食料などはなくなっていた。亜人たちが持ち去ったのだろう。
暖炉に薪を突っ込み火をつける。
塩漬け肉やパンを焼いたりしながら火で暖をとる、雨が降った所為で冷えてきたのだ。
戸の壊れた窓から冷たい風が吹き込んでくる。
暖炉の火が揺らめき、薪がぱちっと音を立てた。──────静寂。
町は死んだように静かだ。
気がつくと雨はやんでいた、窓の外から日差しが差し込んでくる。
肉をひっくり返し表に出ると、空は晴れ渡っていた。通り雨だったらしい。風向きが変わり、雨雲はどこかへ行ってしまった。
濡れた地面、水たまりが赤黒く染まっている場所もある。
この町を守った兵士たちも懸命に戦ったのだろう。引き裂かれた鉄の鎧や、折れた両刃の剣、割れた鞘などが落ちていた。
このような残酷な破滅が何故、この町を襲ったのか?
レファルタ教の教会も無く、シャーディア教団の施設も見当たらないこの土地で、どんな神を祀っていたかは分からない。
小さな神殿らしい場所もあったが、なんの偶像もなく、無機質な空間があるだけの祈りの場。この町の信仰心は自然信仰に近かったのかもしれない。山側に作られた神殿風の小さな建物。
そこには祀られていた神などいなかったのだろう。
市民の一人一人がそれぞれの思い描く精霊や、神を畏れ敬う──そんな素朴な信仰心を抱く者たちの町だったのではないか。
だが、この町を救う神などどこにも居なかったのだ。むしろこの町の住人は、魔神や邪神を崇めていた方がマシだったかもしれない。化け物どもに襲われ、無惨に喰い殺されるよりは。
肉やパン、チーズを食べると気持ちが落ち着いてきた。
町の惨状を見せつけられた俺は、知らず知らず気持ちが昂ぶっていたらしい。
この町の住人が虐殺された場で食事を取り、落ち着くとは──我ながら、多くの死霊や魔神などと渡り合ってきただけはある。
軽めの食事のあとにゆっくりと休憩を入れた俺は、しんと静まり返る周囲に神経を張り巡らせる。
「聴死」の霊感はしないが、なにかがあると感じ始めたのだ。嫌な予感が静寂の中から響いてくる。
どん、どどん、どん、どどん……
遠くから音が聞こえてきた気がした、まるで振動が響いてきているみたいに。
だが──その音は、空間そのものが鼓動しているみたいに感じる音だ。
建物の外に出ると、ミシミシとなにかが軋む音が聞こえる。それもどの方向からという断定ができない。あらゆる方向から聞こえてくる。
「まさか──異界化⁉」
どぉぅぅん──そんな奇妙な音が弾けた。
崩れ去る視界。
しかしそれは一瞬の事。
目を細めたそのあとには、暗い赤色に染まる町の中に一人立っていた。
町の様子は一変し、空は赤い色に染まっている。
異界の中に閉じ込められてしまったのだ。
土が剥き出しの道の先でなにかが動いた。俺は建物の陰に隠れて様子を窺う。
混乱と恐怖が心の中を侵蝕してくる。──駄目だ、そうした情動に流されてはいけない。
俺は意識を集中し、覚悟を決めた。
この異界を作り出す者を倒し、必ず生還しなければならない。
一休みするつもりが、町が全滅……
町の様子、その描写に力を入れました。町に住んでいた人の恐怖や絶望が伝われば、まあ怖い話ですね。




